『ニムロッド』(上田岳弘著、『文藝春秋』2019年3月号)

写真》小銭入れ、不携帯?

 このところ、身辺で訃報つづきだ。同時代を生きた人が「ひと足お先に」と言わんばかりに世を去っていく。さびしい。残念でもある。ただひとつ気休めのように思うのは、退去のタイミングとしては悪くなかったのかもしれない、ということだ。

 

 去年、パソコンに疎い閣僚がメディアの標的となったとき、当欄は「パソコンが苦手な人は、サイバーテロ対策の指揮には不向きだろう。だが、社会人として失格なわけではない」と書いた(2018年12月21日付「昭和という時代がありました」)。平成が始まる前に生涯を終えた世代は、パソコンなどない世界しか知らなかったのだ。それでも十分に幸福だった人たちがいる。新しく出てきたものだけがよいわけではない。

 

 平成期に入り、1990年代から起こったことは概略こうだ。パソコンという手軽なコンピューターが行き渡って、人々は情報をネット経由で得るようになり、通信手段としての電子メールも手に入れた。その機能は携帯電話にどんどん乗り移り、ついにはスマホという限りなくパソコンに近いポケット型端末が登場した。僕たちは、そのたびに機械を買い換え、技を磨いてきたのだ。これは、紙と鉛筆と黒電話で育った世代には一大事業だった。

 

 そして、これからは――。クルマの自動走行がまず目に浮かぶが、これは生命にかかわることなので紆余曲折がありそうだ。それよりも早く広まりそうなのは、キャッシュレス化か。この流れはすでに世界中で強まっているから、もはや食い止められまい。消費者もすでに、クレジットカード払いには慣れている。そう遠くない日、僕たちは紙幣数枚をお守り代わりに持ち歩き、小銭入れは空にして出かけることになるのだろう。

 

 まあ、ここまではなんとかついていける。問題は、その次だ。「仮想通貨」というヤツ。今のところ、ふつうの消費生活に影響を与えてはいない。だが将来、仮想通貨払いを指定する商取引がふえたらどうか。僕たちは、これまでもいろんなことを覚えてきた。スマホの扱いだけではない。振り込みはATMに打ち込む、切符は券売機にカードを入れて買う……仮想通貨だってなんとかなる。その手順も、きっと習得できるに違いない。

 

 ただ、それでも解決しない問題がある。なにかを売ったとき、自分はほんとうに対価を得ているのか、という不安だ。硬貨には、「日本国」の文字がある。紙幣には、千円札であれ一万円札であれ「日本銀行券」と書かれている。僕たちが慣れ親しんでいる通貨にはお墨付きがあり、それがはっきりと目に見えているのだ。ところが仮想通貨は、貨幣そのものが姿を現さない。お墨付きもあやふやだ。それは、いったい何なのか。

 

 で、今週は、1月に発表された第160回芥川賞受賞作の一つ、「ニムロッド」(上田岳弘著、『群像』2018年12月号掲載)。とりあげる理由は、仮想通貨を題材にしていると報道されたからだ。純文学を味わいつつ、謎の通貨の正体に迫ってみたいと思ったのだ。

 

 朝日新聞によると、作者の上田さんは1979年生まれ、大学を出てから「法人向けソフトウェア販売のITベンチャーに参加し、現在は広報・販売担当の役員」とある(2019年1月17日朝刊)。作家としても新潮新人賞(2013年)や三島由紀夫賞(2015年)などを受けて第一線で活躍してきたが、その一方で、バリバリのIT実業家なのだ。仮想通貨の何たるかを熟知したうえで、それを文学の世界に取り込んだのだろう。

 

 僕は、この作品を『文藝春秋』2019年3月号で読んだ。芥川賞は日本文学振興会の主催だが、受賞作は選考委員の選評などとともに同誌に載る。学生時代は芥川賞・直木賞の発表のたびに、その誌面に接したものだ。今回は、そんな昔の習慣を再体験した。

 

 では、さっそく作品に入ろう。冒頭の一文は「サーバーの音がする」。サーバーが、コンピューターの一種だとは僕も知っている。パソコンの向こう側にある存在。それが数百台も棚に収められた部屋のなかを「僕」は歩いている。そこが主人公の職場であるらしい。音を出しているのは、中央演算処理装置(CPU)の冷却ファン。それが「幾重にも合わさって、虫の音(ね)のように高く低く響く」。なんとも無機的な空間ではある。

