『駅路――傑作短編集(六)』(松本清張著、新潮文庫)

写真》何キロか何日か

 科学記者を数十年間つづけてきて、いつのまにか身につけたのは「科学は万人のもの」という信念だ。ただ、それはそうあるべきだと考えているだけで、実際にそうであるとは言えない。科学をちょっとでもかじった人ならば、万人が科学に手を出すことがどれほどの難事業かはすぐわかる。数式をみても意味がわからない。実験を始めようにもどこから手をつけたらよいか見当がつかない。結局は「科学は専門家のもの」ということになってしまう。

 

 それでも「科学は万人のもの」を持論とするのは、そうでなければ基礎科学は持続できないと考えるからだ。応用科学は目先の利益に直結するから、投資を呼び込みやすい。これに対して基礎科学はすぐには役立たないから、公費で賄うしかない。ところが僕が科学記者になった1980年代くらいから、基礎科学は巨大化の傾向を強めてきた。今では数百億円、数千億円規模の実験装置が少なくない。だから、納税者の納得なしには先へ進めない。

 

 いわば基礎科学の必要条件として出てきたのが、「科学は万人のもの」という発想だ。もし、科学という知的営みに大勢の人が参加できるのであれば、それを税金で支えようという機運も起こってくる。こうしてみると「科学は万人のもの」は基礎科学の生命線なのだ。

 

 では、「科学は万人のもの」のイメージはどんなものか。真っ先に思い浮かぶ見本は、スポーツだ。それは、科学が専門家に囲い込まれるほどには選手だけのものとなっていない。これは、スポーツには取り巻きのファン層があり、選手たちを応援しているからでもある。さらに草サッカーや草野球に興じたり、市民マラソンに出場したりして、自分自身でスポーツを体感する人もいる。科学にも、こうした回路をつくれないものだろうか。

 

 実は、それが難しいのだ。科学界を見渡すと、アマチュアに活躍の余地がある分野がないわけではない。昆虫の新種を見つけたり、古生物の化石を掘りだしたり、新しい天体を発見したり。博物学的な収集活動で貢献しているのだ。ところが、研究の本筋――たとえば法則を探りあてることや理論を組みあげること――に目を向けると、科学者の独擅場となる。このことが、科学のアマチュアに疎外感を生みだしているように思われる。

 

 おもしろいのは、文系の学問のほうが「万人のもの」に近いことだ。一例は、古代史の邪馬台国論争である。国の在り処をめぐる畿内説と九州説の対立だが、ここにアマチュアも加わっている。もちろん、論陣を張るのは学者たちだ。アマチュアは解説書を読み、どちらか一方への支持を表明するくらい。だが、その肩入れは半端ではない。当事者意識をもって自己主張している風がある。そこには学問そのものへの参加意識が見てとれる。

 

 で、今週の1冊は、先週に続いて松本清張著『駅路――傑作短編集(六)』(新潮文庫)。と言っても、同じ所収作品について改めて、あれこれ書くつもりはない。このあいだは触れなかった一編、「陸行水行」に焦点を絞る。邪馬台国論争を主題とする短編小説である。

 

 今回、この小説を切りだすことにしたのは、それがアマチュアと学問の関係を考える一助になるからだけではない。巻末に収められた文芸評論家平野謙の一文に誘われたこともある。短編集全体の「解説」なのに、紙幅の大半を「陸行…」礼讃に費やしている。その解説によると、この作品は1962〜63年のものらしいが、それに先立つ55年ごろ、著者のノートに「『邪馬台国考』事件」「これはまだ捨てぬ」という書きつけがあるという。

 

 1955年と言えば、著者はすでに芥川賞作家ではあったが、勤め先の朝日新聞社をまだ辞めていない。「著者は職業作家として世に立つ決意にまで踏みきる以前から、ひとりのアマチュアとして邪馬台国論争を自分なりにコツコツ調べあげ、独自の意見を抱いていたかもしれない」と、平野は推察する。「陸行…」にはアマチュアの史家が登場するが、著者も似たような立場にあったのだ。アマチュア視点の学問論が、ここには埋め込まれている。

 

