『日本の川 たまがわ』(村松昭著、偕成社)

写真》車窓から二ヶ領宿河原堰

 夏休みの一日、東京・二子玉川の玉川高島屋S・Cで「世界の生きものワンダーツアー」という催事を見学した。心がなごんだのは「多摩川の生きものたち」。遠くの密林にいる珍しい動物よりも近くの川に棲む平凡な魚が、僕には愛おしかった。その会場の売店で見つけたのが、『日本の川 たまがわ』(村松昭著、偕成社)という絵本。買わずに帰ったものの、気になってしようがない。結局、ネット通販でそれを手に入れた。

 

 この絵本に心惹かれたのには理由がある。幼いころに好きだった川の絵本を思いだしたからだ。その本はもはや手もとにないが、見開きのページを横切るように一筋の川が流れていた。上流域は山林で、伐りだされた材木が川から運びだされている。中流域は農地が広がり、農家の人々が働いている。下流域には街のにぎわいがあり、工場が林立している。そして河口近くの港には大型船の姿が……おおよそそんな絵柄だったように思う。

 

 これぞ、鳥瞰図。鳥になったような気分になれるので、子どものころはそれだけでうれしかった。だが今思うと、そこから学びとれることもある。川には人々を引きつける力があるということだ。水という天然の恵みを水運や用水のかたちでもたらしてくれるので、山村も農村も都市も工場街も、みな川べりに集まった。山あいから海辺までが帯状につながり、人々が一つの水系を共有している。かつての日本社会では、そんな有機体が健在だった。

 

 絵本『…たまがわ』に心が動いたもう一つの理由は、多摩川に対する個人的な思い入れに由来する。僕がこの川を好きになったのは青春期だ。そこには「東京人には故郷がない」という俗説への反発があった。僕たちにも自然豊かな川がある。堤防は土手で、河原にも植生がある。右岸には多摩丘陵、左岸には国分寺崖線。大地の起伏も感じられる。これは十分に「小鮒りし彼の川」(「故郷」高野辰之作詞)と言えるではないか。

 

 あのころ、僕は電車で6駅先の多摩川へよく出かけたものだ。貸しヨット屋があったので、それに乗ったこともある。夜の堤防に腰を下ろして川面を見つめていたこともある。さらにはバスに乗って二子玉川にも足を延ばし、東京・世田谷最南部を米国のディープサウスに見立てたりもした。陽光を照り返す緩やかな流れがミシシッピ川のようにも感じられたからだ(当欄2018年5月18日付「ニコタマという僕のディープサウス)。

 

 では、いよいよ『…たまがわ』のページを開くことにしよう。著者は、略歴欄によると1940年生まれの「鳥瞰絵図作家」。作品には、四万十川や屋久島を描いたものもある。ただ、東京都立立川高校のOBで今も府中市に住んでいるとあるから、多摩川は格別な存在なのだろう。この本に盛り込まれた情報は、関連の公共機関や企業などを取材したり、それらの公式ウェブサイトを参考にしたりして得られたものだという。2008年刊。

 

 この本の記述は、多摩川の最上流から始まり、河口部で締めくくられる。本文は、「山のかみさま」と「そのおつかいの 男の子」(引用部のルビは省く、以下も)の会話形式。山のかみさまを表すアイコンは、オオカミと思しき動物の顔になっている。

 

 会話の冒頭で、山のかみさまは「にんげんは たまがわの はじまりは みずひという ところだと いっておる」と言う。ひらがなの分かち書きに大人は戸惑うが、ありがたいことに巻末には漢字併記の「さくいん」がある。この引用部にある「みずひ」は「水干」。それは、埼玉、山梨県境の笠取山(標高1953m)の頂に近い山梨側山中にある場所の呼び名で、ここに現れる水滴が多摩川の源流とされているらしい。

 

 山のかみさまは、水干を源流とする通説に言い添える。「しかし ほんとうの 川の はじまりは 山じゃ」「山の木に ふった 雨が 川に なるんじゃ」。こうして、地球規模の水循環を考え、山と森、川と海をひとつながりにとらえるエコロジー思想をほのめかす。

 

 ページを繰って見開きの鳥瞰図をみると、水干のそばに三川分水の碑が立っている。荒川、富士川と多摩川の3河川の流れを分かつ分水嶺らしい。川の流域支配をまざまざと見せつけられた感じがするではないか(固有名詞は「さくいん」をもとに漢字表記、以下も)。

