『上海――多国籍都市の百年』(榎本泰子著、中公新書)

写真》七色の上海

 今週も、上海小旅行の話をつづける。先週は、上海外灘のホテルのバーで聴いたジャズらしからぬジャズの話を書いた。そこには上海が遠い昔から国際都市であったことの記憶があり、近い昔には僕たちがいる世界と隔絶されていたことを示す証しもあった。

 

 で、いよいよ『上海――多国籍都市の百年』(榎本泰子著、中公新書)の中身に踏み込もう。著者は1968年生まれ、大学院で比較文学・比較文化を専攻した大学教授。著書『楽人の都・上海――近代中国における西洋音楽の受容』(研文出版、1998年刊)で翌年、サントリー学芸賞を受けた。文化領域のなかでも、とりわけ音楽に対する造詣が深い人のようだ。この本は2009年に初版が出て、18年に再版されている。

 

 この本の特徴は、上海の近現代史を6方向の視点から浮かびあがらせていることだ。章題を並べれば「イギリス人の野望」「アメリカ人の情熱」「ロシア人の悲哀」「日本人の挑戦」「ユダヤ人の苦難」「中国人の意志」。本来なら「中国人の意志」のみで発展すべき都市が、外からやって来た多彩な民族の思惑に左右されたことが目次からもうかがわれる。この街は内外の人々が交ざりあい、異文化が溶けあう坩堝となったのである。

 

 その中心が「租界」だ。「居留地」「区切られた借地」といった語義がある。英国はアヘン戦争勝利の余勢をかって1845年、租界を外灘のある黄浦江西岸に開く。まもなく米国もフランスも租界を置く。英米は63年にそれぞれの持ち分を合わせ、国際色豊かな「共同租界」(International Settlement)をつくりあげた。両租界には中国人も大勢暮らすようになる。上海の租界が名目上消滅したのは、日本軍占領下の1943年だった。

 

 租界は、いわゆる植民地ではない。英国の租界は「依然として清朝の領土であり、イギリスは行政権(警察権を含む)を持っているに過ぎない」と、著者は書く。これは裏を返せば、租界の英国人にとって「本国の意向を伝達・実行する役割」の行政官がいなかったことを意味する。そこは「中国でもなく、イギリスでもなかった」。いわば真空地帯。その結果、「既存の国家に帰属しない、いわば『自由都市』」が出現したのである。

 

 英国の租界、あるいは後の共同租界について、その自治のしくみをみてみよう。そこには1854年、参事会による行政体制ができあがる。当初の参事は7人、高額納税者の選挙によって選ばれた人々だ。英米人ばかりではない。ドイツ人が常連だった時代もある。第1次世界大戦のころからは、それに代わって日本人が一角を占めた。フランス人やロシア人、デンマーク人が選出されることも。この自治組織は国籍を超越していた。

 

 この本でちょっと意外だったのは、米国の影響力の大きさだ。第1次大戦で英仏が「中国を顧みる余裕を失ってゆく」流れのなかで顕著になったらしい。中国人にとって「アメリカ人の陽気さや、フレンドリーな物腰は、支配者然としたイギリス人に比べて親しみを感じさせた」という。米国風は、ニューヨークの摩天楼に似た建築ばかりではない。ハリウッド映画を観る、ジャズを聴いて踊る、といった都市文化が広まった。

 

 ここで、いよいよジャズの話になる。著者は音楽史の知識が豊富なので、このくだりは読みどころと言ってよい。そこにもまた「多国籍都市」らしい歴史が見てとれる。

 

 この本によると、上海に洋楽を広めるのに一役買ったのは、19世紀末に米国の植民地となったフィリピンの楽士たちだという。ジャズなど米国発祥の軽音楽がお手のものだったので、1910年代からは無声映画の伴奏要員として、どっと渡来した。「彼らはその巧みな腕前で、映画館の仕事だけでなく、西洋人の舞踏会やホテルでの演奏に進出するようになる」。僕が外灘で聴いた「伝説のジャズ」の源流はここにあったのだ。

 

