読書面書評欄(朝日新聞2019年2月16日朝刊)

写真》そこには著者と評者がいる(朝日新聞2019年2月16日朝刊)

 新聞記者をしていて結構大変だったのが、新聞を読むという日課だ。自社、他社を問わず、その日に出たものは読まなければならない。社内の会議で「えっ、そんな記事出ていましたっけ?」は禁句。もし口にすれば、同席者から一斉に軽蔑の眼差しを浴びたことだろう。

 

 だから退職後にもっとも解放感を覚えたのは、新聞を読まなくてもよいということだった。数カ月間は意識して紙面を遠ざけたものだ。しばらくすると1日に1、2本、これはと思う記事だけを熟読するようになった。そうこうするうちに、文章を義務感からではなく味読することの愉悦を取り戻すことができた。で、いまもっとも楽しみなのは週末の読書面。新刊近刊の書評を中心に本の話題を満載したページである。

 

 ということで今週は、朝日新聞2019年2月16日朝刊読書面の書評を書評する。その舞台裏については、僕も現役時代に社内書評委員を務めたことがあるので多少は知っている。書評委員は定期的に集まり、とりあげたい本を選ぶ。1冊に対して複数の委員が執筆を希望することもある。最後は話しあいで決着するのだが、この綱引きが見ものだった。園児がおもちゃを取りあうような光景を見て、一同、本好きの連帯感を再確認したものだ。

 

 この日の読書面では、見開き2ページで委員8人が8冊の本を書評している。このラインナップも、きっと委員諸氏の熱い思いを反映しているのだろう。今回は、三つの評に絞ってとりあげる。いずれも、当方の最近の心模様に響いてきたものだ。

 

 まずは、哲学者野矢茂樹さん執筆の『その部屋のなかで最も賢い人――洞察力を鍛えるための社会心理学』(トーマス・ギロビッチ、リー・ロス著、小野木明恵訳、青土社)評。著者は、二人とも米国の心理学者。評者は冒頭、「社会心理学の知見が満載」で「実用書として読むこともできる」と書くが、これはあくまで「こともできる」だ。最後まで読み進むと、哲学者はやはり哲学っぽい知見をくみとっていることがわかる。

 

 「『賢い人』とはどういう人のことか」。最終段落ではそう問いかけて、この本から得られる答えをまとめる。「われわれ人間が、そして自分自身がいかにポンコツであるかを自覚し、そのことを熟知した上で行動できる人、それが最も賢い人なのだ」。これは、僕のような準高齢者の心に共振する。老いてから身につける知とは、自らのポンコツぶりを認識することを前提とする。それを出発点として賢明な生き方を探ろうと僕は思うのだ。

 

 さて、この野矢書評で、読ませどころは結論に至るまでのリズミカルな筆致にある。評者はまず、この本に「満載」の知見から「ピーク・エンド法則」を引っぱりだす。「過去の体験」の記憶は「その体験の最高の瞬間と最後のあり方に支配される」というものだ。

 

 この本が例に挙げているらしいのは、麻酔なしの結腸内視鏡検査。内視鏡を最後に引き抜くときの痛みが強烈で再検査の受診率が低いという。社会心理学者がかかわった研究では、内視鏡をとりだすタイミングをずらして、抜く直前はさほど痛くないように工夫すると、再検査率が高まったという。「エンド」の激痛がなければ痛みの記憶は薄れるということか。体がえぐられるような話をこまごまと書いて、評者は読み手の知的好奇心を刺激する。

 

 評者の巧みさは、ここから先にある。「でも、ピーク・エンド法則でしょう?」「ピークの方はどうなの?」「ピークの痛みはそう簡単には消えないんじゃないの?」「ピークよりエンドの方が記憶に残りやすいってこと?」とたたみかけるのだ。ここに、野矢流書評術の妙がある。本をただもちあげるのではなく、ほどよいツッコミを入れる。そのことで、本の核心部分に対する敬意――この書評では最終段落の記述――の信憑性がいやますのだ。

 

