「ザ・ルポルタージュ 変わる日雇いの街 大阪・釜ケ崎哀歌(エレジー)」

(樋田毅・執筆、『サンデー毎日』2019年1月6―13日新春合併号)

写真》見出しが並ぶ(朝日新聞2018年12月25日朝刊広告欄)

 週刊誌を手にとる習慣がなくなって、だいぶ時がたつ。遠い昔、学生時代には結構読んでいた。新聞とは違って、世情を斜めから眺める姿勢が好きだったからだ。だが、皮肉にも自分自身が新聞記者になり、斜め目線の記事を味読するどころではなくなった。そうこうするうちに週刊誌のほうも変わってしまったように思う。ゴシップ報道を突き詰めるか、実用路線で突き進むか。最近はその両極端が目立って、読みものらしさが薄らいだ。

 

 そんな折、週刊誌の一つに新しい動きが起こった。『サンデー毎日』新春合併号の目次に「雑誌ジャーナリズムの復権宣言!」の文字を見つけたのだ。その「宣言」を支える記事は7本。社外筆者を起用した論評やインタビュー、ルポなどが並んでいる。

 

 ふと思いだされるのは、45年前の田中金脈報道だ。週刊誌ではないが、月刊の『文藝春秋』1974年11月号に衝撃の記事2本が載った。立花隆「田中角栄研究――その金脈と人脈」と児玉隆也「淋しき越山会の女王」。データ本位の調査報道と人間像に迫るルポというふうに対照的だった。ノンフィクションの書き手がそれぞれの手法を駆使して原稿を量産したころで、その舞台として「雑誌ジャーナリズム」は活況を呈していた。

 

 「宣言」は、あの時代の空気を蘇らせたいというジャーナリスト精神の発露なのだろう。紙が電子に取って代わられ、読みものがネットのつぶやきに押しやられるようなメディア状況を考えると先行きは厳しいが、報道に身を置いてきた者として健闘を願う。

 

 で、その目次を見ていた僕は「宣言」の一翼を担う執筆者に懐かしい名前を見つけた。樋田毅さん。元朝日新聞記者で、大阪本社社会部に所属していたジャーナリストだ。1987年に朝日新聞阪神支局襲撃事件が起こると、真相解明を主務とする取材班に加わり、記者半生の多くをその仕事に費やした。去年、この事件をとりあげた「NHKスペシャル」のドラマ篇で、主役のモデルになった人と言えば思いだされる方も多いと思う。

 

 樋田さんは、個人的にも元同僚としてよく存じあげている。当欄で『記者襲撃――赤報隊事件30年目の真実』(樋田毅著、岩波書店)を紹介したいなと思っていたところだったが、そんなときに直近のジャーナリスト活動を知って、まずそちらに飛びついた。

 

 『サンデー毎日』誌に出した記事は「ザ・ルポルタージュ 変わる日雇いの街 大阪・釜ケ崎哀歌(エレジー)」。見出しにある「釜ケ崎」の3文字をみて僕が感じたのは、大阪社会部魂だ。「釜ケ崎」は大阪市南部にあり、職を求める日雇い労働者が宿(やど)をとることから「ドヤ街」とも呼ばれる。高度成長期には暴動が多発、行政は「あいりん地区」と名づけて民生対策に力を入れてきた。在阪の社会部記者にとっては目の離せない街である。

 

 僕自身が大阪在勤の科学部記者だった1980年代、社会部出身の編集局幹部が武勇伝のようにして語る釜ケ崎体験談は畑違いの記者の耳にまで届いていた。ドヤ街に潜入するときは、耳たぶのうしろの垢をあえて洗い落とさずにいた、というような話だ。取材相手の住人たちから別世界の人間と思われたくないため、という。見出しの「ルポルタージュ」と「釜ケ崎」の組みあわせに、僕はちょっとノスタルジックな気分になった。

 

 今回の記事で樋田記者(拙稿では、こう呼ばせていただく)は文字通り、その釜ケ崎取材を今、60代半ばの身で敢行した。本文に「1984年の春から秋にかけ、私は新聞記者として釜ケ崎を担当した」とあるから、30余年ぶりの再体験。ここに、この企画のミソがある。日本社会を生身の肉体で支えてきた街を昭和末期と平成末期で比べることで、平成という時代の位相を切りだす――それこそが雑誌ジャーナリズムの醍醐味というわけだ。

 

