『現代の批判』
(キルケゴール著、桝田啓三郎訳、岩波文庫『現代の批判 他一篇』所収)

 それにしても今年は、どうしてここまで固有名詞付きの非難がつづくのだろう。音楽界でもあった。科学界でもあった。地方政界でもあった。お隣の国でもあった。責められる側にも責められてしかたのない事情があったようには思う。責められている人に反論する機会が与えられることも多かった。ただ、世の中はいったん責めのモードに入ると、とどまることを知らない。責められる人はさぞ辛いことだろう。
 
 「新聞に叩かれる」という言い方がある。僕が嫌いな言葉の一つだ。新聞記者時代、取材相手から「あのときは新聞にさんざん叩かれてね」と、軽口交じりに言われることがあった。たいていは昔の記事で、自分が書いたものではない。それでも心の痛みを感じつつ、一方でちょっとムッとした。理を尽くした批判であっても「叩く」「叩かれる」の構図でみてしまう。このとらえ方から脱することができないかと、ずっと考えてきた。
 
 そんな僕でも、今年の日本社会をみていると「叩く」「叩かれる」はやっぱりあるのかな、と思ってしまう。昔と違うのは、主語が「新聞」ではないことだ。もちろん、新聞は含まれる。だが、その比重はメディア界の勢力図を映して小さくなっている。テレビもある。ネットもある。そこには、既存メディアの外にいる人々の発信もあふれている。文字通り、メディアミックスで「叩く」「叩かれる」現象が繰り広げられているのである。
 
 これは、日本だけの現象なのだろうか――。たまたま、いま僕は米国にいる。仕事ではなく観光旅行だが、名所めぐりもほどほどに1週間余り、東海岸の大学町に滞在している。現役のころは出張となれば取材のことで頭がいっぱいだったが、今はそうではない。そこで自らに課したのは、空気を吸ってこよう、ということだった。米国社会は、日本社会と比べてどこがどう違うのだろう。
 
 いま米国メディアでも、殺伐とした話、不愉快な話が日々とりあげられている。中東で米国人ジャーナリストが「処刑」されて緊迫する政界の動き、ミズーリ州で黒人青年が警察官に銃で撃たれ死んだ事件の続報、プロバスケットのチームオーナーが送信した人種差別的なメール。イスラム過激派組織、警察当局、オーナーというように非難の矢面に立つ人々がいるニュースではある。ここまでは、日本社会と同じだ。
 
 違いは、どこか寛容な空気が残されていることだ。否定すべきは人道に反する行為であり、差別意識であり、人ではないという感じがある。だから、非難される人物も自らの行為について淡々と語ることができる。これは、僕たちも学ぶべきことだろう。
 
 で、今週は『現代の批判』(キルケゴール著、桝田啓三郎訳、岩波文庫『現代の批判 他一篇』所収)。著者は19世紀デンマークの哲学者で、実存主義を切り拓いた一人である。ただ、この著作は哲学論考というよりは社会批評の色彩が強い。しかも、メディア批判も含まれている。理由は巻末の訳者解説を読むとわかる。これが発表された1846年初め、著者は新聞にこてんぱんに叩かれていたのである。
 
 著者を叩いたのは、『コルサル』という名の風刺紙。「編集上の秘密を他紙に密告した」として「卑劣漢」扱いする記事を漫画付きで載せた。彼が別の新聞で反転攻勢に出ると、執拗に二の矢三の矢を放ってくる。「それ以来、コペンハーゲン市民は、生まれた子に『セーレン』の名をつけるのを忌(い)み嫌ったとさえ伝えられている」。セーレンは、著者の名である。報道がどれほど苛烈だったかが推察される。
 
 『現代の……』は、匿名作家の『二つの時代』という小説をとりあげた書評本の第三章である。この論考では、フランスで続いた革命の時代と、執筆時すなわち「現代」とが対比されている。ただ、フランスでは刊行2年後の1848年にも革命が起こっているので、欧州の「現代」はなお革命期にあった。だから、読みどころは比較にはない。「現代」批判そのものにあると言えよう。そこに、著者の鬱憤まで注ぎ込まれているわけだ。
 
 著者は「現代」の様相に「水平化」をみる。「情熱的な時代が〈励ましたり〉、〈引き上げたり突き落としたり〉、〈高めたり低めたりする〉のに反し、情熱のない反省的な時代はそれと逆のことをする。それは〈首を絞めたり足をひっぱったりする〉、それは〈水平化する〉。水平化は、すべて人目につくことを忌避する、ひそかな、数学的な、抽象的ないとなみである」(〈〉で挟んだ箇所には傍点がつく、以下も同様)
 
 「古代においては、集団のひとりひとりはなんの意味ももっていなかった。傑出した人が集団全体を意味した。現代は数学的な平等性へ向かう傾向があって、すべての階級を通じて、これこれの人数がそろえば一個人とほぼ同等になるのである」「一人以上いては矛盾であるような事柄の場合にも、彼らは十人そろわずにはいられないだろう」。個を重んじたはずの近代市民社会が個を見失うという逆説が、ここにはある。
 
 著者が「水平化」の条件として挙げるのが、「公衆」という幻影だ。それは「巨大な抽象物」だという。「現代」では「それ自体が一個の抽象物となる新聞に助成されて、この幻影が出現しうるのである」。新聞イコール世論という短絡思考の罠を見抜いた一言だ。
 
