NHKスペシャル「かくて“自由”は死せり――ある新聞と戦争への道」

(NHK、2019年8月12日放映)

写真》戦争へ(番組表は朝日新聞2019年8月12日朝刊)

 あまりに蒸し暑いので、今回は読書を休む。本を離れて、映像作品をとりあげよう。と言っても、先日のように映画ではない(当欄2019年7月26日付「新聞記者にはもう怖くて戻れない」)。終戦記念日を前に放映されたテレビドキュメンタリーだ。

 

 NHKスペシャル「かくて“自由”は死せり――ある新聞と戦争への道」(NHK、2019年8月12日初回放映)。午後10時から50分、ふだんなら眠気を催す時間帯なのにしっかりと観た。数日前のニュースで、その「ある新聞」のことを知ったからだ。

 

 NHKの公式サイトに入ると、そのニュースを読める。2019年8月9日付の記事「戦前最大の右派新聞/約10年分見つかる」。冒頭の一文を引用しよう。「昭和初期に発行され、戦前、最大の右派メディアとも呼ばれた日刊紙、『日本新聞』の紙面、およそ10年間分がほぼ完全な形で残されていたことが分かりました」。厳密に言えば、その発行期間は1925(大正14)年から35(昭和10)年にかけてだという。

 

 ニュースを聴いて「えっ、そんな新聞があったかな?」と僕は思った。大昔に「日本」を名乗る新聞があったようには思う。だが、昭和ヒトケタのきな臭い時代に「日本」を冠した「戦前最大の右派新聞」があったという知識は、もち合わせていなかった。

 

 そこでウィキペディアを開くと、放映翌日8月13日には「日本(新聞)」と題する項の冒頭に「『日本』(にっぽん)は、1889年(明治22年)2月11日から、1914年(大正3年)12月31日まであった日刊新聞」とあった。ところが今は「その後、1925年に小川平吉の手により『日本新聞』として再創刊」と補足されている。NHK報道の影響か。(13日時点でも、後段では小川たちの「日本新聞」存続活動に言及していた)

 

 NHKの記事を読み進むと、再創刊後の「日本新聞」の知名度がいま一つの理由がわかってくる。部数は約1万6000。これは、当時としても多くない。ただ、「政官財に幅広い読者を持ち、戦前最大の右派メディアとして右派思想を広めたとされていました」とある。ちなみに朝日新聞社公式サイトの「沿革」欄には、朝日新聞の部数が1924年、創業地の大阪本社発行分だけで100万を超えたことが記録されている。

 

 実際、このNHKスペシャルを観てみると、日本新聞がマスメディアとして世論を動かしたようには思えない。むしろ少部数で先鋭な新聞の発行元が、大正デモクラシーや日本版リベラリズムの一掃で陰の仕掛け人のような役割を果たしていたことがわかる。

 

 このドキュメンタリーは、日本新聞の論調を跡づけている。そこには、右派論客の声が集約されていた。前述ウィキペディアにある「小川平吉」は、その牽引車となった政治家だ。意外なことに、リベラル派で知られる宮沢喜一元首相の祖父である。小川たちの言説は、1930年のロンドン海軍軍縮条約に対する反発、31年の満州事変や32年の五・一五事件に対する共感、35年に極まった天皇機関説に対する指弾を強める効果があった。

 

 だが、そのことよりも「怖いな」と思うのは、この新聞の周辺部にいた一人の人物の軌跡だ。NHKは今回、彼の名前や写真を開示したが、ここではあえて名を伏せよう。おそらく、彼と似たような体験をした人は全国津々浦々にいただろうと思うからだ。

 

 その青年は、長野県南部で小学校の音楽教師をしていた。大正デモクラシーの盛りあがりは、山あいの学び舎にもリベラリズムの風を届ける。彼は、音楽を通して自由な精神を教え子と分かちあおうとした。自腹を切ってピアノを買い、それを教室に置いて子どもたちにも弾かせていたらしい。このドキュメンタリーでは、芸術教育にかける思いがどれほど熱かったかが本人の肉声によって語られる。戦後になってから録音されたものらしい。

 

 ところが昭和に入ってまもなく、その前途にかげりが見えてくる。1929年に米国を襲った恐慌は日本にも及ぶ。長野県では、養蚕が打撃を受けた。芸術教育などしている場合ではない、という空気が強まる。こうして、彼は32年に小学校教師を辞めるのだ。

 

 皮肉なのは、ピアノの調べと入れ代わりに彼の心に棲みついたのが国粋主義だったことだ。日本新聞の幹部が全国を歩いて地域社会を担う若者たちに声をかけ、世に広まるリベラリズムを追い払っていたらしい。彼も、日本新聞の論調に感化されていく。このドキュメンタリーでは、かつて小学校の記念写真で子どもたちに囲まれていた青年がいつのまにか右派活動家の集合写真に収まっている現実を見せつけられる。その落差が怖い。

 

 昭和ヒトケタの変転は、僕のような戦後生まれ世代にはこの50年の移ろいと重なって見える。50年前は保守本流に宮沢元首相のようなリベラル派がいた。だが今は、ごくふつうに「リベラル=左」と言われる。座標のゼロ点が右に振れたのは戦前と同じだ。

 

 ただ、戦前と今とでは、どこかが違う。戦前の右派思想は、デモクラシーやリベラリズムを排除した後の目標を明確に思い描いていた。天皇制の国家秩序が整った社会が、それだ。そこでは自由が大きく規制される。目標実現のためならば、テロも容認した。自国民や近隣民族の諸権利を軽んじ、議会制民主主義を敵視した。人間観や世界観が一つに凝り固まっていたように見える。とても怖いが、わかりやすい運動体ではあった。

 

 その思想に対して日本新聞が担った役割は、部数1.6万の範囲内に限られていた。NHKの記事から推察すると、影響を与えたのは主に政界、官界、財界の指導層だったのだろう。裏を返せば、この新聞の存在意義は、右派論調を整理して指導層の内部で共有することにあったのではないか。その結果、指導層が右へ傾き、マスメディアがそれに靡いて、政権は軍国主義へ突き進んだのだろう。そこには、トップダウンの構図が見てとれる。

 

 では、今はどうか。右派論壇はとらえどころがない。トップダウンの統制が感じられないのだ。政権与党は右派主導だが、個々の政治家が思想本位で行動しているようには見えない。右寄りとされる新聞や雑誌も左派批判ばかりが目立ち、思想の発信母体としての存在感は乏しい。ネット右翼、即ちネトウヨには勢いがあるが、これも左派を標的とした炎上の連発にとどまっているように思う。右派の大勢は「反左派」の域を出ていないのではないか。

 

 思想の混乱もある。昨今、右派の論調は市場経済重視の新自由主義を後ろ盾に自己責任論を展開することが多い。リベラル派の弱者擁護論に与しないからだろう。ここで見落とされているのは、新自由主義は自己決定権の尊重という一点で左派のリベラリズムにも通じていることだ(当欄2018年11月23日付「朝日を嫌うリベラル新潮流」参照)。右派思想が今も「自由」を嫌うのなら、新自由主義とは手を切らなくてはならない。

 

 今回のNHKスペシャルは、戦前の先行世代が体験した「自由」の死を見せつけた。だが、「自由」の死に方はそれ一つではない。「自由」なネット発信が感情過多の炎上現象を呼び起こし、確かな思想もなしに他者の「自由」を封殺する。そんな怖さが今はある。

(執筆撮影・尾関章、通算485回、2019年8月16日公開、同月19日画像更新)

 

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