『漱石日記』(平岡敏夫編、岩波文庫)

写真》英国を想う

 新しい年が幕を開けた。私的には喪中にあるので賀詞は控えるが、それでも新年を迎えたことに変わりはない。いや今年の新春は、例年よりもいっそう心が改まる気がする。それというのも、いよいよ自分は老境に入ったのかな、と思う場面がふえたからだ。

 

 実際、去年は老いの加速を痛感した。自分自身、突然病に襲われ、生涯初の入院を経験した。もう、若くはないのだ。周りの人々も急に老け込んだように感じる。テレビに現れる同世代の著名人がいつのまにか年寄り顔に変わっているのに驚くこともしばしばだった。

 

 もしかしたら、若者はこう言うかもしれない。「時間が速まるなんて、いいじゃないですか」「未来がすぐにやってくるわけだから」。なるほど、そんな理屈もあるだろう。だが、現実は違う。あっという間に80歳、気がついたら90歳――そんな光陰の速さをどうみるかということだ。傘寿、卒寿は喜ばしいが、それがすぐ来てほしいとはだれもが思うまい。年をとればとるほど、今の年齢のままでいる時間がもっとほしいのだ。時よ、止まれ!

 

 目を世間に転じれば、未来はすでにスケジュール表に書き込まれつつある。今年5月には改元がある。来年は東京オリンピック・パラリンピックの開催年だ。2025年には万博が大阪である。その先にはリニア中央新幹線の開業も控えている。お祭り騒ぎばかりではない。最大の気がかりは地球温暖化だ。人間の営みが大量の二酸化炭素を吐き出しつづければ地球の生態系は破綻する。今世紀半ば、今世紀末に人類は生存しているだろうか。

 

 それなのに老境世代は、目白押しの案件を皮膚感覚でとらえきれない。理由は、未来の不確かさにある。時間加速が今のまま進めば2020年や2025年はすぐにも到来するだろう。だが一方で、自分が生き永らえている確率は年がたつにつれて下がっていく。だから、未来のスケジュール表は実感を伴わない。この世から去りゆく者は世界の未来にどう向きあえばよいのか。年頭に僕の頭を占めたのは、そんな難題だった。

 

 これは結局、個人と社会、あるいは自我と他者の問題に帰着する。人類未来のスケジュール表は個人・自我にとってはどうでもよい。そのとき、自分はそこに居合わせないからだ。だが個人・自我は存在しなくても、個人・自我と社会・他者との関係は続く。ならば未来に対して、ものを言ってよいのかもしれない。いや、ものを言う責任があるというべきだろう。老境にあって僕たちは世界をどう語るべきか、そんなことを考える。

 

 で、今週は年頭恒例の漱石本。『漱石日記』(平岡敏夫編、岩波文庫)から「ロンドン留学日記」を切りだしてみる。夏目漱石(1867〜1916)は松山中学(愛媛県)や第五高等学校(熊本県)で教師生活を送った後、1900(明治33)年に渡英、03(明治36)年に帰国した。この日記は00年9月8日の横浜港出発から留学途中の01(明治34)年11月13日まで。のちの文豪は30代半ば、世紀の変わり目を英国で過ごした。

 

 この日記を選んだ理由は、近代の自我を作品ににじませた漱石が青年期、人々との間にどんな関係を結んでいたかを知りたいと思ったからだ。たぶん、自我の自覚は孤独から生まれたのではないか。それはロンドン時代に顕著だったに違いないという予見があった。

 

 これは、同時代の博物学者、南方熊楠との対比による。熊楠は、漱石よりもやや早くロンドンで暮らしている(日記は『南方熊楠コレクション――動と不動のコスモロジー』〈南方熊楠著、中沢新一編、河出文庫〉所収、2017年6月2日付「熊楠の「動」、ロンドンの青春」)。その大らかな暮らしぶりに比べて、漱石の在英生活は短編小説「倫敦塔」などから推察すると暗そうだ(文理悠々2013年1月7日付「年の初めはシャイな漱石」)。

 

 ただ今回「ロンドン留学日記」を開いてみると、漱石は引きこもってばかりいたのではないことがわかる。たとえば、1901年2月2日にはヴィクトリア女王の大葬を見にゆく。地下鉄を乗り継いでハイドパークへ。「さすがの大公園も人間にて波を打ちつつあり」。同行した下宿屋の主人が「余を肩車に乗せてくれたり」。おかげで、なんとか女王の柩と葬列の人々の上半身を目にとどめることができたという。ミーハーと言えばミーハーだ。

