『探検博物学者 フンボルト』(ピエール・ガスカール著、沖田吉穂訳、白水社)

写真》南米

 新聞記者暮らしが終わりに近づいたころ、僕はうれしい仕事にありついた。読書のページの書評委員。社外の人が委員となって新刊書を評するのだが、そこに社内記者が交じる。好きな本を選んで自分なりの視点でものを書けるのだから、望外の幸せだった。

 

 書評した本のなかで忘れがたいものの一つが、『世界の測量――ガウスとフンボルトの物語』(ダニエル・ケールマン著、瀬川裕司訳、三修社)。18〜19世紀のドイツ人科学者、博物学のアレクサンダー・フォン・フンボルトと数学、物理学のカール・フリードリヒ・ガウスを対比した本だ。著者は小説家であり、この作品も二人の人間像の彫りだし方が絶妙なのだが、それだけではない。その思考様式の違いを見事に際立たせている。

 

 書評欄に載った拙稿の冒頭部を引用してみよう。「なんでもかんでも集めて回る。物事の多様さが好きな科学者がいる」「なんでもかんでもひたすら考える。多様の裏に普遍をみようとする科学者もいる」「その違いは、理系と文系の区分けより大きいのかもしれない」

 

 あのとき、この本を読んですぐ僕は書評を書こうと思い立った。本の中身が、自分の科学記者体験と響きあったからだ。ひとくちに自然科学といっても、それはひと色ではない。自然界から新種生物を見つけだすことに血道をあげる博物学。自然界から普遍法則を探りだすことに熱中する物理学。この二つが対極だ。中間領域もある。たとえば、化学者は物質の多様さに興味を抱きつつ、そこに普遍のしくみをみようとしているように思える。

 

 生物系の研究者は、生物界に新種が登場しても、それを苦にする気配はない。物理系の研究者は、物質界に新しい粒子が次々に見つかると、世界にはもっと根源の粒子があり、それが生みだす仮の多様性を見ているだけではないかと考える。これが思考様式の違いだ。

 

 それなのに世間では、博物学も物理学もひとくくりに理系と呼び、文系と対立させる。これが、さまざまな副作用を及ぼしてはいないか。教育面で言えば、数学は苦手だが野外観察が好きな子が、前者を理由に「君は文系だね」と言われてしまう不幸。学術文化面では、人文社会科学にも「多様さが好き」派と「普遍をみよう」派がいて、それぞれ自然科学界の同志と共感しあえるのに、そのことが忘れ去られていることのもったいなさ。

 

 で、今週の1冊は『探検博物学者 フンボルト』(ピエール・ガスカール著、沖田吉穂訳、白水社)。前述『世界の測量…』とは異なり、フンボルト(1769〜1859)に的を絞った伝記である。訳者あとがきによると、著者は、1953年にフランス文学界で最高の誉れとされるゴンクール賞を受け、小説やエッセイを量産してきたが、70年代からは伝記文学に傾倒するようになった。本書の原著は85年に刊行、この邦訳は89年に出ている。

 

 フランス人の伝記作家がフンボルトをとりあげたのは、彼がドイツ人の枠に収まらない人物だったからだ。この本にも書かれているように、フンボルトの母方の曽祖父は16世紀末にナントの勅令で母国を追われたフランス人新教徒であり、曾祖母はスコットランド人だった。この系譜が「コスモポリタンの精神」に富む家風を生みだした。それが「曾孫アレクサンダーにおいて最高度に発揮されることになる」と、著者は書く。

 

 フンボルト家はドイツ・プロイセン王国の貴族だったので、アレクサンダーは兄のヴィルヘルムとともに高水準の教育を受ける。ただ、この兄弟は対照的だ。兄は言語学者であると同時に外交官であり、自国の官僚として王道を歩む。一方、弟は自然界に関心を抱き、探検博物学者となる。コスモポリタン度が高かったのは弟のほうだ。自由人としてフランス革命の精神に共感し、なにかというとパリを偏愛する様子を、著者は巧みに切りだしている。

 

 この本の冒頭に登場するのは、18世紀の後半、ベルリン植物園で威容を誇っていた竜血樹だ。南国の樹種であり、そもそもプロイセンの気候にはなじまない。寒気を避けるために塔状の建物のなかに収められていた。樹皮を切り刻むと赤い樹液がにじみ出てくる、という。その不気味さは「この木をただ単に遠く離れているだけでなく、やや超自然的でもある一つの世界に結びつけていた」。それに魅せられた一人が、若き日のフンボルトだった。

