映画「新聞記者」(原案・望月衣塑子、河村光庸、監督・藤井道人、制作・スターサンズ)

写真》選挙翌日(朝日新聞2019年7月22日朝刊)

 参院選前日の土曜日、映画館に出かけた。話題作「新聞記者」(原案・望月衣塑子『新聞記者』〈角川新書〉、河村光庸、監督・藤井道人)を観るためだ。今度の選挙でも何も変わらないだろう――そんな予感に風穴を穿ちたかったからである。いい映画だった。励まされもした。今回もまた、涙が込みあげた。だが、展望が開けたわけではない。新聞記者が真実に行き着いてもその真実がぼやけてしまう。そんな現実を、まざまざと見せつけられた。

 

 で、今週は思い切って本を離れ、この映画1本に絞って感想を書く。

 

 この作品が成功した最大の要因は、配役が的確で、それぞれの役づくりが巧かったことにある。なかでも主役の東都新聞社会部記者、吉岡エリカを演じるシム・ウンギョンの実在感は際立っていた。短めの髪型、ほとんど化粧っ気なし、いつも地味な服を着ている。メディア人というとニュースキャスターのような派手なイメージを思い浮かべがちだが、実際は違う。彼女ひとりの装いや振る舞いがメディアの実像を印象づけたと言えよう。

 

 シムは、ソウル生まれの女優。日本語の台詞を覚えるのは、さぞ大変だっただろう。台詞がやや硬い面はある。ただ役の吉岡も米国暮らしが長く、母が韓国人という設定なので、それは不自然ではない。むしろ、若手記者の一途さを表現する効果をもたらしている。

 

 もちろん、元新聞記者として「これは違うな」と苦笑することはあった。たとえば、記者が朝、出社してきて「おはよう」を言いあう場面。僕がいたのは、こんな礼儀正しい集団ではなかった。あるいは記者が特ダネを書いた夜、試し刷りを上司のデスクとともにしみじみと見入る場面。ふつうは、刷りを手にすれば点検作業に入る。新聞社の編集局は最終版の版を降ろすまで喧騒のさなかにある――。だが、そんな違いは些末なことだろう。

 

 ということで新聞記者の描き方としては、おおむねリアルだった。原案者の一人が東京新聞の現役記者であり、映画制作には朝日新聞も協力しているようなので、これは当然だ。

 

 では、映画の筋そのもののリアリティーはどうか。館内で買った小冊子には「『リアル』を撃ち抜く衝撃の『フィクション』」とある。作中には、こんなことがあるのかなと首をかしげる話がある。そんなことはまさかあるまい、という筋立てもある。だから、「フィクション」には違いない。ただ、似たようなことがあっても全然おかしくないとは思われる。現実ではないが真に迫る。これが「『リアル』を撃ち抜く」ということなのだろう。

 

 まさかこんな不気味な部屋はないだろうと思われるのは、内閣情報調査室(内調)のオペレーションルームだ。暗い密室にコンピューター端末が何列も並んでいる。画面に向きあってキーを叩く人々は、ただのオペレーターではなさそうだ。中央官庁からの出向組を含むエリート官僚たちと推察される。ではいったい、彼らは何にいそしんでいるのか。映画のカメラを通して端末画面をちらっとのぞき見たとき、小さな驚きに襲われる。

 

 どうやら、ソーシャルメディアの発信をリアルタイムで追いかけているらしい。一瞬戸惑うが、これは現実にあっても不思議ではない。今、「世論」をあるがままにとらえようとすれば、どうしてもソーシャルメディアに行き着く。新聞を読めば事足りる時代はとうの昔に終わったのだ。もちろん、ネット愛用者には年齢層などで偏りがあるから、その総和を見ても世論とは言えない。それでも適切な補正を施せば、正解に近づくはずだ。

 

 このネット閲覧は不当とは言いにくい。井戸端会議や床屋政談の類いがいきなり官憲の耳に届くことになぞらえれば恐ろしいが、これは盗聴ではないのだ。書き込む側は全世界に向けて発信しているのだから、読み手のなかに政権中枢の人がいても拒めない。

