『日和下駄  一名 東京散策記』(永井荷風著、講談社文芸文庫)

写真》〓はゲタ

 今週は、本題に入る前のまくらに難ありだ。遠い過去の風景を描こうと思うのだが、記憶がぼやけていて確信がもてない。史料に照らして精度を高めてもよいが、それで失われるものがある。居合わせた者だけが知るその場の空気だ。だから、ぼんやりのまま記そう。

 

 ここで蘇らせたい風景は、太平洋戦争の終結から10年ほどしか過ぎていない東京である。その市街域が幼い僕の目にどう映ったか、それを掘り起こしてみたいと思うのだ。ただ、当欄で幾度か書いてきたように、東京西郊の私鉄沿線で生まれ育ったので、ターミナル駅の新宿、渋谷よりも東は日常の生活空間ではなかった。だが、だからこそ、折にふれて遠足気分で出かけた街の佇まいが、記憶の底に沈殿しているのだとも言える。

 

 懐古気分になったのは時節柄、昔の年始回りを思いだしたからだ。父方の親類は、赤坂や六本木、芝白金で和菓子店を営んでいた。三が日には両親に連れられて、その1軒ずつを訪ね、お年玉を貰う。それが年中行事だった。渋谷あたりからタクシーに乗る。赤坂、六本木は店先の挨拶で済ませ、最後の訪問先の芝白金では奥の茶の間にあがり込んだように思う。脳裏に浮かぶのは、その巡回でタクシーの車窓から眺めた東京の景色だ。

 

 埃っぽかったなあ。そんな印象がある。砂埃が空き地から吹きつけるのか、それとも自動車の排気のせいか。表通りは広々としていて、真ん中を都電が行き交っていた。街路樹を見かけた気がしないのは、冬なので葉を落としていたためかもしれない。沿道には建物が並んでいたが、ビルらしいビルは少なかった。街全体が無味乾燥で、しらっちゃけている――これが、いま東京でもっとも華やかな一角の60余年前の空気感だ。

 

 考えてみれば、そのほんの10年ほど前、一帯は空襲に見舞われ、焼け野原と化したのだ。だから僕が目撃したのは、焼け跡に人々が戻り、生活を再開したばかりの街だった。それは、江戸・東京の歴史軸を見通せば、時折巡ってくる短い空白期の一つだったとも言えよう。それよりも前には戦前の東京があった。それよりも後には高度成長の東京がある。僕たちは、そんな新旧東京の間に遮断があったことを知る最後の世代なのかもしれない。

 

 で今週は、その空白期の彼方にある東京のぶらぶら歩きを文豪に案内してもらおう。

 

 『日和下駄  一名 東京散策記』(永井荷風著、講談社文芸文庫)。この本は表題作を中心に据え、それに6編を添えた随筆集。読み通すと、荷風(1879〜1959)がただの文人ではなく街歩きの達人だったことがわかる。表題作は1914(大正3)年から『三田文学』誌に連載され、翌15(大正15)年に単行本化された。この文庫版は『荷風全集』(岩波書店刊)に収められていたものを底本に、99年に刊行された。

 

 今回は、表題作に絞って話を進めよう。僕がまず注目するのは、執筆が大正初期ということだ。このときの東京は、太平洋戦争末期の空襲のみならず、1923(大正12)年の関東大震災にも遭っていない。さらに言えば、明治期に入って半世紀足らずという時間幅もいい。人々は今ほど長寿ではなかったが、それでも江戸生まれの人は健在で、往時を語りあっていたことだろう。近代東京のあちこちに江戸の残り香が漂っていたのは間違いない。

 

 著者の個人史をみても、タイミングは絶妙だった。巻末に「年譜」(竹盛天雄編)があるので、それを参照してみよう。明治初期に東京・小石川で生まれ、若くして文学に手を染めたが、1903年に米国へ渡り、ニューヨークなどで暮らした。その後、フランスにも滞在、08年に帰国した。表題作は、20代の感性で欧米の街の空気を吸った著者が、30代半ばの成熟した視点で自らの郷里である東京を見つめ直した作品ということになる。

 

 第一章では、まず「日和下駄」について語られる。この履物は、辞典によれば歯が低く、晴天向きだという。ただ、著者の説明は異なる。「日和下駄の効能といわば何ぞ夫不意の雨のみに限らんや。天気つづきの冬の日と雖山の手一面赤土を捏返す霜解も何のその」。舗装済みの銀座、日本橋でも「矢鱈に溝の水を撒きちらす泥濘とて一向驚くには及ぶまい」。荷風版日和下駄は、悪天候にも強かったらしい。(引用部のふりがなは省く、以下も)

