「美しい女」(椎名麟三著、講談社文芸文庫『深夜の酒宴・美しい女』所収)

写真》電車

 幼いころ、家のすぐそばに電鉄会社の車庫があった。まだ舗装もされていない裏通り。その道沿いに杭が等間隔で立てられ、鉄条網が張ってある。今思うと、あの杭は線路の枕木だったと思う。廃品を生かして、敷地を囲う塀代わりにしていたのだ。

 

 なによりも僕が圧倒されたのは、そこに立てかけられてあった黒っぽい物体だ。環状で重たそう。自分の背丈よりも高く見える。はじめは「なんだろう」と見当がつかなかったが、やがて「これは車輪じゃないか」と気づいた。建屋には整備中の電車が止まっている。地面のそこここに雑草が生えていた。機械油のにおいが漂っていたようにも思う。鉄道が近代のインフラとして武骨なたたずまいを見せていたころの原風景である。

 

 1950年代半ばの電車はのどかだった。僕が最寄り駅から乗る各駅停車は、たいてい3両か4両編成。車体は当時定番のあずき色で、鋲打ちの出っ張りが露わになっていた。先頭部に行き先の表示板。車内では最後部に車掌が仁王立ちしていた。そこは、乗務員室として仕切られていなかったように思う。車掌は乗客一人ひとりに切符を売って歩くことはしないが、肉声で次の停車駅を告げる。どこか路面電車のような雰囲気を残していた。

 

 小学生時代、自分ひとりで習い事に通っていたころのことだ。その日は急いでいて、電車がホームに停まっているのを見つけるとまっしぐらに走り、飛び乗ろうとして足もとの隙間に落ちてしまった。見事なほどきれいな落下。けがもないので、声一つあげなかった。それでも制服制帽の男性がすぐに駆けつけ、引きあげてくれた。車掌だったか駅員だったかは思いだせない。危ないことだらけだが、それは人間の機転で補われていたように思う。

 

 で、今週は昔の私鉄労働者の物語。「美しい女」(椎名麟三著、講談社文芸文庫『深夜の酒宴・美しい女』所収)。著者(1911〜1973)は兵庫県出身の作家。略歴欄によると、旧制中学を中退後、私鉄会社に勤めるなど職を転々とした。労働運動にかかわるが身柄拘束中に転向、戦後、「深夜の酒宴」で文壇に躍り出た。「ニヒリズムを基調とした実存主義的作風で第一次戦後派作家として注目される」とある。その後、キリスト者となる。

 

 その「ニヒリズムを基調とした実存主義的作風」は若者の心をとらえ、著者はカリスマ作家の一人となった。それは、僕が青春期に入った1970年前後も続いていた。ただ、僕自身は実存主義には心惹かれていたものの、椎名作品は敬遠した。あまりに暗いように感じて退いてしまったのだ。だが年を重ねると、怖かったものも怖くなくなってくる。ということで、今回は彼の代表作を選んだ。手にとった文庫版は2010年に刊行されたものだ。

 

 「美しい女」は1955年に『中央公論』誌に連載で発表された。だが、そこに描かれているのは主に戦前から戦中にかけての日本社会だ。舞台は、おそらく兵庫県播磨地方。地名は「H市のお城」「A市の浜」などと書かれているが、関西に通じている人ならば、ああ、あの都市のことかと察しがつくだろう。そして、登場するのは富裕層や知識層ではない。鉄道職場に働く人々を中心に、市井に暮らすという表現がぴったりくる人ばかりである。

 

 第一章冒頭の一文に、それは凝縮されている。「私は、関西の一私鉄に働いている名もない労働者である」。この「私」、すなわち主人公の木村末男は19歳で会社に入り、「今年はもう四十七になる」。小説は、その「今年」から過去を振りかえるつくりになっている。

 

 この一節にある「レッテル」の話は見落とせない。主人公はそのときどき、左寄りの人からは「無自覚な労働者」とも言われ、右寄りの人からは「無責任」などとなじられてきた。そして今、「人々から与えられたこれらのレッテルへ、人なみの熱い血を通わせ、生命の光を与えてやりたい」という。ここに左翼運動、実存主義、そして最後はキリスト教と拠りどころをずらしながら思索を深めてきた著者の思いが凝縮されているように思う。

 