 本文に入ろう。作品冒頭の舞台は、大分県の安心院(あじむ)という田舎町。宇佐神宮に近い宇佐駅から鉄道とバスを乗り継いでたどり着く盆地にある。山裾に向かってとぼとぼ歩くのは「私」、川田修一。「東京の某大学の歴史科の万年講師」だ。「宇佐という一つの古代国家が曾つてこの地域に存在していたであろう」とみて実地調査をしている。宇佐は「日本古代史の中で一つのアナ」らしい。だから、研究者の野心をそそるのである。

 

 「私」が坂を登って神社に向かうと、「粗末な木で囲った垣の中に古い石が一個ぽつんと置かれてあった」。それがご神体。自然物を崇める古代信仰だ。一服しながら宇佐勢力圏のことなどを考えていると、坂の下に足音がする。30代半ばの長身の男。くたびれた装いに履きふるした靴。手帳と鉛筆をとりだして石のスケッチに余念がない。「もしかすると、九州のどこかの高校教師か郷土史家かもしれないと私はひそかに踏んだ」

 

 ここで二人は会話を交わす。「私」が名刺も差しだすと、男は「俄(にわ)かに敬意を表したように軽く頭を下げた」。肩書の「東京」や「大学」の威力か。一方、男の名刺には「愛媛県温泉郡吉野(よしの)村役場書記 浜中浩三」とある。「私」の読みはそんなに的外れではなかったが、四国在住とは。八幡浜から別府まで船で渡って来たのだという。これが、学界非主流の古代史学者と地方のアマチュア史家との出会いだった。

 

 「私」が「この辺の史蹟調査にでも」と尋ねると、浜中は「いや、私のような素人(しろうと)は、とても史蹟調査などといったような大それたことはできません」「歴史の基礎知識はございませんから」と答える。アマチュアのへりくだりの一典型である。

 

 話題はやがて、邪馬台国論争になる。浜中がもちだすのは、中国の史書「魏志倭人伝」に記された朝鮮半島から邪馬台国に至る旅程だ。これこそが論争の焦点でもある。「不弥(ふみ)国」と呼ばれる地点までは「…里」という里程で表されているのに、そこから先は「水行二十日」「陸行一月」のように日数月数の表記であることに浜中は注目する。「つまり中国の使者は里程をしるした所だけ歩いたのです。日数のほうは想像だと思うんですよ」

 

 これに「私」は「新説ですね」と応じる。ただの外交辞令ではない。着眼の新しさに心底「感心した」のである。「人が実際に自分で歩く場合は距離感を実感として受けとる」のに対し、「所要日数の言い方は、甚だ観念的」。その違いに気づいたことを多とするのだ。

 

 浜中のほうは「先生」が興味を示してくれたことがうれしい様子で、学界批判を始める。「魏志…」の「解釈の混乱」についてこう言う。「各人各説で面白いのですが、どの学者も自分に都合の悪い点は『魏志』の記述が間違っているとか、誤写だとか、錯覚だとか言って切り捨てています」。ありそうな話だ。学者はいったん学説を立てると、それを守ろうとしてご都合主義の理屈づけに走りがちだ。これは自らの地位を保全する行為でもある。

 

 苦笑するのは、アマチュアにも同様の嫌いがあることを著者が皮肉っている点だ。浜中は、「不弥国」の「不弥」はアヅミであり、それがアジム(安心院)に訛ったとにらむ。中国人はアヅミをハヅミと聞きとり、ハには同じハ行の「不」の字を当て、ミは「弥」としたというのだ。「中のヅはどうなりますか?」と「私」が問うと、「写すときにうっかりとヅの漢字を脱かしたのだと思います」。誤写をもちだすことへの批判がブーメランで戻ってくる。

 

 考えてみれば、「所要日数の言い方は、甚だ観念的」というのも、ちょっと強引だ。浜中の理屈では、日数表現は具体性がないから他人から聞いた話だろうというのだが、自分自身で旅したからこそ何日かかったかを言いたくなるということもあるはずだ。

 

 小説を先へ読み進むと、浜中が胡散臭い人物だとわかる。だが、隔たりの表し方に意味を見ようとした着眼は大したものだ。それを謙虚に受けとめた「私」の度量も認めたい。この一件では、アマチュアと学者が対等な関係にあるように僕には思える。

 

 アマチュアの着眼が科学者を唸らせる。理系でも、そんなことがあってよい。

(執筆撮影・尾関章、通算481回、2019年7月19日公開、同日更新)

 

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