 街に入ると、そこには不変と変化が同居していた。樋田記者が「34年前に泊まったドヤ」(ドヤは簡易宿泊所)はまだ残っていた。2畳間に敷いた布団の「汗を煮詰めたような強烈なにおい」、暴動に備えて窓に取り付けられた「鉄格子」と「金網」――それらは今、どうなっているのか。泊ろうと思ったが「生活保護の長期滞在者」で満室。今回入ったドヤは15年前に改築された6階建てのビルで、3畳間にテレビ、冷蔵庫が付いていた。

 

 このルポでは治安状況も今昔で比較されている。樋田記者が1984年春に書いた新聞記事(「路上犯罪急増 襲われる野宿の弱者」)によると、当時は路上強盗が警察の知る限りで「半年間に50件」。それが今回、西成署に取材すると2018年は11月末までで5件のみ、野宿していて強盗に遭う例は皆無だという。副署長の説明によれば、住人が年をとって野宿者が減ったことや生活保護の受給者が増えたことが背景にある。

 

 高齢者の増加と福祉の拡大――これらが釜ケ崎を穏やかにした二大要因らしい。高齢化は、樋田記者が今回見かけた「『特掃』と書かれたヘルメット姿のおっちゃんたち」の姿からもわかる。「特掃」は「高齢者特別清掃事業」の略。街路をほうきとちり取りで掃除する。かつて屈強の筋力で道路を掘り返していた青壮年が今、その路面を黙々と掃き清めているのだ。高度成長を支えた世代の老いが、そのまま街の風景に映しだされている。

 

 福祉の拡大を物語るのは、シェルターという無料宿泊施設が充実したことか。「シャワーも洗濯機も無料で使える。冷暖房もある」というから快適なはずだが、それでも野宿生活を選ぶ人たちがいる。樋田記者はその一人に声を掛け、話を聞く。公共機関が入居する建物の軒下で寝袋に身を包んでいた70歳の男性だ。「俺は集団生活が嫌いだ。一人でいるのが自由でいい」。釜ケ崎は、こういう生き方を受け入れる街でもある。

 

 このルポで僕の心にもっとも響いたのは、樋田記者が認定NPO法人の「こどもの里」を訪れる場面だ。釜ケ崎の子らを預かったり泊めたりする施設で、30余年前も取材でしばしば足を運んでいた。そのころ、近所の踏切で男の子二人が亡くなる事故があった――そんなことを思いだしながら玄関に入った瞬間、「胸を突かれた」とある。二人の遺影が壁に掛かっていたのだ。「その死をずっと忘れない人がいた」ということである。

 

 二人とも父子家庭の子であり、「こどもの里」の常連だった。施設を「切り盛り」する荘保共子さんが樋田記者に言う。「釜ケ崎は貧しい人や障害のある人たちに対して日本で一番優しい街です」。有力者でなく無名の子の写真が施設を見守っているのは、その表れだ。

 

 では、釜ケ崎の下部構造はどうか。このルポによると、西成労働福祉センターの求人紹介は2017年に延べ24万9000人で、1989年の約8分の1。樋田記者が早朝のたまり場を見にいくと、労働者待ちの車は「ワゴン車が20台ほど」。かつては「100台前後のマイクロバスなどが並んでいた」から、がた減りだ。ただ、これだけで雇用が減ったとは言えない。スマホを通じて雇い主から直に仕事を得る人が出てきたからだ。

 

 このルポは最後に、釜ケ崎激変の予兆を報告している。近くに大規模ホテルの建設計画があり、地元に「ジェントリフィケーション」(高級化)という言葉が飛び交っているという。2025年の万博も追い風となるだろう。だが樋田記者は、地元の神父本田哲郎さんや前述の荘保さんの「誰でも生きられる、多様性が尊重され、弱者に優しいこの街を守り通す」という決意を引いて「私も、そうあってほしい」と書く。まったく同感だ。

 

 思いだすのは、都市問題の論客ジェイン・ジェイコブズ(1916〜2006)。当欄「トランプに備えてJ・ジェイコブズ」(2016年12月2日付)に書いたように、米国社会が自動車道路などでズタズタになった現実を批判、「地域社会が存在するためには、人々が本人同士で出会わなければならない」(『壊れゆくアメリカ』〈ジェイン・ジェイコブズ著、中谷和男訳、日経BP社〉)と主張した人だ。彼女が今の釜ケ崎を見たら何を言うか。

 

 このルポは、樋田記者がとことん新聞記事風の文体で書いている。見たこと、聞いたこと、調べたことを凝縮させるだけで、飾りがない。それがかえって心に訴えかけてくる。

(執筆撮影・尾関章、通算454回、2019年1月11日公開)

 

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