●『ひとは生きてきたようにしか死なない』(草柳大蔵著、解説・下重暁子、祥伝社新書)

写真》週刊誌ジャーナリズム

 死とは何か。僕はずっと、生命が緩やかに先細りして最後にたどり着く終着点と思ってきた。病に冒され、余命をほのめかされれば、悶々と悩むに違いない。ならば苦悩を先取りして、生の危うさについてあらかじめ考えておこう。若いころ、喫茶店に入り、コップを見つめて「実存とは何か」と哲学青年を気どる――そんな習性が僕にはあったが、それもこの死生観に由来する(当欄2016年3月4日「フランクフルト学派で社会派になる」)。

 

 だが、実際は違う。死は遮断にほかならない。そのことを去年、僕は痛いほど思い知らされた。循環器系の発作で間一髪、落命を免れたのだ。緊急入院後の治療で血流を取り戻したのだが、そこに至るまでにいくつもの分岐点があった。一瞬一瞬の偶然がよい方向に振れた結果、救命された。分岐のどこかが逆に振れていれば、そこに死があったのだと思う(当欄2018年10月5日「遮断今週は「まくら」のみにて失礼」)。

 

 これは、突発の病に限った話ではない。おそらく、闘病の見通しが芳しくなく自らの最期に思いをめぐらせている人にも、死は予想の通りには訪れないだろう。大海に突然、疾風が吹く。そのとたん、小舟が転覆して没する。人が死ぬとは、そういうことではないのか。ならば、若いころにコップをにらんで実存を考えていたことが、ばかばかしく思われる。そんなことで死は避けられないし、人生の美しい幕引きを実現できるわけでもない。

 

 それで興味を覚えるのは、僕らの先行世代はどうだったのかということだ。親の世代は戦時中に思春期や青春期を過ごした。男子なら、いつ兵隊にとられてもおかしくない日々を送った。その先には「英霊になる」道筋が現実味をもって待ち構えていた。女子は「銃後の守り」に回ったが、それでも空襲に遭い、生命を落とす危険があった。若くしてすでに「遮断」の可能性が目の前にあったのだ。コップを見つめている場合ではなかっただろう。

 

 で、今週は『ひとは生きてきたようにしか死なない』(草柳大蔵著、解説・下重暁子、祥伝社新書)。著者(1924〜2002)は昭和戦後に一世を風靡した評論家、ジャーナリスト。著者略歴欄には「1948年、東京大学法学部政治学科卒業」とある。学徒出陣に引っかかった世代だ。自分の未来に「英霊」の影が重なっていたに違いない。この本は1999年に保健同人社から出た単行本を甦らせたもの。昨秋、刊行された。

 

 いま「一世を風靡」と書いたが、これには補いが要る。著者略歴欄にある通り、新聞記者出身だが、それを辞めてからの活動が注目に値する。『20世紀日本人名事典』(日外アソシエーツ、2004年刊)によると、1958年にルポライターとなり、「一時、集団執筆によって週刊誌のトップ記事を作る“草柳グループ”を主宰した」。フリーの書き手によるノンフィクションは1970年代に全盛期を迎えるが、その草分けだったと言ってよい。

 

 この本の刊行を僕が知ったのは、著者のご子息と久しぶりに会ったことがきっかけだ。彼は高校時代の級友。「マスコミは虚業」と言い放って別の道に進んだ。今回再会して、その発言が話題になり、「あれは実は親父の考えでもあった」と打ち明けられた。戦後日本のメディアを切りひらいた人が業界の虚業性を見抜いていた。これは、本人が内省の人だからこそだ。「最近、親父の本が復刻された」と聞いて、それをぜひ読もうと思った。

 

 本の帯に「いかに老い、いかに逝くか」とある。この惹句の通り、著者が70代半ばになってまとめた高齢者向けの生き方指南だ。だが、そこにはジャーナリストの視点がある。

 

 第一章の冒頭は、親友だった陶芸家の死をとりあげた一編。がんで亡くなった後、本人が生前に書き残した書面が著者に届く。余命が短いこと、密葬を望むこと、香料供花の類いを遠慮することを告げ、自作の焼きものの「御愛用」に対する感謝の念が簡潔に綴られている。これを読んで著者は思う。「人生のあらゆる断面で、いつそこで人生が終わってもかまわないほど自己完結度が高い、そういう人生を送りえた人間がいるのではないか」

 