 

 そんな異世界の発見場所が、フンボルトにとっては南米だったと言えよう。この本は中盤で多くのページを割いて、その一部始終を活写している。巻頭の行程図によれば、1799年から1804年にかけて、彼は相棒の医学生エメ・ボンプランとともに大西洋を渡り、アメリカ大陸を旅した。ヤマ場は二つある。一つは、南米北部のオリノコ川流域の探検。もう一つは、アンデス山脈に聳えるチンボラソ(6310m)の登山である。

 

 チンボラソ登山については、もう少し触れておこう。フンボルトたちは残念ながら登頂には成功しなかった。標高5881mで行く手をクレバスと霧に阻まれ、退却を余儀なくされる。ただそれは、当時知られている限りでは人類が到達したもっとも高い地点だった。ここで見落とせないのは、高度が1の位まで記録に残されていることだ。一行は稜線をたどりながらも気圧計を携え、その測定値から高さを割りだしていたのである。

 

 このことがフンボルトを一躍有名人にした。この本によれば、一行が下山後、「ヨーロッパと北アメリカの諸新聞の社外通信員たちが、『アレクサンダー・フォン・フンボルト男爵、世界で一番高くまで登った男となる』、というニュースを先を争って伝えた」という。

 

 さてここでは、南米がそのころの欧州人にとってどんな存在だったかをみることで、フンボルト流の科学に迫ってみよう。探検に赴く直前の記述に彼の南米観が出てくる。そこは、農耕文化の手が入っていないので「この緯度に生育し得るあらゆる植物種が、その最も旺盛な姿で集まっている」。自然が「全貌をほぼ現し尽くす」、すなわち「その力を最大限に発揮する」ので、「自然を支配する法則が最もよく見えてくる」というのだ。

 

 その一端をフンボルトは南米に上陸後まもなく、クマナ(現ベネズエラの都市)の郊外で見てとる。「常軌を逸した植物」の横溢だ。銀色の花を咲かせるもの、樹皮がかぐわしいものがある。イネ科の草が高さ5mほどに伸びていたりもする。彼は「自分が今や身を浸し、どっぷりと漬っている自然の過剰さ、異常さ、巨大さに文字通り魅了されていた」が、一方で探究心も奮い立たせたという。それは、ロマン主義と近代科学精神の併存だったのか。

 

 自然の「全貌」が立ち現れたのは、オリノコ川流域の上流部だったようだ。水系は、アマゾン川流域の上流部にカシキアーレという川でつながり、錯綜している。一帯の密林でフンボルトは疎外感に襲われる。「自然は、地を這ったりその上を滑って行ったりする生物、障害物を跳び越えたり、飛翔したり、巨大な木々の間を枝から枝へと飛び移ったりできる生きものにしか開かれていない」。地上に、枝々が織りなす「もう一つの平面」があるとは。

 

 この本は、フンボルトの科学者としての目論見をこう書く。「『文明化された』人間がまだ一人も入り込んでいない土地へ行けば、人間とある種の動物の間に原始の親密な関係が残っているのを発見できるのではないか」。ここには、「人間の起源」に対する強い関心がある。著者によれば、フンボルトは「万物の調和」を重んじており、それを「原始の楽園」に見ようとしていたらしい。裏を返せば、近代に至る人類史が調和を壊したことになる。

 

 この本は、フンボルトの高所志向も説明している。高山は動植物が乏しく「地球が宇宙の他の部分と結びついていることが直接感じられ、星の支配する空間の息吹きを受けて、創造の本質を露わに見せてくれる」。これをもって著者は、その探検を「どこか形而上学的」と形容するのだが、僕には逆の感想がある。彼は植物も動物も星も人間もすべてを調べ尽くして世界の核心に迫ろうとしたのだ。フンボルトこそは形而下の哲人ではないか。

 

 『世界の測量…』の書評で、アレクサンダー・フォン・フンボルトを「物事の多様さが好きな科学者」と僕は書いた。ただ、それは「好き」で終わらなかったことが『探検博物学者…』からわかる。「多様さがもたらす調和」を見たくて、なにもかも知ろうとしたのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算476回、2019年6月14日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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