The Prime Minister’s full statement(ジャシンダ・アーダーン、CNNサイトより)

写真》CNN2019年3月15日付、朝日新聞同月16日朝刊

 またもや凄惨な銃乱射事件である。ニュージーランド(NZ)南部の都市クライストチャーチで3月15日昼、イスラム教礼拝所(モスク)2カ所が襲われ、50人の生命が奪われた。容疑者がソーシャルメディアに投稿していた声明文などから、白人至上主義がもたらしたテロ攻撃とみられている。背筋が凍るのは、容疑者自身が犯行の一部始終をネットでライブ中継していたこと。暴力がネットと結びついて邪悪さを増幅したのである。

 

 クライストチャーチと言えば、2011年の大地震を思いだす。3・11の東日本大震災に先立つ2月22日、クライストチャーチがあるカンタベリー地方がマグニチュード6級の直下型地震に見舞われたのだ。死者数は185人といわれる。この直後、僕は言論サイトWEBRONZAに「地の時間と人の時間」という論考を書いた(2011年2月26日付)。大震災が身近に起こるとはつゆ知らず、対岸の出来事を考察したのだ。

 

 拙稿の副題は「地震の島に地震を知らない人々が築いた町の悲劇」だった。ニュージーランドは「太古の昔から、せめぎ合うプレートの影響下にある地震多発の島国」。同時に「19世紀半ばに地震とはほとんど無縁だった英国人たちが入植して英領とし、20世紀半ばに独立した新しい国家」でもある。この「皮肉な取りあわせ」が、美しいが脆いレンガ建築群を今に至るまで残し、建物倒壊の被害を大きくしたのではないかと書いたのだ。

 

 で、今回の乱射事件でちょっと驚いたのは、その英国人が建設した町に複数のモスクがあることだった。クライストチャーチは人口約40万人。日本で言えば中小都市だ。地名から推察すると、キリスト教一色の町ではないかと思ってしまう。だがそこにはイスラム教徒が0.8%住んでいる(2013年の調査、朝日新聞2019年3月16日朝刊)。その数千人の信仰が不都合なく続けられるための施設も整っているということだ。

 

 この一点をもってしても、ニュージーランド社会は多様性を重んじているのだろうと思われる。それを裏打ちしてくれたのが、この事件を受けてニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相が記者会見で読みあげた声明だ。これを僕は、ネットメディアを通じて英語のままで聴いたが、彼女が一語一語噛みしめるように発した言葉は外国人の心にも届いた。そこには、母国の多様性を誇る強いメッセージが込められていた。

 

 ということで今週は本を離れ、ニュージーランド首相が事件当日の夜、記者会見で発表した声明にもう一度触れてみることにしよう。ありがたいことにネットを漁ると、米国CNNがその全文をサイトに載せていた。そこから、これはという箇所を掬いとってみよう。

 

 アーダーン首相はこの声明で、乱射事件で犠牲となった死者数や負傷者数の最新情報を報告、「これがテロ攻撃としか表現できないものであることは明らか」と断じた。事件を受けて政府は治安の水準を高め、警察は市民生活を守るべく機能していることを強調した。

 

 このあと、首相はこう切りだす。

“Our thoughts and our prayers are with those who have been impacted today.”

「私たちの思いや祈りは、きょう攻撃を受けた人々とともにある」

 

 声明で最大の読みどころは、これに続くくだりだ。

“Christchurch was the home of these victims. For many, this may not have been the place they were born. In fact, for many, New Zealand was their choice.”