 

 同じ年の8月11日には「Battersea P. 門前にて無神論者の演説を聞く」とある。“Battersea P.”はテームズ南岸にあるバタシー公園。この夏はハイドパークでも幾度か演説を聴いている。ただ、これらはいずれも通りすがりに足を止めただけだろう。熊楠もハイドパークでしばしば無神論者の演説に耳を傾けているが、こちらは演説者の一人が彼を訪ねて来るくらいの交流があった。漱石は、どこまでも英国社会の傍観者だった。

 

 キュー植物園の見学も熊楠日記と重なる。漱石は「美事なる暖室夥多(あまた)あり。かつ頗る広くして立派なるgardenなり」と書く。博物学徒のキュー詣では当然だが、英文学徒も訪れた。世界から集められた植物の展示は大英帝国繁栄の象徴だったのだろう。

 

 その帝国の現実をとらえる漱石の目は冷静だ。「倫敦の町を散歩して試みに痰(たん)を吐きて見よ。真黒なる塊(かたま)りの出るに驚くべし」。繁栄の陰に「煤烟」と「塵埃」まみれの町がある。これに対して、英国人には日本人にない長所を見てとる。「人に席を譲る」習慣からわかるように「我儘」ではないが、一方で「己(おのれ)の権利を主張す」と。外見の美醜にも言及して「この煤烟中に住む人間が何故美くしきや解し難し」と言う。

 

 ここで気になるのは、容姿からくる劣等感だ。英国人を「美くしきや」と讃えたあとに「往来にて向うから脊の低き妙なきたなき奴が来たと思えば我姿の鏡にうつりしなり。我々の黄なるは当地に来て始めてなるほどと合点するなり」という記述がある。自分の服装が冴えないことを嘆いた箇所でも「顔は黄色い。脊は低い。数え来ると余り得意になれない」と続けている。これについても、そんなことを気に病む気配のない熊楠と対照的だ。

 

 漱石の英語力はどうか。日記の文面から語彙の豊富さはわかるが、「会話は自国の言語故(ゆえ)無論我々鯱立(しゃっちょこだち)しても及ばぬなり」と率直に認めている。上流英語は「大抵分る」が庶民言葉コクニーは「分らぬ」という状態だったらしい。そう言えば僕も当初、地下鉄駅員が言う「バイカーストリート」が「ベイカーストリート」だとは気づかなかった。言葉の壁で孤独感を深めることもあったのだろうと同情する。

 

 英国人の英文学に対する造詣については「必ずしも我より上なりと思うなかれ」と書いている。その証左として例示するのは、下宿屋夫妻の知識が中途半端なことだ。英国人の大半は「家業に忙がしくて文学などを繙(ひもと)く余裕はなきなり」――考えてみれば当たり前のことだ。当然なことを肌身にしみて感じとれるのが留学の効用なのだろう。ただ、例に挙がるのがすぐそばにいる下宿屋というところに、漱石の孤独が見えてくる。

 

 ロンドンの漱石は、孤独であるがゆえに物事を相対視する賢明さを身につけたように思う。たとえば、日記にあるアジア観。英国で日本人は中国人に間違われやすいが、それを嫌がる風潮を批判する。中国人は「名誉ある国民」であり、「目下不振の有様に沈淪(ちんりん)せる」だけだという。欧州には中国人との対比で「日本人は好(すき)」と言う人もいるが、それを喜ぶのは恩ある隣人に対する悪口を面白がる「軽薄な根性」だと叱る。

 

 この日記には「妄(みだ)りに洋行生の話を信ずべからず」という一文もある。「彼らは己の聞きたること見たることをuniversal caseとして人に話す。豈計(あにはか)らん、その多くは皆particular caseなり」。個別の体験を普遍化するな、という自戒だろうか。こんな言葉を発するだけでも、漱石は相対化に長けた留学生だった。そこにシャイな人となりが重なって、彼我の違いを傍観者として見極める文化論が醸されていったように思う。

 

 ふと気づくのは、老境の僕たちはロンドンの漱石に近づいているのではないか、ということだ。老いた身は「余り得意になれない」し、若者言葉は「分らぬ」。だが孤独ではあっても傍観者として世間を見渡せば、社会・他者と分かちあう知的発見があるかもしれない。

(執筆撮影・尾関章、通算453回、2019年1月4日公開、同日更新)

 

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