●「ゴーンショック――素顔のビシャラ」

(朝日新聞連載、2019年6月21日〜同月28日朝刊)

写真》南米中東欧州――朝日新聞2019年6月21日、22日、25日朝刊

 僕の勤め先は、東京下町の築地にあった。地下鉄日比谷線の東銀座駅で降り、新橋演舞場の角を曲がって市場方面へ向かう。これが、朝の通勤経路だった。粋筋の空気が漂う旧木挽町界隈。沿道には、今も老舗の料亭がある。だが、それだけの街ではない。10年ほど前まで、日産自動車の本社機能がここにあったのだ。演舞場が丸ごと入る高層ビルの上層階が、その向かい側にあるビルとともに「世界の日産」の本拠だった。

 

 20年ほど前のことだ。その一角が慌ただしくなった。日産自動車のトップが外国人に代わったのだ。1999年、フランスの自動車会社ルノーのカルロス・ゴーン氏が「最高執行責任者(COO)」となり、翌年「社長」の肩書を得て翌々年には「最高経営責任者(CEO)」に就いた。後に会長も兼務する。日産は、文字通り「世界の……」になった。僕の職場では、あのころから「ゴーンを見かけたよ」が自慢話の一つになったように思う。

 

 世間話にCEOとかCOOとかいう言葉が出てくるようになったのも、ほぼ同時期ではなかったか。日本の企業社会では、会長→社長→副社長→専務→常務→ヒラの取締役が経営陣の序列というのが通念だったが、そこに最高経営責任者や最高執行責任者という聞きなれない役職が紛れ込んできたのだ。勤め人の間では、その肩書をどう性格づけたらよいものか確信がもてぬまま、トップダウン型の上司を「CEO」と渾名したりしたものだ。

 

 いずれにしても、ゴーン氏の登場は日本の企業社会に衝撃だった。すぐに思い浮かぶ難題は、社内の意思疎通だ。社長がフランス人だからといって、フランス語が公用語になることはあるまい。だが、これまで通りに日本語で丁々発止の議論ができるとも思えない。結局は、国際語の英語を使うというのが妥協点だろう。英語力が海外駐在員のみならず、国内勤務の社員にも必修となった。人々にそう痛感させたのが、あのときのゴーンショックだ。

 

 日本の企業は1980年代くらいから、国際化の歩みを速めた。外国がただの輸出入先ではなくなったのだ。投資の舞台になった。生産の拠点にもなった。経済のグローバル化である。バブル経済の絶頂期には海外に進出する動きばかりが目立ったが、それが崩壊すると逆の流れが強まってくる。外国資本が日本列島に上陸するだけでなく、日本産業界のど真ん中にまで入り込んだ。そのことを象徴するのが、ゴーンCEOの出現だったと言ってよい。

 

 で、今週は新聞の連載記事から。朝日新聞が6月21日朝刊から始めた「ゴーンショック――素顔のビシャラ」だ。28日まで飛び石で5回続いた。同じ主タイトルの記事は、ゴーン氏が去年11月に金融商品取引法違反の疑いで東京地検特捜部に逮捕されて以来、断続して紙面に載っているが、今回は、彼の生い立ちにまでさかのぼった内容。副題は、本名「カルロス・ゴーン・ビシャラ」から採られた。当欄は、その連載の前半に的を絞る。

 

 ゴーン氏は1954年、南米ブラジルに生まれ、6歳からは一家のルーツ、中東レバノンで暮らした。フランスに移り住んだのは17歳のとき。エリート養成校で高等教育を受けるためだ。その後、フランスのタイヤ大手ミシュランに就職してもブラジルで仕事をしている。取材班の記者たちは、そんなグローバルな個人史を浮かびあがらせようと各地で関係者の話を聞いた。最初の3回は、ブラジル、レバノン、フランスの順に焦点を当てている。

 

 第1回の読みどころは、ゴーン氏の祖父ビシャラ・ゴーンさんの立志伝。ちなみに、氏の本名にある「ビシャラ」は祖父の名を継いだものだ。ビシャラさんはレバノン生まれだが、13歳でブラジルへ渡った。アマゾン川流域上流部にあるゴム集積地に住み、鉄道でゴム産地のボリビアに入って砂糖や塩を売り、帰路、青果類を買い込んで地元の町でも商いをしたという。裸一貫の起業家である。20世紀初めのことらしい。

 