 

 ここでわかるのは、著者の街歩きに対する本気度だ。「市中の散歩は子供の時から好きであった」とも打ち明ける。14歳のころ、実家が麹町に引っ越したので、神田の英語学校へ通うのに「半蔵御門を這入って」一ツ橋へ抜けたという。半蔵門は今、一般人が通り抜けられないが、明治半ばは違ったのか。それにしても、豪華な徒歩通学だ。そんな原体験があるから、長じて日和下駄を履き、蝙蝠傘を手にしてひたすら歩いたのだろう。

 

 もう一つ、この下駄がらみの記述で当時、東京のインフラ整備がどのくらい進んでいたかも推し量れる。路面がアスファルトに覆われていたのは、銀座クラスの繁華街くらい。山の手には関東ローム層の赤土がむき出しの道路が多かったということだ。これはたぶん、焼け野原となった戦後期まで続いたように思う。だとすれば、僕が幼少期に年始回りで見た赤坂、六本木界隈の埃っぽさは、江戸・東京を貫く原風景の名残だったのかもしれない。

 

 この第一章で見落とせないのは「今日東京市中の散歩は私の身に取っては生れてから今日に至る過去の生涯に対する追憶の道を辿るに外ならない」という一文だ。著者は、下駄をぬかるみにとられながら、空間のみならず時間の散策も楽しんでいたのである。

 

 しかも、時間軸の好奇心は「追憶」の先にも延びていく。第四章「地図」には、市中を歩くときは「携帯に便なる嘉永板の江戸切図を懐中にする」とある。随所で木版の古地図を開けば「おのずから労せずして江戸の昔と東京の今とを目のあたり比較対照する事ができる」のだ。一例は、牛込弁天町辺り。道路拡幅で江戸の面影はないが、著者はそこが根来組同心屋敷の跡だと突きとめる。その発見に「訳もなく無暗と嬉しくなる」と、無邪気だ。

 

 この散策記の斬新さは、章立てそのものにもある。第二章「淫祠」第三章「樹」、第五〜十一章「寺」「水」「路地」「閑地」「崖」「坂」「夕陽」。「樹」「寺」などには、現代風に言えばランドマークと呼んでよいものが含まれる。さらに「水」「路地」「崖」「坂」とくれば、まさに「ブラタモリ」(NHK)の世界。著者はタモリ同様、都市の起伏に敏感で街の凹凸を愛した。タモリは現代の荷風なのか、荷風が大正版タモリなのか。

 

 「崖」の章をみてみよう。著者が崖に惹かれるのは、そこに植物と湧き水が織りなす小宇宙の美を見いだしたかららしい。ササやススキ、アザミ、ヤブカラシなどが生い茂る湧水源、さらさら流れる水音、斜めにかぶさる樹木の姿などが魅力だという。このくだりで僕は東京西郊、国分寺崖線のハケを思いだした。多摩川の河岸段丘がつくる崖の連なり。少年時代は崖線の探検に心躍らせたものだ。そこにとめどなく湧く水は斜面の恵みだった。

 

 興味深いのは、旧東京市内の崖は大正初期までに開発の波をかぶったということだ。この章では「東京市の地勢と風景とがまだ今日ほどに破壊されない頃」の記憶が語られている。本郷台地を小石川方面から見あげると、ところどころに「樹や草の生茂った崖が現れていた」と思い返すのだ。崖は、急斜面であるがゆえに手つかずのまま緑の帯として残りやすい。それがすでに過去のものとなっていた。明治期の帝都開発のもの凄さがわかる。

 

 「坂」の章の起伏論も読ませる。まず、「坂は即ち平地に生じた波瀾である」と定義。そのうえで「平坦なる大通」は交通安全や物品運送には好都合だが、「無聊に苦しむ閑人の散歩には余りに単調に過る」と続ける。著者は、坂からの眺望をたたえるが、それで終わらない。墓地の木々が暗闇をつくる坂、屋敷街から犬の吠え声が聞こえてくる坂、坂と坂が向きあう地形などにも心を寄せる。さながら、街の陰翳礼讃とはいえないか。

 

 荷風は、タモリとは違って地学好きの理系好奇心にあふれてはいない。さらに言えば、笑福亭鶴瓶が「鶴瓶の家族に乾杯」(NHK)の街歩きで見せる人懐こさもない。ただ、独りで黙々と歩きながら、自分の美学を確認する。そんな散歩だってあるのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算457回、2019年2月1日公開)

 

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