『暗黙知の次元』(マイケル・ポランニー著、高橋勇夫訳、ちくま学芸文庫)

写真》言葉の向こうに

 当欄の前身は「文理悠々」。看板を掲げたときの思いは、こうだ。自分はどちらかと言えば文系アタマなのに、理系教育を受け、科学記者を本業とした。齢を重ねてそろそろ、その理系縛りを解いてもよいのではないか。文理の垣根を取り払って、悠々と思考を巡らせてみたい――。文系の発想で理系の知見を見つめ直し、理系の視点で文系の物事をとらえ直したいという野心もあった。目標を達成したとは到底言えないが、その初心は今もある。

 

 文系理系のことでは去年暮れ、考えさせられることがあった。朝日新聞東京本社版の月曜日付朝刊には、紙面を上下に二分して文化欄と科学欄を収めたページがある。上半分が「文化の扉」、下半分が「科学の扉」。さながら、文理同舟だ。それぞれ独立に企画されているのだろう。2018年12月17日の紙面は、「文化…」の見出しが「『雑種』こそ日本の個性」、「科学…」は「有害生物駆除に死角あり」。その取り合わせに、僕は思わず苦笑した。

 

 「文化の…」は、加藤周一論。記事によると、加藤は国際人ではあっても、西洋至上主義者ではなかった。日本文化はもともと伝統と外来の雑種であり、そうあり続けることに価値があると考えていたらしい。文中に織り込まれた識者コメントも、それを支持する。

 

 「科学の…」は、有害生物対策がテーマ。記事では、有害生物の一つとして外来種が登場する。ため池の水を抜いて一つの外来種を一掃すると、今度は別の外来種が激増するといった話だ。駆除に副作用ありという指摘だが、ここでは外来に良いイメージがない。

 

 これで、苦笑の理由もわかるだろう。「文化の…」の記事は、在来文化と外来文化の交雑を肯定的にとらえている。それは、反ヘイトの共生社会にも通じる視点だろう。一方、「科学の…」の記事には、在来生物と外来生物の交雑は避けるべきものだという前提がある。そこにあるのは、生態系の人為改変を嫌うエコロジー思想だ。文化と科学それぞれの「扉」を開いたら、交雑の評価をめぐって真逆のベクトルが見えてきたのである。

 

 僕たちは、共生とエコという今風のキーワードが同じ方向をめざしていると思いがちだ。どちらも多様性の尊重という価値観は共有している。だが、そこには矛盾もある。異民族の交流は良質な雑種文化を生んできたが、その相似形を野生生物界に求めると生態系のバランスが崩れる。交雑という事象の良し悪しは、文化の視点でみるか科学の座標でとらえるかで反転する。こんなことは、文理両域を見わたさなければ気づかなかっただろう。

 

 で、今週は『暗黙知の次元』(マイケル・ポランニー著、高橋勇夫訳、ちくま学芸文庫)。訳者解説によると、著者(1891〜1976)はハンガリー・ブダペストのユダヤ人家庭に育った。大学では医学を専攻、その後、物理化学の研究者となった。1933年、ナチスに追われるように英国マンチェスター大学へ。ここで専門を科学哲学に転ずる。当初は理系部門の教授だったが、第2次大戦後、社会学部に移ったという。文字通りの文転だ。

 

 本文には、その理由が自身の言葉で語られている。きっかけは「スターリン時代のソヴィエト・イデオロギーにつまずいたこと」。1935年、ソ連共産党幹部の「自己目的化した純粋科学」を否定する発言を聞いて「愕然とした」という。社会主義は「科学的必然性を言い立てる」のに「自立的な科学的思考の存在自体を認めない」という不思議。著者によれば、そんな科学観が「機械論的(メカニカル)な人間観や歴史観」を生んでいた。

 

 炯眼と言うべきだろう。ここで注目すべきは、純粋科学の否定が科学的思考の否定に結びつき、それが人や歴史の見方にまで悪影響を及ぼすと見抜いていることだ。純粋科学は知的探究本位の科学のことで、実用とは縁遠い。それを支援しようというとき、日本社会では、夢だ、ロマンだ、ともてはやす動きばかりが目につくが、肝心なことを忘れている。純粋科学は、「科学的思考」を内在させていることに最大の存在理由があるのだ。

 