 次は、音楽家・エッセイスト寺尾紗穂さんの『在宅無限大――訪問看護師がみた生と死』(村上靖彦著、医学書院)評。著者は基礎精神病理学者。評者は、人が死に際に言うという「愛してる」のひとことを病院の医師は「実際はありえない」と考えるが、「在宅」では「普通にありえる」という話から説きおこす。なにかの記事に出ていたらしい。在宅で母を看取った僕は、この導入部に引き込まれる。末期には、たしかに内輪の会話があった。

 

 著者は、訪問看護師たちの話を聞いて「医療者も含めて、私たち全員がかつての死の姿を忘れた」との思いを強くしたらしい。これを受けて評者は「死に行く人が、日常の風景の中にいること」の意義をこう綴る。「病院の規則や慣例に縛られることなく、家族が自然体でいてやれることで、死に行く人の願いは叶(かな)えやすくなる」。学校で校則に縛られ、勤め先で従業員規則に束縛されたのだ。最期くらい規則から解放されたいではないか。

 

 評者は、入院患者の匿名性にも着目する。この本には「患者も看護師も医療措置に関わる匿名の『誰か』になってしまう」という傾向を指摘したくだりもあるようだ。なるほど。今の世の中、健康でいても入院患者として扱われているのではないか、と僕は思う。

 

 三つめの書評は、朝日新聞大阪科学医療部長黒沢大陸さんの『アナログの逆襲――「ポストデジタル経済」へ、ビジネスや発想はこう変わる』(デイビッド・サックス著、加藤万里子訳、インターシフト)評。著者は、英米紙で活躍するジャーナリスト。評者も、すでにベテランの域にある科学記者。僕にとっては、古巣の後輩にあたる。いわば身内が書いた記事ということになるが、今回の評は身びいき分を差し引いても秀逸だったと思う。

 

 どこがよかったのか。それは、本との距離の置き方だ。書評の手法には二通りある。一つは、本の中身に分け入って、その要点を拾いあげる方式。もう一つは、本のことなど知らぬ気にいろいろと書き連ね、そのことで本の核心を浮かびあがらせる方式。ジャーナリストは本読みを「取材」ととらえがちなので、生真面目に前者をとることが多いように思う。だが、ときに後者もあってよい。この黒沢書評はその典型。肩の力がすっかり抜けている。

 

 冒頭、「コンビニに足を踏み入れずに、まもなく2年」と書いて、自身のコンビニ断ちを報告する。「いつもの街角に、おにぎり屋、安い自家製サンドイッチをおく店を見つけ、小さな書店や文具店も目に入るようになった」「何か足りなくなっても、あるもので工夫するのが楽しい」。ここまでで、すでに全文の3分の1。で、この本はいったいどうなんだ? そんな読み手の不満を喫水線まで高めておいてから、「さて、本書である」と切りだす。

 

 著者は「レコード」「フィルム」「印刷物」などにかかわる人々を取材して「見逃していたアナログの隠れた力を明らかにしていく」。その論調は過去の賛美ではなく、デジタルの否定でもない。この本が描きだすのは「デジタルを経験したからこそ見える『その先』のアナログ」という。いつでもなんでものコンビニをいざというときのために担保しつつ、ふだんはあえて避ける。それと同様の贅沢が、デジタル後のアナログにはあるのだろう。

 

 書評の醍醐味は、そこに著者、評者、読者の三角関係が生まれることだ。ときに、著者の「これが言いたい」という思いが評者の個性によって読者の目から逸らされることがあるだろう。だがときに、著者の本意が評者の卓見によって肉づけされ、読者に対する説得力を増すこともある。読者は、そのどちらかを見極めなくてはならない。これは難題だが、知的ゲームでもある。二人の声を左右のスピーカーから聴くような体験ができるのだ。

 

 このゲームの最終必勝法は、本を自分自身で読むことだ。だから僕も、いつかは読もうと心に決めることが多い。だが読者は、なんの義務も負わないのでいつのまにか忘れていく。まあ、いいではないか。読みたい本が記憶の地層に潜んでいること。それが大事なのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算460回、2019年2月22日公開、同月26日更新)

 

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