 

 この見開きでは、男の子が「どれが たまがわ?」と問いかけ、山のかみさまが「まだ たまがわとは よばれておらん」と答えている。小さな川が集まって一ノ瀬川となり、そこに柳沢川が流れ込んで丹波川となる。これは「たばがわ」と読む。ページをめくって次の見開きをみると、その丹波川が奥多摩湖に行き着く。「たばがわが、たまがわの 名のもとになった という はなしも あるが、じつは よく わからんのじゃ」とある。 

 

 さらに次の見開きは、奥多摩湖を中央に据えている。山梨県と東京都にまたがる湖。「人が 川を せきとめて つくったんじゃ」。川の流れをせきとめる小河内ダムは1938年に建設が始まり、戦後の57年に完工した。「山の上にも いえが あるよ」「ダムに しずんだ 村の 人が うつりすんだんじゃ」。下流域の人々のために上流域の人々が生活の本拠を手放し、水源と電力源を提供する。そんな構図がダム造りにはある。

 

 丹波川は、小河内ダムを過ぎると多摩川と呼ばれるようになる。不勉強がばれるが、今回初めて知ったのは、奥多摩湖の下流にもう一つ、人造湖があること。白丸ダムによってできた白丸湖だ。これは、もっぱら発電のためのものらしい。東京都のウェブサイトを参照して驚いたのは、奥多摩湖や白丸湖の水力による発電を都の交通局が担っていることだ。日本では明治以来、電力と電車という二大事業が手を携えて発展してきたことを物語る。

 

 考えてみれば、多摩川には近代を待つまでもなく人間の手が入り、その水資源は下流域の生活を支えてきた。筆頭は、玉川上水の開削だろう。東京都水道局のウェブサイトによると、江戸前期の1653年に工事が始まり、8カ月間で羽村・四谷間の約43kmを掘り切ったという。この絵本には、羽村の取水堰を一望する鳥瞰図が載っている。川の本流を堰で受けとめ、その手前の水門から横方向へ水を吐きだす仕掛けだ。この水が上水になる。

 

 本流に立ちはだかっているのは、古来の投げ渡し堰。列をなした木杭の間に丸太などを水平に積みあげて水流を阻む。「大雨で せきが こわれそうなときは、あのまるたを そのまま 川に ながして たまった水を ながすんじゃ」。堰の脇には、筏の通り道も設けられている。「むかしは おくたまで きった 木は いかだにして 川にながし、うみの ちかくまで はこんだんじゃ」。奥多摩の木材搬出は、筏方式の水運だった。

 

 多摩川の堰は、ほかにもある。僕にとって身近なのは、二ヶ領宿河原堰。小田急線の下り電車で多摩川を渡るとき、左手の下流方向に目をやると見える。川面が尽きるあたりに堰の構造物がぽつんぽつんと並んでいる。この眺めが、多摩川の原風景となった。

 

 この堰の手前から、右岸の神奈川県川崎市側に延びているのが二ヶ領用水。「田んぼや はたけに 水が ゆくようにするため、えどじだいに つくられたんじゃよ」。堰も江戸時代からあったのか、と思うと大違い。国土交通省京浜河川事務所のウェブサイトで調べると、大正のころ、石を詰めた籠で堰を築いたのが始まりだという。流域の水利用がふえ、川底の砂利採取も盛んになって、水流を抑えなくては水を引けなくなったためらしい。

 

 この対岸は、東京都狛江市。1974年9月、台風の大水で19戸の家々が流された現場だ。山田太一原作・脚本の名作ドラマ『岸辺のアルバム』(TBS系列、1977年放映)の着想につながったとされる災害だ。京浜河川事務所のウェブサイトによれば、「激流」が「堰に妨げられ」「堤防を破壊」したことが原因だった。この反省に立って造りかえられた現在の堰は、「洪水時に流れる水を阻害しない」ための工夫が施されているという。

 

 水害後、僕はまだ学生だったが、現場に赴いた。都市住人の慎ましやかな幸せを宿していただろう戸建ての家が、川のただ中にある。僕たちはこの川に甘えるばかりで、畏怖することを忘れていたのではないか。多摩川は自らの癇癪を悔いているようにも見えた。

(執筆撮影・尾関章、通算486回、2019年8月23日公開、同日更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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