 主人公は当初、「バッテラ」という木製車輌に車掌として乗務した。「運転台や車掌台が風に吹きさらしになる」つくりなので「振り落されないように」しながら瀬戸内海を眺めていると、職場で募る鬱憤も「何でもないこと」に思われた。「車内で声高らかに次の駅名を叫んでいるとき、自分が鶏でいまときをつくっているのだ、というような気がするのだった」との記述もある。戦前の鉄道員は開放感や高揚感を享受していたということか。

 

 この電鉄線では、車掌が車内を回って検札していたらしい。あるとき、同僚の恋人が切符なしで乗っていたので運賃を徴収した。すると翌日、その同僚から「お前、どうしておれの彼女に恥をかかせたんや」とたしなめられる。そんな几帳面な勤務ぶりが会社からは買われ、賞を受けることになると、仲間の一人から「恥しいことあらへんか」とののしられる。規則遵守(コンプライアンス)至上の昨今の職場からは想像もつかない緩さだ。

 

 親しい同僚からも「木村、お前、あんまり真面目すぎるんや」の声。この場面は、小説前半部の一つのヤマ場だ。主人公は仲間たちに「おれ、普通にやってるだけやぜ」「おれはほんまに無邪気なもんなんやで」「おれはただ電車が好きなだけなんや」と反論する。

 

 主人公の電車愛は半端ではない。それは運転部門に異動になったころの描写から推察できる。ちょうど、バッテラが新型車両に入れ代わる過渡期。その新型を運転する快感がこう詳述されている。「まるで一つの刺戟が微妙で精巧な神経をつたってやがて中枢に達するのを目撃しているかのように、ノッチを入れるわずかな手の動きが、コードをつたわって巨大な八つのモーターに達してそれを動かしはじめるのを感ずるのは、気持がよかった」

 

 ここにあるのは近代文明だ。人間が自分の体を動かすように機械を操っている。ノッチを入れる、コードをつたわる、モーターを回すという過程を実感できるところがモダニズムなのだ。不思議なことに、そこには疎外感が見てとれない。これに対して、当世のIT(情報技術)では機械操作を身体感覚に直結できない。タッチパネルを叩いたりこすったりしながら進める作業にあるのは、浮遊感か。それをポストモダンと呼んでもよいだろう。

 

 表題にある「美しい女」とは、実は想念の産物だ。焼酎を飲んでいるときなどに「私の心に痛切にうかんで来る」「まるで眩しい光と力そのもののような」存在だという。小説では、幾人かの女たちと主人公との関係が描かれるが、それはさほど劇的ではない。筋立てに織り込まれた職場の風景にこそドラマがある。そこに立ちはだかるのは、軍国主義下の人間疎外。主人公は、その時流に呑まれながらも抗う。「美しい女」を追い求めるかのように。

 

 ギクッとしたのは、主人公が事故の記憶を思い返して「学校から鉄橋づたいに帰って来る少年を轢殺した」と打ち明ける箇所だ。電車はハンドルを切れないので、運転する側からみれば避けようとして避けきれない事故だったのだろう。「子供の死は、たえがたいものがある」とも言い添える。だがそれなのに、死なせてしまったではなく「轢殺した」と書く。著者は当時の世相をにおわそうとして、あえてこの表現を選んだのではないか。

 

 電車の追突事故が「全く信じられないくらい続発した」との記述もある。「中堅の乗務員たちの殆んどが軍需産業へ転じたため」だ。新人たちが「十分な訓練を経ないで、いきなり車掌や運転手になった」という。そんななかで悪戦苦闘する主人公の姿も描かれている。

 

 小説の締めくくりで主人公は、戦後の視線で電鉄会社勤めの半生を顧みる。ここで繰り返されるのも電車愛だ。「私は、平凡な人間なのである」「電車にノッチを入れれば動き出すあの平凡な確実さの好きな人間なのである」。そして主人公は、この「平凡」を「悪魔めいたもの」に対峙させる。悪魔めいたとされているのは、戦時中に許せないと感じた「人を轢いてもいいが車はこわすな」という人間否定の風潮だ。美しい女は平凡の化身だったのか。

 

 椎名麟三はこの作品で、電車という近代文明の象徴と向きあう人間の平凡を描いた。それこそが、主人公にとってこの世界の確かな手触りだったのだ。翻って今、IT時代を生きる僕たちは、どのようにしてその触感を手に入れたらよいのか。考えてみたいと思う。

(執筆撮影・尾関章、通算465回、2018年3月29日公開)

 

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