 おもしろいのは、「おしゃべり」も槍玉にあがっていることだ。「おしゃべりはありとあらゆるものをおしゃべりの話題にし、そしてひっきりなしにしゃべりつづける」。人は黙っている間にも「思い出すべきこと、考えるべきことが何かはあるはず」なのに「おしゃべりは沈黙の瞬間を恐れる、沈黙の瞬間は空虚さを暴露するだろうからである」。著者は新聞のみならず、ツイッター文化まで見通してメディアを論評しているようにも思えてくる。
 
 この論考では、「現代」の「情熱のない人」が内的な行動原理を失い、外的原理に踊らされていることも俎上にあがる。一人の男が上着の胸ポケットをボタン付きにすると、それがもとで一つの会社が興されるかもしれないという話は、今日のファッションビジネスの予感とも読める。「手引き」が広まって人々が「きれぎれの知識を拾い出す」ようになる傾向を指摘するくだりも、マニュアル万能主義に対する警告になっている。
 
 注意すべきは、この論考での「反省」という言葉の使われ方だ。それは、良心の為せる謙虚な内省を指してはいない。「集団全体が反省のつながりによって水平化に仕えている」という一文があるように、あれやこれや慮って個を弱める心理作用のことを言っている。
 
 「現代は本質的に分別の時代である。現代は平均しておそらく過去のどの世代よりも物知りだといえるだろう」「どの道を行くべきか、行ける道がどれだけあるか、われわれはみんな知っている。だが、だれひとり行こうとはしない」「自分自身のなかにある反省に打ちかって行動に出る人があったとしたら、その瞬間に、無数の反省が外部からその人間に向かって抵抗することだろう」
 
 「水平化」意識を背景にメディアに沸きおこる非難の大合唱。実存の哲学者が前々世紀にいち早く気づいた「現代」の病は科学技術が生みだしたITによって増幅され、21世紀社会を苛む。僕たちはそろそろ、その病から抜け出る道を探らねばなるまい。
 
写真》米国メディアのほうが寛容の空気があると感じるのは僕だけか=尾関章撮影
(通算229回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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コメント
高木真弓さま
返信コメントへのご返事、ありがとうございました。
ご趣旨が「単一」の字面そのままではないことは、推察しておりました。
「同化」ということで言えば、相撲界が思い浮かびますね。
力士コミュニティーは、いまや日本でもっとも先進的な多民族社会ですが、みんなほとんど例外なく流暢な日本語をしゃべる。その様子をみて、相撲ファンはなんとなく安心している。僕は、その「安心」のなかに同化志向をみてしまうんですが、どうでしょうか。
  • by 尾関章
  • 2014/09/18 10:32 AM
お返事ありがとございます。
ご指摘にありました“単一民族”は−何か違うな−と思いながら言葉が浮かばず、送ってしまいました。反省です。考えたら“assimilation された統一民族”と書きたかったのだとおもいました。betterでしょうか?
高木真弓さま
ありがとうございました。
こんどの旅行でも、そしてかつて欧州にいたときの経験でも、海外には「違い」を気づかいあう文化があるのを感じますね。
たとえば、機内食でも、あるいは「給食」のような場面でもチキンが多用される。これだって、それぞれのもつ宗教的禁忌を考えての配慮でしょう(チキンには迷惑な話でしょうけれど)。
一つだけ、「日本は単一民族」というのは事実と違いますね(もちろん、高木さんは「単一と感じがちな民族」という意味でこの表現をお使いになったのでしょうけれど)。歴史的にも単一ではなかった。そして今は、ますます単一でなくなっている。だからこそ、多様であることを認めあう文化を培わなくてはならないのだと思います。
  • by 尾関章
  • 2014/09/15 2:46 PM
前略、9・12・2014発送キルケゴールも「叩かれた」という話“を読み、まず思い浮かべたのが世論“と言う日本語です。そして日本は単一民族、国家であり、世論“を出し易い文化、と思いましたーだから"新聞が叩く”、"新聞に叩かれる“と言う社会現象も起こるのでしょう。North Americaは世論/public opinion“がとても成り立ちにくい文化です。まずTorontoの例を取ってみるとTorontoには3つの主要新聞(Toronto Star・Toronto Sun・The Globe and Mail)があります。Toronto Starが購買数ではトップ、Toronto Sunはblue-collar層向け、The Globe and Mailはprofessional・academia・elitist層向け。政治的にはToronto Starがliberal、Toronto Sunは conservative、The Globe and Mailはどちらかと言うとconservativeと言うstanceを維持しています。とにかく多民族からなるmulticulturalな国なので、多様な価値観を民主主義で統治する複雑さからか、mediaでpublic opinionと言う言葉を聴いた覚えがありません。もう一つ"新聞が叩く”文化・社会現象がないのは、強いindividualismにあると思います。例えば、Toronto StarとnotoriousなToronto mayor, Rob Fordとの長期に亘る法廷での闘い。たとえRob Fordが麻薬をレクレーションでやっている事実を暴いても、Rob Fordは反対に名誉毀損で新聞社を訴える。会社にとっては長期にわたる時間と経費の無駄になりますよね。以上はTorontoだけの政治、文化、を例に採りましたが、USでも事情は似たり寄ったりではないかと思います。そしてNorth Americaのmedia の在り方に"寛容の空気がある“のはこのような違いがあるからではないか、と思いついたまま書いてみました。 草々
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