「最初の一日――昭和十六年十二月八日」

『同日同刻――太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日』(山田風太郎著、文春文庫)より

写真》ハワイ

 このあいだ、書店の古書コーナーで『同日同刻――太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日』(山田風太郎著、文春文庫)という本を見つけた。思わず手が伸びたのは、8月に入って6日、9日、15日と先の戦争に思いを致す機会が続いたからだろう。

 

 この本は、作家山田風太郎(1922〜2001)が、第2次世界大戦にかかわる多方面の文献を漁って、太平洋戦争の開戦と終戦の実相に迫ろうとしたものだ。開戦当日はほぼ1時間刻み、終戦までの15日間は1日ずつに時間軸が区切られる。その同日同刻、政治家や軍人、官僚、知識人、市井の人々が何を思い、どう振る舞ったかを史料から掘り起こした――膨大な書物を丹念に読み込み、それらを有機的に編みあげた技には圧倒される。

 

 当初、僕の関心は「最後の十五日」にあった。でも、順番は順番だ。「最初の一日」から読みはじめた。それで思えてきたのは、あの戦争は政権に外交力さえあれば避けられただろうということだ。今さらそれを言っても過去は変わらないが、未来への教訓にはなる。

 

 そんな折、気がかりなニュースが飛び込んできた。韓国が日本との軍事情報協定を破棄したというのだ。日韓関係はこのところ悪化の一途をたどっていたが、それがついに極まった感じだ。きな臭いにおいがしてきた、とまでは言わない。ただ、日本と他国の個別関係がこれほどまでにこじれたことは、戦後今までなかったように思う。僕個人の六十数年の記憶をたどっても、三十数年の記者生活を振り返っても、そのことは言える。

 

 もちろん、日本は冷戦期、西側陣営の一員だったから東側の国々との間には壁があった。その後も国交がなく、難題を抱えた国もある。だが今の日韓関係で起こっていることは、それとは違う。国と国とをつなぎとめる部材が次々に断ち切られている。

 

 当欄は今回、日韓双方がそれぞれ打ちだした一連の政治決断について、どうこうあげつらうつもりはない。そこに踏み込むとかえって大局が見えなくなるのではないか、とすら思う。たとえば、日韓の軍事情報協定、即ち「軍事情報包括保護協定」が失効して損をするのはどちらか、といった論評を見かけるが、そういう分析にとらわれていると極東アジアの安定という本来の目標を見失ってしまうだろう。大切なのは、関係の再構築だ。

 

 で、今週は『同日同刻…』から「最初の一日」だけを切りだす。当欄筆者は、ある本の所収作品を話題にするとき、その本1冊を読み切ることを原則としているが、今回は「最後の十五日」を未読のままブログを公開する。緊急性の高い話だと考えるからだ。

 

 本題に入る前に、まず書誌から。著者は、今風に言えばエンタメ系の小説家。医大卒の変わり種でもあった。「忍法帖」シリーズで人気を博し、娯楽小説誌で活躍。ちょっとエッチな作風だな、と思った記憶が僕にはある。だが、彼には硬派の一面もあった。有名なのが『戦中派不戦日記』。それが自身の皮膚感覚でとらえた終戦前後の記録だとすれば、本書は史料を踏まえた開戦と終戦の俯瞰図だ。単行本は1979年に出た。文庫版は86年刊。

 

 本文は、1941(昭和16)年12月8日午前零時から始まる。駐日米国大使ジョセフ・C・グルーは都心の外相官邸を訪れた。携えていたのは、ルーズベルト大統領が天皇に宛てた「超緊急の親電」。零時15分、東郷茂徳外相に電文を伝える。「太平洋地域」で「両国間の長い平和がもたらした有益な効果を奪い去らんとするがごとき事態」が進行中で、「陛下と私が、世界にこれ以上の死と破壊を持ち来すことを防止する神聖な義務を持つことを確信いたします」(出典・ジョセフ・C・グルー『滞日十年』毎日新聞社)とあった。

 

 東郷外相は、この親電を「これまでの日米交渉の条件に何ら触れるところがなく」「きれいごとを、ただ記録に残そうとするためだけの文書」ととらえる(出典・東郷茂徳『時代の一面』改造社)。そんな決めつけがあったからだろう。グルーは天皇に謁見して、電文を直接手渡したいと申し出るが、東郷は、自分のほうで遅滞なく伝えると言って電文の複写を預かった。グルーが外相官邸を辞去したのは零時半。わずか15分の面談だった。

