『ジーヴズの事件簿――才智縦横の巻』

(P・G・ウッドハウス著、岩永正勝、小山太一編訳、文春文庫)

写真》ジーヴズには薔薇が似合う

 暮れのひととき、皇室に思いを巡らせた。天皇が85歳の誕生日を前に述べた言葉が情感あふれるものだったからだ。先の戦争の犠牲を忘れないこと、平成が戦争なしに幕を閉じそうだと安堵していること、災害時のボランティア活動には勇気づけられたこと、自分を支えてくれた人々に感謝していること……原稿を読むかたちではあったが、間違いなくご本人の真情吐露だったと思う。そのことは、映像と音声からひしひしと伝わってきた。

 

 来春はいよいよ譲位。それは2年前、皇位を退く意向をにじませるメッセージを自ら発したことで動きだした。憲法にある「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」という立場に制約されながらも、人間としての思慮分別をもちつづける。そんな強い意志が感じられる。

 

 皇室をめぐっては、今年もさまざまな報道があった。うれしい話ばかりではない。ときに当事者が触れてほしくない話もある。それを目にするのは心苦しい。一般家庭なら外に漏れない内輪の案件が、あるところまでは公然と世間の目に曝されるからだ。芸能界ではかつてプライバシー報道は有名税とも言われたが、今はメディアが慎重になった。芸能人も家庭に帰れば一市民であると認識されたのだ。だが、皇族は市民とは言われない。

 

 このことを僕自身が実感したのは、日本の皇室にではなく英国の王室に対してだった。1992〜95年のロンドン駐在時代だ。着任のころ、チャールズ皇太子とダイアナ妃が別居したので現地は王室報道であふれていた。科学記者なのでふだんは王室記事を書かないが、担当記者の出張時などに代役を務めることはある。そんなときふと湧いた疑問は、私生活を大事にする英国社会で王室はなぜここまで私事を開示するのか、ということだった。

 

 英国の空気を吸っている者として感じとったのは、英国人は家庭観や男女観を語るとき、王室の出来事を例題にしているのかもしれないということだ。夫婦の破綻や男女の別離が稀でない時代、王族の苦悩を自分たちのそれと重ね合わせているのではないか。

 

 ノーブレス・オブリージュという言葉がある。位にはそれなりの義務が伴うというのだ。英王室の人々は、その義務の一つとして私生活の一部を例題に供しているようにも思える。もしかしたら「象徴」という言葉にも、そんな役割が含意されているのかもしれない。

 

 で、今週は『ジーヴズの事件簿――才智縦横の巻』(P・G・ウッドハウス著、岩永正勝、小山太一編訳、文春文庫)。帯には「皇后陛下もご愛藏」とある。美智子妃が今秋、公務から解放される日々の心づもりを尋ねられて「ジーヴスも二、三冊待機しています」と答えたという皇室報道を引いている。行きつけの書店でも、ジーヴズ本が1カ所に集められて平積みになっていた。その商魂に乗っかって、僕も読んでみることにした。

 

 本の題名に「事件簿」とはある。ただ、いわゆる推理小説を期待して読むとあてが外れる。小さな難題が浮上してどうなるかと思っていると、機知に富む人物がそれを解決してくれるという感じ。広義の「コージー(cozy)ミステリー」に含めてもよいかもしれない。

 

 巻末にある「小伝」(訳者の小山さん執筆)によると、著者は1881年に英国ロンドン近郊のサリー州で生まれた。エリート私立校のパブリックスクールに通ったというから、家庭は裕福だったのだろう。ところが「家計の急変」で大学進学を断念、2年間の銀行員生活を経て文筆業に専念するようになった。小説のみならず、ミュージカルの作詞も。大西洋を股にかけ、米国でもハリウッドの仕事を請け負ったという。1975年に亡くなった。

 

 一連のジーヴズものが始まったのは1910年代。本書は10〜20年代の7編を収めている。この邦訳は2005年に単行本として文藝春秋社から出た。文庫化は11年。

 