 

 問題は、ここから先の話だ。この映画では、内調の部内で「拡散」という言葉が飛び交う。ここから読みとれるのは、エリート官僚たちはオペレーションルームの画面で「つぶやき」に目を通すだけでなく、自身もそれを広めることに関与しているらしいということだ。世論監視という受動域にとどまらず、世論操作という能動域に踏み込んでいるのではないか。自嘲気味のせりふもあるから、上からの指示でやらされているのだろう。

 

 この情景を見て、日本の現実はまだここまでは来ていないだろうと僕は思った。ただ映画冒頭に、男性の元高級官僚と女性の野党議員の不倫話が各紙一斉に報道され、政権中枢の「リーク」が疑われる場面がある。これと同じではないが、似たような出来事は実際にもあった。ソーシャルメディア、週刊誌、テレビの情報番組……。これらに醜聞の種を撒き、それを炎上させるという組織的な操作はそんなには難しくないだろう。

 

 いや、政権中枢が露骨な「拡散」や「リーク」に手を染めなくとも、ソーシャルメディアの「つぶやき」の流れをつぶさに分析すれば、そのクセもわかってくる。政権が報道発表の日程を、スポーツ界や芸能界の動向、あるいは動物園の話題などを考慮に入れながら決めていけば、好都合な炎上にアクセルを入れ、不都合な炎上にブレーキをかけることも可能だ。この映画は、現代社会が情報操作のリスクに満ちていることに気づかせてくれる。

 

 この映画では、もう一人の主役、外務省出身の内調官僚杉原拓海(松坂桃李)と、上司の内閣参事官多田智也(田中哲司)のやりとりからも目が離せない。多田は、政権にとって好ましくないことを言う人物が裏で野党と通じているように見える人脈図をつくれ、などと無理難題を吹っ掛ける。杉原は内心で抗いながらも、とりあえずは唯々諾々と従う。堪忍袋の緒は切れるのか、切れるとしたらいつどのようにしてか。それが見どころだ。

 

 杉原対多田の対峙でもっとも印象的なのは、多田が杉原に第一子出産祝いの祝儀袋を押しつける場面。汚い仕事をさせておいて現金を渡すのだから、もらう側の気持ちは複雑だろう。外部の人間からならば贈収賄の構図になる。だが、相手は直属の上司だ。受けとらなければ礼を失することにもなろう。妻も、そして生まれたばかりの子どもも、家族の未来はすべて自分の手中にあると言わんばかりの威圧感が、多田の態度には表れている。

 

 さて、この映画でもっとも怖いと感じたのは、冒頭の段落に書いたように「真実がぼやけてしまう」現実だ。映画でも、それを示唆するひとことを多田が杉原に言い放っている。「嘘か本当かを決めるのはお前じゃない、国民だ」。事の真偽は問わない、人々がどう思うかが問題だ、ということか。米国でドナルド・トランプ政権が誕生したときの「代替の事実」を思いだす(当欄2017年2月24日付「恩田陸Q&Aで考える代替の事実」)。

 

 映画の筋を後半までたどるのは、ネタばらしになるのでできない。ただ、これだけは言っておこう。吉岡記者が特ダネにつながる書きものの物証――新聞記者はこれを「紙(かみ)」と呼ぶ――を手にしたときのことだ。ひと昔前の映画なら、この瞬間に観客は内心で拍手を送ったことだろう。だが、今回は違った。ここまできても、どんでん返しの不安が僕の頭から離れなかったのだ。新聞記者は「紙」を絶対視してきたが、今はそれも通じない。

 

 それはそうだろう。今、日本の官僚社会では「紙」はかんたんに書きかえられる。捨てられることもある。無効化されることだってある。真実はどうとでもなるのだ。もはやもう、新聞記者には怖くて戻れないな。心配性の僕は、つくづくそう思うのだった。

(執筆撮影・尾関章、通算482回、2019年7月26日公開)

 

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