 この親友は、著者と同年の生まれ。尋常高等小学校を出て「南満洲鉄道(満鉄)」に勤めた。終戦時は陸軍飛行師団で兵役に就いていた。戦後、ほとんど独学で陶芸を覚える。「自己決定の連続」のような生活を送った人で、「『陶芸家』といわれるのを嫌って『オレは茶碗屋だ』と言ったが、そこに卑下する響きは少しもなかった」(引用部のルビは省略、以下も)。だからこそ、作品を愛でてくれた友人への謝辞にも「御愛用」とあるのだろう。

 

 自分の美学を貫いた人らしい。だが、肩肘を張った感じがしない、淡々と生き、淡々と死んでいった。昔はそんな人がたくさんいた。この一節で、僕は昭和戦後に引き込まれる。

 

 この交遊からもわかるように、著者は市井の人々を敬愛した。自分史の自費出版ブームを前向きにとらえたくだりにも、その片鱗がある。歴史小説は戦国武将や維新の志士を扱うことが多いが、「戦さをされるたびに迷惑した百姓町人のことはどうなのか。それを書いたのが、山本周五郎氏」という。「一所懸命生きてきた人は、その生きてきた時間そのものが歴史だから、公的な立場の歴史が曲がってしまうと、アレレということになる」は至言だ。

 

 本題に入ろう。まずは老い方の2分類。著者は「年なりに生きよう」型を高僧明恵上人、「まだ若いもんにも負けんぞ」型を旗本大久保彦左衛門になぞらえるが、どちらが良いとは決めつけない。年寄りの内面には明恵と彦左が「同居している」とみる。

 

 この本には、彦左型のがんばりを「老いの入り舞い」「穏座の初物」という言葉で形容するくだりもある。それは、歌舞伎役者が舞台からの退場間際にもうひと舞い踊ることのようであり、青果物と同様、時季遅れであっても捨てがたい、というのだ。

 

 だが著者本人は、どちらかと言えば明恵型寄りらしい。「私は年齢をとって、ただ単に『バカ』をやらなくなったばかりではなく、言葉も動作も“小ぶり”(関西でいう“かさを低く”)にまとめるようになったと思う」と告白している。対談で自分が話す分量を半減すれば相手から聞きだせることが倍増する。著述でも文章を短くすれば「伝えたいこと」がよく伝わる。なるほどと思うことばかりだ。自身の健康法も、ジョギングではなく速歩だという。

 

 この本は、死に方も2分類する。引きあいに出されるのは俳句だ。一方は「働きて忽と死にたや銭葵」(古賀まり子)、他方は「死に死にてここに涼しき男かな」(村上鬼城)。前者は忽然と訪れる死を素直に受け入れる思いの表れだが、後者は難解。著者は道元の思想に照らして「人間は死に向かって毎日を生きているのだから、根本のところは『死を生きている』」という解釈を導く。だが、そんなふうに死を意識した生き方はなかなかできない。

 

 ここでも著者は、どちらが良いとは断じない。「二つの句の間に、人々はその人なりの『死』を置くことになりはしまいか」。かんたんには答えの出ない問いをあえて示して、ああでもある、こうでもあると考察する。この思考様式に、僕は昭和戦後にはあった文人のバランス感覚をみる。ネット時代の今は、こうはいかない。文章の「小ぶり」化も極限にまで達して「伝えたいこと」は伝わるが、そこに熟慮の跡が刻まれることはめったにない。

 

 そして、話は特攻隊に及ぶ。著者は、隊員の遺書に「生きんとして生きがたく、死せんとして死しがたし」という言葉を見つけて、彼らは「『決死』の覚悟で飛び立ったのではない」と書く。「『生還』の可能性」があるから「死しがたし」なのだ。「生還」があるとすれば搭乗機の不具合で基地に戻るような「偶然」しかないが、それでも生き延びる未来が少しはあった。末期患者にも通じる心理だろう。死はいつも偶然と絡みあっている。

 

 僕がもっとも感銘を受けたのは、「墓場に持ってゆく話」と題する一節。世の中には、関係者が死ぬまで語らなかった秘話がやまほどある。だから書物を脱稿したとき、「あんたは、大事なことを知らないで仕事をしてしまったね」という声が床下から聞こえてくる――書斎にいて、そんな空想によく耽るというのだ。ここには、ジャーナリストとしての謙虚さがある。著者草柳大蔵にとって、「虚業」の「虚」は「謙虚」の「虚」ではなかったか。

(執筆撮影・尾関章、通算479回、2019年7月5日公開)

 

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