 この本を開いて見えてくるのは、英国社会では20世紀初頭、上流階級の優雅な暮らしが保証されていたということだ。第1次世界大戦のころは、そんな世相が続いていた。所収作品のうち最後の1編を除く6編はバーティ・ウースターという青年が「僕」の一人称で叙述する形式をとっているが、彼も明らかにその階級に属する。それは、巻頭の「ジーヴズの初仕事」で「当時僕は財政的にウィロビー叔父が頼り」と書いていることからもわかる。

 

 ウィロビー叔父は、イングランド西部の田園地帯に屋敷を構えている。オックスフォード大学出身。爵位などは書かれていないが、貴族もしくはそれに準ずる階級にあるようだ。バーティ自身もパブリックスクールからオックスフォードという進路をたどったらしい。では、真の主役「ジーヴズ」とは誰か。これは「…初仕事」の書きだしに答えがある。「で、ジーヴズのことなんだが――うちの従僕(じゅうぼく)のジーヴズさ」

 

 「従僕」とはあるが、召し使いという感じではない。執事という呼び名がぴったりくる。それは、バーティが自分とジーヴズの関係を素描するくだりを読めばわかる。

 

 「僕がやつに頼りすぎだと思っている人間は多い。それどころかアガサ叔母なんぞは、ジーヴズのことを僕の飼い主とまで言った」。だが、そのどこが悪いのかと開き直る。「あの男は天才」なのだ、「首から上の働きにかけては、誰一人かなうものはない」のだ――。所収作品群の大半は、上流階級の「僕」が庶民層に属する「従僕」の知恵と機転に助けられるという構図になっている。それが、読み手には小気味よく感じられるのだ。

 

 これは、著者の個人史をダブらせると納得できる。少年期、パブリックスクールまでは上流社会に馴染んだが、その後、勤め人暮らしを経験して中間層の目をもった。そのことが、上流の面々を人間としてとらえ、皮肉交じりに描くことにつながったのではないか。

 

 「ジーヴズの春」という一編は、その階級意識に焦点をあてる。バーティの友人ビンゴ・リトルが軽食堂のウェイトレスに恋する。彼もまた「伯父にべったり頼ってる」身なので恋の成就に伯父の承認が欠かせないが、難しそうだ。そこで、ジーヴズの出番となった。

 

 ジーヴズが勧めたのは、広告業界が用いる「直接示唆(しさ)法」。消費者は、ある商品が良いと言われつづけるとそれに手を出すというのだ。「ある方の階級差別意識を矯正(きょうせい)するためにこの手段を採用してならない理由は見当たりません」。20世紀の資本主義経済では消費者大衆の心をつかむ攻略法が関心事となったが、その手法を上流向けに転用する痛快さ。ビンゴは伯父に『一介の女工』といった小説を読んで聞かせる。

 

 この作品集の隠し味は、上流階級の家庭に仕える使用人の間にネットワークがかたちづくられているらしいことだ。「ジーヴズの春」でも、ジーヴズはビンゴの伯父邸で働く人々、たとえば料理人のミス・ワトソンとつきあいがある。「わたくし、老リトル様の料理婦とはいささか親密な仲でして」というわけだ。だから、バーティの説明を受けるまでもなくリトル邸の家庭事情をよく知っている。ここでも上流は大衆に包囲されている。

 

 「同志ビンゴ」では、革命家気取りのビンゴが登場、バーティ宅に仲間を連れて押しかけてくる。バーティが紅茶のおかわりのために湯の追加を命じると、ジーヴズは「かしこまりました」。仲間の頭目が、その従順ぶりをとがめてジーヴズと交わす会話――「隷属(れいぞく)はいかんぞ、きみ。隷属はやめろ!」「何でございます?」「わしに『ございます』などと言うな。同志と呼べ」。居丈高な「革命」家の嘘っぽさが見えてくる。

 

 著者はジーヴズを通じて、封建主義の衰退から資本主義の変質、社会主義の台頭まで、すべてを笑いの種にする。人は人、階級なんてどうでもいいことさ、と言わんばかりに。

 

 さて、2018年がまもなく暮れる。ジーヴズ登場から100年、階級の境目は薄らいだが格差は広がっている。ネットの世界では誹謗中傷の言葉が飛び交い、寛容の精神は弱まっている。今こそ、人を人として見るジーヴズの目がほしいと切に思う。

(執筆撮影・尾関章、通算452回、2018年12月28日公開、2019年1月5日最終更新)

 

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