 

 このくだりで、作者はサーバーの働きについて解説してくれる。それらは、僕たちがパソコンでウェブサイトを呼びだすときの受付係を担っているという。通販であれ、ポルノであれ、端末からのアクセスに応えてくれるのが、このコンピューター群だ。「僕」が勤める会社は「東京と名古屋にそんなサーバーたちをまとめて運用するデータセンターを持っている」とある。サーバー機能を提供して利益を得ているらしい。

 

 では、それがどう仮想通貨に結びつくのか。ことの発端は社長の思いつきだ。手持ちのサーバーには「契約がつかず遊んでいるもの」もある。その「有効活用」の妙案として、はやりの仮想通貨に目をつけた。その「採掘」で金を稼ごうというのだ。

 

 この作品には、仮想通貨ビットコインとその採掘についての説明もある。まず、ビットコインの価値を担保するものは、硬貨や紙幣とは異なり、中央銀行や国家のお墨付きではないという。それは、あちこちに散在するパソコンだ。たとえ話をすれば、飲食店選びで「有名なグルメレポーターによる採点を信用するか、あるいは匿名の人々の投稿に採点ルールを適用したものを信じるかの違い」に近いという。ネットの力を借りるのである。

 

 その保証は、具体的には「取引台帳」の「分散保有」というかたちをとる。ビットコインがAさんからBさんへ流れた事実はパソコン内の帳簿の「追記」によって記録され、そのデータが社会全体で共有されるということだ。で、「追記」のために計算力を行使したパソコンには、新規発行のビットコインが報酬としてもたらされる。これが「採掘」だ。発行には上限が設けられるので、通貨が無制限に生みだされるわけではないらしいが……。

 

 キツネにつままれるような話だが、ここには科学技術の同時代史がある。第一歩は、モノからコトへの重心移動。昔、世界経済が金本位制のもとにあったときは通貨の担保にモノがあった。紙幣そのものは紙ペラ1枚でしかないけれども、その後ろ盾に金塊があったと言ってよい。だがその後、中央銀行や国家や国際通貨体制の権威が信用の源になった。みんながそれを信じるというコトが肝心なのだ。この移行は、20世紀に完結していた。

 

 今は、もう一歩先へ進もうとしている。通貨の信用を中央銀行や国家、国際通貨体制に求めるとき、そこにあるのは集権的なベクトルだ。これに対して仮想通貨は分権的。ネットワーク社会が育ったからこそ出来した状況と言える。悪いことではない。

 

 だが一方で、無の空間からなにものかを掘りだすというのは不気味な話だ。僕たちは、そんなふわふわした仮想社会の入口にいるのか――。この作品は巧みに、そのふわふわ感を醸しだしている。「僕」は、課員たった一人の「採掘課長」。いわば山師の現代版だが、身体的な実感を伴わない。その職業像を縦糸に、恋人の田久保紀子や会社の先輩荷室仁、自称「ニムロッド」とのやりとりを横糸に織り込みながら不可思議な世界を現出させる。

 

 ここで作者が見落とさないのは、仮想社会に溶け込んだ生活も現実の生と死というシコリを抱え込んでいることだ。一例は、高精度の新型出生前診断が夫婦に厳しい選択を迫るという最近の話、もう一つは、太平洋戦争中に「パイロットが生還できない」特攻機が設計されたという過去の話。これらが田久保紀子の肉声やニムロッドのメールで語られるとき、ふわふわの世界は凝集剤を注ぎこまれたようになり、そこに現実の塊が見えてくる。

 

 この作品のヤマ場は、ある夜、東京の社内にいる「僕」と名古屋在勤のニムロッドが「会議システム」のスクリーンを通じて言葉を交わし、その会話に田久保紀子を誘い込むくだり。彼女はどこかのホテルにいるらしいが、スマホのLINEアプリを開くとビデオ通話の画面に顔を出す。「僕」はそのスマホを会議システムのカメラに向け、恋人を先輩に引きあわせる。このアナログとデジタルとの接続に、今の時代が正しく映されている。

(執筆撮影・尾関章、通算462回、2019年3月8日公開)

 

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