 このくだりには、ビシャラさんが移住を選択した背景にスエズ運河があったという説明がある。この運河ができたのは1869年。記事によれば、そのことで「中国産品が欧州に流入するようになり、レバノンから欧州への輸出が減少。経済的に追い込まれたレバノン人は世界各地に移住した」という。遠隔地との交流や交易が海運中心だった時代、欧州とアジアを結ぶ近道の開通は世界を変える一大要因だった。なるほどなあ、と思う。

 

 記事によれば、ブラジルでは、レバノンからの移住者の多くがビシャラさんと同様、「商業で身を立てた」。そして今、大勢の子孫がブラジル人として暮らしている。その理由を、レバノンにあるノートルダム大学レバノン移民研究所のギータ・ホウラーニー所長は、こう解説する。「レバノン人は交易国家として栄えた古代フェニキア以来、商人としての伝統を受け継いできた」。レバノン、シリアの一帯は、かつてフェニキアだったのだ。

 

 この記事を読んでいると、ゴーン氏の系譜が乗りもののイメージとともに目に浮かんでくる。遠い祖先はフェニキアから〈船〉で地中海に出て、沿岸の港町で物品を売り買いしていたのではないか。祖父は新しい活路を求めて南米へ渡り、〈鉄道〉を頼りに商いを始めた。そして氏自身は〈自動車〉をつくっては売る仕事に携わって、〈飛行機〉で世界中を飛びまわる。そう言えば逮捕直前に日本に着いたときも、ビジネスジェットに乗っていた。

 

 連載第2回は、主舞台がレバノンだ。ゴーン氏は、ここでイエズス会系の名門一貫校コレージュ・ノートルダムに入り、高校まで勉学に励んだ。驚くのは、学園の国際性だ。記事によれば、在学時の教職員にはレバノン人に交じってフランス人、スウェーデン人、エジプト人もいた。授業では、公用語のアラビア語のほかフランス語と英語も必修で学んだ。ブラジル時代から家族とはポルトガル語で話していたから、この時点でもう十分に国際人だ。

 

 この学園生活は、地球上には異文化が並存するという意識をゴーン少年の心に植えつけたに違いない。記事には「この名門校で多言語を習得したことが、『多様性』を強調する『ゴーン流経営』の原点を形づくったようだ」という記者の分析が書き込まれている。

 

 この回は、学校時代のゴーン少年評も伝えている。「最優秀の生徒の一人だった」と、ある同級生が言う。「高校時代は負けず嫌いで知られていたそうです」と、現校長は語る。ゴーン少年が夢中になった遊びについての記述もある。「リスク」と呼ばれるボードゲーム。「世界地図の上で手駒の軍隊を動かしながら、敵のプレーヤーの領土を奪い、『世界征服』をめざす」のだという。世界市場の席巻をめざす後年の姿とだぶって見えるではないか。

 

 ところが連載第3回では、ゴーン氏の別の一面が見えてくる。パリで理系のエリート養成校2校に学んだころのことだ。当時の心模様を自著でこう打ち明けているという。「どこに行っても、みんなとまったく同化して集団のなかに溶け込めたと思えたことはありません」。知人によれば、フランス国籍の取得を促されても応じなかったらしい。ブラジルとレバノンの二重国籍にフランスの国籍を加えたのは、日本への赴任直前だったようだ。

 

 ゴーン氏の孤独から推察されるのは、フランスのエリート養成校の冷たさだ。自国の高級官僚や大企業トップの人材を育てようとするあまり、内向きの空気が支配的だったのではないか。そこに、レバノン系でブラジル出身の若者が飛び込んだ。たぶん、少年期の学び舎ほどには多様性志向がなかったのだろう。そのせいか、多言語が堪能でも人々と心を通わせられなかった。その疎外感は、上昇志向のバネにはなったかもしれないが……。

 

 今回の事件について、ゴーン氏が問われている刑事責任をどうこう言う資格は僕にはない。経営者の倫理をここで論じるつもりもない。ただひとつ言えるのは、次のような一般論である。大きな仕事をした人が大きな報酬を受けることは、悪いことではない。世間もそれを受け入れるだろう。だが、その度が過ぎて富のありかが極端に偏ると、人の心に歪みが出る――。今回の事件にも、そんな側面があるのではないか。

 

 ゴーン氏は、働き盛りが新自由主義の台頭期にぴったり重なる。富の分配が市場に委ねられ、成果が収入に結びつく時代は野心に歯止めがかかりにくい。そこに罠があったのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算478回、2019年6月28日公開)

 

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