 ところが、やがて異変が起こる。きっかけは、ロシアで1917年に起こった社会主義革命だ。貴族や資本家、官僚らが国外に出て、その一部が上海にも押し寄せた。このなかにはペテルブルグやモスクワで音楽の高等教育を受けた人もいたという。ロシア出身の音楽家はクラシックの基礎があるうえに「生活のためにジャズやダンスミュージックのレパートリーも積極的に身に付けていた」。これが、上海音楽界の勢力図を変えたのだ。

 

 そうか。あの「伝説のジャズ」には、米国の民衆が生みだし、その植民地の人々が育んだ大衆文化の小粋さに、帝政ロシアの名残とも言える貴族文化のたおやかさが入り混ざっていたのだ。先週書いたようにアフタービートが強くないのはそのせいかもしれない。

 

 この本でもう一つ印象に残るのは、租界がそこに住まう人々の本国を映す鏡となっていたということだ。英国の貴族や富豪が幅を利かせる共同租界では第1次大戦後、警察官を英国で募ったが、採用されたのは失職中の復員軍人や労働者が多かった。その結果、英本国の階級社会が再現される。警察官は「同じ国の人間に軽んじられる一方、中国人の前では大英帝国の威光を示す存在でなければならないという、複雑な立場」に追い込まれたという。

 

 階層の色分けは日本人社会にもあった。この本によれば、上海の日本人は「土着派」と「会社派」に大別された。前者は、この地に活路を求めて住みついた人々。後者は、大企業の駐在員を中心とする一群だ。さらに後者は「中間層」と「エリート層」に二分されたという。土着派と会社派中間層は共同租界北部の虹口(ホンキュー)に、会社派エリート層は共同租界中心部やフランス租界に、というような住み分けが定着したらしい。

 

 そのころ、虹口は悪臭の漂う町だったようだ。この本がとりあげているのは、住人たちのトイレ事情。「馬桶(モードン)」と呼ばれる壺が使われていた。それぞれの家庭は夜が明けると馬桶を道路に出し、中身が作業員によって回収されると「竹ひごを束ねた専用の道具」で洗った。この地区は、ナチスドイツの圧政を逃れたユダヤ人の避難地ともなったが、難民が衝撃を受けたものの一つが「『壺』だけのトイレ」だったという。

 

 僕は今回、その虹口にも足を延ばしてみた。虹口公園にある魯迅紀念館を訪れたときだ。作家魯迅はこの町に暮らし、書店主の内山完造とつきあいを深めた。「内山は魯迅の書籍代のみならず、アパートの家賃・光熱費まで立て替え払いをしていた」。上海では、華やかな一角の外側にも文化活動を下支えする国際交流があったのだ。紀念館から内山書店まで歩くと、そこにはもはや悪臭はなく、小ぎれいなたたずまいの普段着の町が広がっていた。

 

 翌日は、旧フランス租界を散策した。こちらは、かつて日本人の会社派エリート層のうちもっとも豊かな人々が居を構えたという高級邸宅街。今、地下鉄駅から地上にあがると、東京・代官山と見紛うおしゃれな町が見えてくる。コーヒーショップでカフェラテを飲んでいると、中国にいることを一瞬忘れるほどだ。ここでは革命家孫文の旧居と彼に先立たれた妻宋慶齢が後年暮らした家を見学したが、どちらも芝生の庭が美しい欧風の邸宅だった。

 

 再認識させられたのは、この国の革命の原点には欧米文化を熟知する孫文がいたということだ。その三民主義と地続きで、社会主義政権が生まれた。だから、彼は今も敬われている。上海が国際都市の空気を保っていられるのは、そんな経緯があるからだろう。

 

 今の上海を象徴するのは、ビジネス街の高層ビルの林立だ。印象としては、東京のそれをはるかにしのぐ。だが、そこだけに目を奪われてはいけない。外灘の郷愁、虹口の日常、旧フランス租界の洗練……それらが交じりあって独特の街模様を織りあげている。

 

 長江河口部にあって起伏に乏しい町が、歩いていて退屈しないのはそのためだろう。

(執筆撮影・尾関章、通算467回、2019年4月12日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

■通算回数は前身のブック・アサヒ・コム「文理悠々」の本数を含みます。

■「文理悠々」のバックナンバー検索はこちらから

コメント
コメントする