『水の旅――日本再発見』(富山和子著、中公文庫)

 面の惨劇である。広島市北部を襲った土砂災害の被災地をヘリコプター映像で見て、そう思った。目に飛び込んでくるのは、山腹を引っ掻いたように延びる幾筋もの土石流の跡だ。朝日新聞8月28日付朝刊によると、広島市では20日未明、土石流が少なくとも75カ所で起こったという。広島県の調査結果だ。土石流75本の同時多発は、まさに面の災害と呼んでよいだろう。
 
 面ということで脳裏によみがえるのは、3年前の3月11日、僕たちの背筋を凍らせた津波の空撮映像だ。押し寄せる海水が毒蛇のように人々の暮らしをのみ込んでいった。あのときはリアルタイムのことで、見ている者の心は恐れと祈りが入り交じって、ざわついた。今回は被災の夜が明けた後、その爪痕を見せつけられたのだが、それでも心が痛んだ。土砂の下に救出を待つ人々が大勢いるであろうと想像されたからだ。
 
 ここで言えるのは、僕たちが水の列島に住んでいるということである。1000年の時間幅で見れば、海沿いは幾度となく津波に洗われ、集落がまるごと失われるということを繰り返してきた。山沿いは山沿いで、土砂が人々の暮らしを台無しにする災厄が後を絶たなかった。ここで見落とせないのは、土砂も水によって流れるということだ。土石流を「山津波」と呼ぶのはあたっている。恐れるべきは「水」の存在である。
 
 広島土砂災害で、むき出しになった白っぽい山肌がテレビに映しだされた瞬間、僕は「マサ土だな」とつぶやいた。30年ほど前、科学記者になりたてのころ、その地質用語を教わったからだ。山陰地方で起こった土砂災害について、発生のしくみを取材していたときだったと思う。専門家に聞くと、西日本に多い花崗岩地帯では、その岩石がぼろぼろになった「マサ土」が災害のリスクを高めているということだった。
 
 広島の山並みも、マサ土に覆われている。この表土が水をたっぷり含んで、とうとう耐え切れずに流れ落ちたということだろう。そう言えば、駆け出し時代に知った専門用語に「タンクモデル」という言葉もあった。土壌を、水を貯えるタンクに見立てる考え方だ。土に水がしみていくにも時間がかかるのだから、それは雨を無尽蔵に受け入れてはくれない。いつかはあふれるタンクとみるべきなのだ。

 今年、中国地方の雨はすさまじかった。それは、8月6日に広島市で開かれた平和記念式典が、雨の降りしきるなかで催されたことでもわかる。8・6の式典といえば、灼熱の日差しを受けて、扇子で暑さをしのぐ参加者たちの姿が目に浮かぶ。僕の印象では、いつも炎天下の開催だった。雨に見舞われたのは43年ぶりと聞いて、異様な夏を思う。列島のタンクは、広島であふれ返ってしまった。
 
 そんな災害を目のあたりにして、今週の一冊は『水の旅――日本再発見』(富山和子著、中公文庫)。著者は、文学部出身で編集者生活を経験した異色の「水」探究者。この本は、単行本が1987年に出た。1980年代に『旅』『文藝春秋』などの雑誌に掲載された14編に書き下ろしの3編を加えて、まとめあげている。論考というには軽妙で、エッセイというよりは取材記事風だ。中公文庫版の表紙カバーには「ルポルタージュ」とある。
 
 中公文庫版の初版は2013年の刊行だ。著者は「中公文庫版に寄せて」と題するあとがきで、東日本大震災の原発事故やTPPのような今日の問題をこの本に引き寄せている。四半世紀を経ての文庫化は意義あるものと言えよう。
 
 本文には、水がらみの日本語表現を「水あげ、水入らず、水かけ論、水ぎわ立つ、水臭い、水商売、水の泡、水増し、水をあける、水をさす、水に流す、水もの、湯水の如く、水を向ける――」と並べたくだりがある。著者は、日本に水がらみの言葉が多いのは「水の豊かな国だから」でも「稲作文化だから」でもない、と言い切る。「日本人と水とのかかわりの緊密さは、じつは水をめぐっての緊張関係のゆえ」というのだ。
 