「クライストチャーチは犠牲者たちの『わが家』だった。多くの人々にとって、そこは生誕の地ではなかったかもしれない。実際、ニュージーランドは彼らの選択だったのだ」

 

 次の段落には、ニュージーランドがどんな国かを示す言葉が並ぶ。

“The place they actively came to, and committed themselves to”

「彼らが自ら進んでやってきて、そこに深くかかわった場所」

“A place where they were free to practice their culture and their religion”

「彼らが自身の文化や宗教を自由に実践できる場所」

 

 もっとも新鮮に聞こえるのは、choiceの一語だ。国という存在を、人々が自由に選択できるものととらえている。日本人も外国籍を取ることができるが、多くの人々は「国ばかりは選べないからなあ」という意識にとらわれている。内心にハードルがあるのだ。

 

 国の選択をさらっと口にできるのは、ニュージーランドの歴史とも無縁ではない。マオリなどの先住民族が暮らす島に欧州人が入植、19世紀に英国の植民地となった。先住民族からすれば、choiceは身勝手な言い分ということになるのかもしれない。

 

 にもかかわらずアーダーン首相がchoiceを強調するのは、おそらくそれが信念の発露だからだ。彼女は、ニュージーランド労働党の党首。この党は西欧型の社会民主主義政党なので、最近は自己決定権を重んじるリベラリストが多いはずだ。choiceは、リベラリズムの精神が込められた言葉とみてよい。彼女自身、すでに首相の座にあった去年夏に産休をとって赤ちゃんを産んだが、これも一つのchoiceだったと言ってよいだろう。

 

 そしてアーダーン首相は、なぜ自国がテロの標的にされたかを論じる。それは人種主義や過激思想に甘いからではない、逆に、そうでないからこそだと強調して、こう言う。

 

“we represent diversity, kindness, compassion, a home for those who share our values, refuge for those who need it”

「私たちは多様性やいたわり、思いやりを体現し、私たちと価値観を分かちあう人々の『わが家』や行き場のない人々の『避難所』を提供している」

 自国が掲げる理想を、毅然として、覚悟をもって表明しているのである。

 

 たたみかけるようにアーダーン首相が明言したのは、次のひとことだ。

“those values, I can assure you, will not, and cannot, be shaken by this attack”

「私は確信をもって言える。これらの価値観が今回の攻撃で揺らぐことはありえないと」

 

 後段では「私たちは、200を超える民族と160もの言語から成る国であることを誇らしく思う」と述べた後に、こうも言っている。

“amongst that diversity we share common values”

「その多様性のなかで、私たちは共通の価値観を分かちあっているのだ」

 多様性を受け入れつつ共有される価値観とは、他者に寛容であろうとすることだろう。

 

 自己決定権を尊ぶならば国は選択されるものだ。その結果、それぞれの国には多様性に富んだ社会が生まれる。そこで求められるのは、いたわりや思いやりを育む寛容な心にほかならない――不幸な事件に直面してアーダーン首相から絞りだされたのは、そんな信念だ。

 

 きれいごとに過ぎるという冷ややかな見方はあるだろう。前述したように、先住民族のことを思えば複雑な気持ちも残る。だがここには、自身が追い求める理想を筋道立てて語る姿がある。そんな政治家が最近はめっきり減ってしまったように思う。

(執筆撮影・尾関章、通算464回、2019年3月22日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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コメント
《寛容(tolerance)という言葉に違和感を持っています》(虫さん)
僕もあるとき、「寛容」に対応する英語が“tolerance”だと知って、違和感を覚えました。それはやはり、「忍耐」の英訳と同じだったからです。
ということで、僕が「寛容」という言葉を使うとき、それは英訳とはかかわりなく「ひろくうけいれる」の意味を込めています。どうか、ご「寛」恕を。
「寄り添う」の乱用は、たしかに気になりますね。「重く」「真摯に」と同様、日増しに空洞化の度合いを強めているという感じ。
  • by 尾関章
  • 2019/03/25 9:53 AM
尾関さん

虫は、寛容(tolerance)という言葉に違和感を持っています。我慢、忍耐という含意があり、裏を返せば、我慢の限界を超えたら別の行動を取る権利を保障しているのでは、と感じるからです。そこにはまた、あくまでも自分の考えや文化の優位性を疑わずに判断基準としている態度が見受けられます。
同様な理由で、「寄り添う」の氾濫に閉口しています。
  • by 虫
  • 2019/03/24 2:00 PM
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