『[新訳]明日の田園都市』(エベネザー・ハワード著、山形浩生訳、鹿島出版会)

写真》磁石としての都市

 学生時代、歌詞づくりに熱中したことがある。カントリーミュージック風の心地よい旋律を友人がつけてくれた。1970年代半ば、若者の間では対抗文化が退潮し、ニューファミリーの生活様式が憧れの的になっていたころだ。そんな都市住民の日常がテーマだった。

 

 なかには詞だけでなく曲も自作した歌がある。「転校生」がそうだ。「ニュータウンの丘に咲くコスモスの花/乾いた砂埃舞う造成地/引きだしの中の友だちの手紙/そうよ、わたしは転校生」。僕が思い描いたストーリーでは、父親の転勤で東へ西へと転校を繰り返す女の子が主人公。大都市圏の引っ越し先は丘陵地帯を切りひらいた住宅地だった。あのころは、東京近郊でもあちこちで関東ローム層の大地を削る重機が唸っていたように思う。

 

 たとえば、多摩ニュータウン。東京西郊に集合住宅や戸建て住宅が集まる一大住宅都市が生まれた。東急田園都市線沿いにも新しい住宅地群が連なり、TVドラマ「金曜日の妻たちへ」(TBS系)に象徴される郊外文化を発信した。関西では大阪北摂地域の千里ニュータウンが代表格か。いずれも雑木林や竹林をつぶして造ったので緑の総量は減ったが、ところどころに里山の自然が残る。それが核家族世代の心を惹きつけた。

 

 今、その新しい町の先行きが心細い。朝日新聞社が新住宅市街地開発法(1963年制定)にもとづいて開発されたニュータウン46カ所について地元自治体にアンケート調査したところ、半数を超える27カ所で65歳以上の単身世帯の割合が全国平均を上回った(朝日新聞2017年12月3日朝刊)。目をむくほどの数字ではないが、ニュータウンの高齢化が世間全般よりもやや早いペースで進んでいることがわかる。

 

 それでつくづく思うのは、これらのニュータウンはマイホームの集合体だったのだなあ、ということだ。1960〜70年代は、若者が結婚して核家族をかたちづくる傾向が強まった。住まいは当然、小規模になる。だから若夫婦が年をとり、やがて子ども世代が成人して家庭をもつとき、世代同居するだけの余裕はない。結局は高齢世帯が残され、夫婦どちらかが欠けると独居老人の家となる。これが、ニュータウンの現実だ。

 

 ここで僕が問いたいのは、ニュータウンは果たして真の「町」だったのかということだ。町は生き物にも似た組織体で、新陳代謝しながら生き延びる。世代が新旧入れ代っても同じ町ではありつづけるのだ。では、列島各地のニュータウンはどうか。個々の家について言えば、持ち主が交代して引き継がれることがあるだろう。だが、町そのもののアイデンティティ(自己同一性)の存続は覚束ない。1世代使い捨て型のような感じさえする。

 

 で、今回は20世紀初めに住宅都市づくりの構想を提案した名著に触れてみよう。『[新訳]明日の田園都市』(エベネザー・ハワード著、山形浩生訳、鹿島出版会)である。著者(1850〜1928)はロンドン生まれの英国人。序文(F・J・オズボーン執筆)によれば、商店主の家庭に育ち、21歳で米国に渡って速記者となり、数年後に帰国した。やがて都市計画の論客となるが、象牙の塔の人ではない。実践志向が強かった。

 

 この本は1898年に世に出た後、1902年に改訂改題された。「田園都市」という言葉が掲げられたのは、このときから。翌03年、ロンドン北郊レッチワースで実地に町づくりを手がける。構想通りとはいかなかったようだが、ともかくも実行に移したのだ。

 

 ではどうして、著者は田園都市というアイデアに思い至ったのか。「著者の序文」に説明がある。そのころ、すなわち19世紀末から20世紀初めにかけては宗教や政治の論題が党派的対立を招いていたが、そうならないテーマがあるとして都市論を挙げる。「人々がすでに過密となっている都市に相変わらず流入を続けており、そしてその一方で地方部がますますさびれていく」。この一点については共通の問題意識があったという。

 