 理由はこうだ。「日本は地形急峻で川は短く、雨は梅雨と秋の台風時にまとまって降る。つまり降れば洪水、照れば渇水という、水の条件のきわめて不安定な国である」「暴れ川とつねに対峙してきた日本人は、水をめぐっての緊張関係の上に土地を作り、社会を築いてきたのだった」。列島の水は不安定の一語に尽きる。今年の雨は梅雨と秋の台風の間に切れ目がなかったのだから、不安定の針が振り切れたと言えるだろう。
 
 この本で驚かされるのは、「海抜け」「水抜き」をめぐる話だ。鬼怒川の支流、男鹿川の五十里(いかり)湖は人造湖で、1956年に五十里ダムが造られて生まれた。湖底には街道筋の宿場町が眠っている。「その五十里湖が、三〇〇年も昔、まったく同じ場所に、存在したというのである」。1683(天和3)年の大地震で、近くの葛老山が崩れ、男鹿川をせき止めたのだ、という。
 
 初代五十里湖は、40年間居座った。この間、村人は山腹に移って暮らす。大名行列も山の背を通る。湖では舟運が始まる。だが、「山を開墾して得た猫の額ほどの畑」しかない村人たちは、会津藩に水抜き工事を繰り返し陳情した。藩は1707(宝永4)年、ようやく工事に手をつけるが、凝灰岩の分厚い岩盤が立ちはだかり、突破できない。10年ほどして続行を断念、工事の責任者だった高木六左衛門は切腹した。
 
 ところが、それから数年後、1723(享保8)年8月、長雨で水位の上がった湖水が土砂の壁を破って下流に流れ落ちた。「四〇年間耐えに耐えぬいてきたダムが、一夜にして抜けたのである」。これが「海抜け」だ。著者が古文書の記録を調べると、「ダムは昼過ぎに決壊し、翌日の朝までに、きれいに干上がった」ことがわかる。重機のない時代とはいえ、人力の10年は自然の20時間にも及ばなかったことになる。
 
 「日本列島の歴史は水抜きの歴史だったと、私はよく思う」と著者は書く。全国の盆地には「湖水だったところが一夜にして抜けた」という言い伝えがいくつも残っているらしい。水が一気に抜ければ当然、災害が起こる。そこにも水との緊張関係がある。
 
 手ごわい自然を相手にするには、やみくもに抗うだけではいけない。そのことを教えてくれるのは、橋の造り方だ。福井市を流れる足羽川の九十九(つくも)橋は、越前の戦国大名柴田勝家が架けたときは「半石半木」の造りだった。「河川敷の部分を石橋とし、川の流路に当たる部分を木橋としているところから見ても、水に対応した橋づくりを考えたのであろう」。大洪水が起こって木が流れても石を残す、という発想だ。
 
 余談だが、僕は新聞記者としての初任地が福井で、この橋をしばしば渡っていた。それなのに「半石半木」の話を聞いた記憶がない。この本には、葛飾北斎『諸国名橋奇覧』に収められた九十九橋の絵が載っており、石と木がつながっている。自らの不勉強に赤面した。
 
 水かさが増したとき、わざと流す「流れ橋」や、なすがままに潜らせる「沈下橋」は、自然に逆らわないという点で九十九橋に通じる。それだけではない。「大井の渡し」にも同様の発想があったとみる著者の考察はおもしろい。橋がないのは「戦略上の理由から」という通説に異を唱え、「つねに流路を変え動きまわっていたこの川に、橋をかけるのは容易ではなかったろう」と推察する。
 
 著者が随所で強調するのは、「自然とは人間が利用してこそ守られる」という考え方だ。「木を伐ってはまた植える」という営みの大切さを訴え、「伐っては植えるという行為は、木が成長してまた土になりさらにつぎの生命を育むという自然の輪廻(りんね)に、人間もすすんで参加するということ」と説く。そこで批判するのは、「自然を守るとは自然に手を触れぬこと」とみる立場。80年代ごろの自然保護論には、そんな傾向もあった。
 
 自然を謙虚に畏れ、無闇に闘わず、賢明に使う。そんな著者の思想で、都市の「住」のありようを考えたとき、どんな解があるのだろうか。緑豊かな山に町を押し広げていく現代都市の生理を都市住人の一人として省みて、そう問うてみる。
 
写真》水の列島。飲み水のペットボトルにも地名がある=尾関章撮影
(通算228回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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