 

 この決めつけは政権中枢で共有される。午前1〜2時、東郷は親電の邦訳を手に首相官邸へ赴き、東条英機首相に会う。「それでルーズベルトは何か譲歩して来たのですか」「いや、何も新味はありません」「それじゃあ何の役にも立たんじゃないですか」(出典・同書)

 

 ここに当時の日本外交の愚がある、と僕は思う。電文の字面だけを見て「新味」がないと断じ、「何の役にも立たん」と切り捨てる。だが心にとめるべきは、これが大統領から天皇へ送られた急ぎの親書ということだ。実務家同士の書簡ではない。「陛下と私が、世界にこれ以上の死と破壊を持ち来すことを防止する神聖な義務を持つ」という言葉には「お互い、早まってはいけない」との強いメッセージが込められているとみるべきだろう。

 

 1941年の時点で、日本は日独伊三国同盟を背景に軍事力を中国大陸や南方へ展開、これに対抗して米国や英国は日本資産の凍結や石油の全面禁輸に踏み切った。ここでふと思うのは、日本政府には、たとえ軍国主義政策をとる立場にあったとしても米英側の経済制裁を緩めるためのカードが何枚もあっただろうということだ。大統領から天皇へのメッセージをいったん受けとめ、交渉に再度臨むという選択肢は十分ありえたに違いない。

 

 この愚に輪をかけたのが、親電の配達遅れだ。前日、即ち日本時間の7日正午、東京の中央電信局に入電されていたが、グルーの手もとに届いたのは午後10時半だったという。僕が不勉強にも驚いたのは、当時は駐日外国公館が本国とやりとりする電報も日本の電信当局を介在させていたことだ。だから、暗号は必須だったとも言える。グルーも深夜、大使館員に解読作業にあたらせ、日付が変わるころにようやく全文を手にしたのである。

 

 10時間半の遅れは、なぜ生じたのか。この本には、陸軍参謀本部通信課の将校が配達を「故意に」遅らせたとある(出典・『極東国際軍事裁判速記録』雄松堂)。本当なら、とんでもない話だ。読み進むと、東郷外相が天皇に大統領親電を報告したのは8日午前3時前後。ハワイでは日本時間の午前3時19分(現地時間7日午前7時49分)に日本軍の攻撃が始まっている。これでは親電が天皇の心を動かしても間に合わなかっただろう。

 

 著者没後のことだが、この件については2013年に外務省から、戦後まもなく国際検察局という機関が外務省電信官を尋問したときの記録文書が公開されている。新聞報道によると、検察局側は「電報が天皇陛下に渡されたならば戦争は避けることができた」とにらんで配達半日遅れの謎を追及したが、電信官は「当時本件親電にはなんら関係がなかった」と答えたという(朝日新聞2013年3月8日朝刊)。今となっては藪の中か。

 

 ただ、かりにそこに軍部の意図が介在していたとすれば、それは結果として政権の思惑を忖度するのと同じ効果をもたらした。東条首相の東郷外相に対する次の言葉が、そのことを如実に物語っている。「その電報がいまごろ着いてよかったですよ。もう一、二日早く着いていたらまた一騒ぎになったかも知れん」(出典・東郷茂徳『時代の一面』改造社)。開戦は決定済みのこと、今になって余計な横やりが入らなくてよかった、という感じだろうか。

 

 外交は、トランプ遊びのカードの切りあいにたとえられる。相手が切ったカードを見なければ、自分が次に切るべき最適のカードを選べない。ところがそれを見るのが遅れ、吟味する時間がなかったことをかえって喜んでいる。この感覚には、ぞっとする。しかも、相手がどのカードを切ったかだけにこだわって、その1枚を出してきた心理を読もうともしない。これでは勝てるわけがない。外交で勝てなければ次に来るのは……。

 

 この顛末を、今の外交政策に強引に結びつけるつもりは僕にはない。ただ、この本が再現する1941年12月8日の日本は、2019年の風景と重なる。文書をぞんざいに扱うくせに、その字面にとらわれて思考を止める。そんな悪弊が今また広がっている。

(執筆撮影・尾関章、通算487回、2019年8月30日公開、同年9月4日最終更新)

 

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