 ここで見落としてならないのは、元祖田園都市構想は、都市の過密化と地方の過疎化に対する危機感から生まれたということだ。それは、過度の集中を嫌い、適度の分散をめざすものだった。このベクトルは、日本のニュータウンとは大きく異なるものだ。

 

 前述の新住宅市街地開発法をみてみよう。第1条に「健全な住宅市街地の開発及び住宅に困窮する国民のための居住環境の良好な相当規模の住宅地の供給を図り、もつて国民生活の安定に寄与する」とある。開発のねらいは、人々の居住空間を確保することにあったということだ。急増する都市勤労者向けのベッドタウンの建設と言ってもよいだろう。これはむしろ、大都市圏への人口流入を促したのではないか。集中志向のベクトルである。

 

 「田園都市」には魅力的な語感があるので、その影響は日本の町づくりにも及ぶ。有名なのは田園調布。1920年代、まだ東京府下の郡部だった一帯にレッチワースを参考にする街区がつくられた。60年代には、神奈川県の丘陵部を貫いて東急田園都市線が敷かれ、沿線に新しい住宅地が連なる。ただ、これらがもたらしたものは、あくまでも都市勤労者にとって心地よい居住空間だった。「田園都市」の「都市」らしさは見えてこない。

 

 この本の田園都市像はどうか。そこで出会うのは「町・いなか磁石」という用語だ。「町」には「雇用機会」「明るい街路」などの長所があるが、「群衆の中の孤独」「汚い空気によどんだ空」などの短所もある。「いなか」には「自然の美しさ」があるが、「仕事のない人々」もいる。そこで著者は、両方の長所を併せもつ磁石をつくることを主張する。大都市の外側に新しい磁力圏を新設して人の流れを大都市から逸らせよう、というわけだ。

 

 その「町・いなか磁石」こそが田園都市だ。著者の構想によると、「責任ある社会的地位を持ち、高潔さと名誉では非のうちどころのない紳士4名」が法律上の地主となって資金を借り、土地を買う。住人は、信託管理人に地代を支払う。興味深いのは、その地代の使いみちだ。一部は土地購入の借金返済に回し、残りは自治組織に手渡されて道路、学校、公園などの建設費や運営費に充てる。税ではなく地代を介在させた共同体と言えよう。

 

 ここで注目すべきは、田園都市の「主目的」として、工業労働者に「もっと健康な環境と、もっと安定した雇用を見つけてあげること」を挙げている点だ。大都市圏に寄生してベッドタウンになるのではない。自前の働き場所がある小都市をつくり出そうというのだ。構想を落とし込んだ市街地図を見ると、同心円状と放射状の道路がかたちづくる街区の外縁部に「家具工場」「衣服工場」「ブーツ工場」「車両工場」「ジャム工場」などが並んでいる。

 

 「主目的」のくだりでは、工業だけでなく農家のことも忘れていない。全域の地図に目を転じると、市街の外側には「大農場」「小作用農地」「果樹園」「牛の放牧地」などが広がっている。この配置によって、都市建設前から農業を営んでいた人や建設後に移り住んでくる農業志望者が「自分の家の近くで産物に対する新しい市場が開けるように」なるのだ。市街部分、即ち狭義の田園都市は緑豊かな田園都市圏の中心にある。

 

 こうした農地は、田園都市のエコロジーと深く結びついている。たとえば、「町の廃棄物は敷地の中の農業部分で活用される」。江戸市街の屎尿が近郷近在で有機肥料に役立てられたような循環を、著者も思い描いていたわけだ。そして、市域の店は「農業従事者たちにとって、いちばん自然な市場を提供する」。その結果、市民は「農家の産物を需要する限り、それは鉄道輸送費をまったくかけないですむ」。地産地消の好例がここにはある。

 

 ただ著者は、それらを述べた後に大切なことを言い添える。「でも農民などは、別に町だけが唯一の市場として限定されているわけではない」「自分の好きなところに産物を卸す全権を持っている」。ここで感じとれるのは、田園都市構想のリベラルな精神である。封建の世に戻って農民を縛ることはしない。だからと言って、当時台頭していた社会主義思想を突きつめるわけでもない。「自分の好きなところ」で商いをする権利を認めているのだ。

 

 集中から分散へ。この本は、いま求められる社会設計の一つの見本を見せてくれる。

(執筆撮影・尾関章、通算461回、2019年3月1日公開)

 

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