 この本は、著者が1962年に米国のイェール大学であった講義をもとにしている。原著は60年代半ばの出版。最初の邦訳(副題に「言語から非言語へ」、佐藤敬三訳、紀伊國屋書店)は80年に出た。今回手にとった文庫版は、2003年に訳しおろされたものだ。

 

 訳者解説は、初訳刊行からまもない1980年代後半、日本の知識人がポストモダニズム旋風の渦中にあったことを指摘する。既成の価値や権威の「根拠の『恣意性』」があばかれ、「解放的」な気分が高まっていた。こうしたなかで「暗黙知」という言葉は広まる。近代の機械論に批判的な著者の論考が、ポストモダンの空気と共振したのだろう。それは、自然科学でも物質の最小単位に遡る近代の要素還元主義に批判が芽生えたころだった。

 

 第1章では、「暗黙知」とは何かが、こう示唆される。「私たちは言葉にできるより多くのことを知ることができる」(傍点付き)――人には、暗黙裡に働く知があるということだ。著者が最初にもちだすのは、顔の識別。人は特定の人物を不特定多数の群衆から「見分ける」ことができるが、その過程はほとんど「言葉に置き換えられない」。僕たちは街を歩きながら、パッと見でご名答というパターン認識を楽々とこなしているのである。

 

 著者は、顔識別のカギは「人相」だと主張する。人を見かけて、それが誰かを知ろうとするとき、僕たちは相手の目や鼻や口を一つずつ切りだして点検するのではなく、「人相」に注意を向ける。目や鼻や口は「据えられている場所」と不可分なので「人相」をかたちづくって初めて「意味」を帯びる、ということだ。部品そのものよりも、部品間の関係に目を向けたところは、自然科学の要素還元主義批判を先取りしているようにも思える。

 

 ここで参照されるのは、ゲシュタルト心理学だ。この学説では、人はものの「外形」を認識するとき、「感知している個々の特徴を、それが何とは特定できないままに、統合している」とみる。この認識は「自然な平衡を得て、生起する」と仮定されているが、著者は、そこに人間の「偉大にして不可欠な暗黙の力」をみてとろうとする。表現が大げさなのは、「科学や芸術の天才」や「名医」がこの力を発揮している、と考えているかららしい。

 

 暗黙知のイメージは日常感覚にもしっくりくる。それは、ピアノ演奏について触れた記述からもわかる。「自分の指に注意を集中させたりすると、演奏動作が一時的に麻痺することもある」。その通りだろう。ピアニストが見事なのは、指を何本も使っていちどきに別々の鍵盤を叩くからだ。音符一つずつを追って指1本ずつを気にかけていたら、音楽にならない。これを著者は、個々の要素の吟味による「意味や全体像の破壊」と呼ぶ。

 

 ただ、著者の思慮深さは、ここで話を終わらせないことだ。指1本ずつの動きをたどる練習の効果は認めていて、それをしたときは「個々の要素をもう一度内面化し直す」ことで音楽を取り戻せるという。内面化とは「暗黙知化」と言い換えてもよいのだろう。

 

 著者は、これに続けて近代科学に対する批判を大展開する。「もしも暗黙的思考が知(ナリッジ)全体の中でも不可欠の構成要素であるとするなら、個人的な知識要素をすべて駆除しようという近代科学の理想は、結局のところ、すべての知識の破壊を目指すことになるだろう」。このひと言は、科学がめざしているのは「私的なものを完全に排し、客観的な認識を得ること」と思い込んできた僕たちの常識に、強烈なノーを突きつける。

 

 真の知とは、外なる客観知と内なる暗黙知の総和なのだろうか。

 

 しかも今は、「客観的な認識」そのものが揺らいでいる。20世紀物理学が難問を突きつけたのだ。相対性理論では、どの座標系にいるかによって時間の進み具合などが違ってくる。量子力学では、観測の瞬間に物事の状態が定まる。「客観的な認識」は、あるとしても絶対的なものではなさそうだ。そんな時代にポランニーは暗黙知というカードを切ったのだ。僕たちの世界観を完全に近づけるには、その隠れた知のしくみを探る必要がある。

 

 暗黙知研究の近況については、文化の扉も科学の扉も取り払った紙面でぜひ読みたい。

(執筆撮影・尾関章、通算456回、2019年1月25日公開、同月28日更新)

 

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