『三河地震――60年目の真実』(木股文昭、林能成、木村玲欧著、中日新聞社)

写真》1人は1人、生命の重さ

 2011年の東日本大震災当時、僕はまだ現役の科学記者だったから昔の地震記録を復習した。一覧できるのは、なんと言っても『理科年表』(国立天文台編纂、丸善)。ここには、かつて日本列島とその周辺で起こった主な地震が列挙されている。そこで改めて驚かされたのは、第2次大戦末期に死者・行方不明者1000人超の大地震が東海地方で相次いだことだ。1944年12月7日の東南海地震と45年1月13日の三河地震である。

 

 『理科年表』の記載をざっくりとなぞっておこう。東南海地震はマグニチュード(M)7.9で、震央は紀伊半島沖。静岡、愛知、三重県などで死者・不明者1223人。住家の全半壊は5万戸を超える。熊野灘、遠州灘の沿岸は1〜8mの津波に襲われた。もう一つの三河地震はM6.8で、三河湾を震央とする。愛知県三河地方が主な被災地。死者2306人。住家の全半壊2万戸超、ほかに「非住家」1万戸近くが全壊したという。

 

 今の知識で言えば、東南海地震は、地球を覆うプレート(岩板)の境目で起こった巨大地震だ。海溝型と呼ばれる。一方、三河地震は足もとの活断層が動いたことによるもので、内陸直下型に分類される(三河地震は三河湾の直下で起こったが、沿岸海域なので「内陸」扱いしてもよいのだろう)。二つの地震は、わずか1カ月余の間に続発した。当然、関連が疑われる。被害の大きさのみならず、防災科学の観点からも注目すべき災厄だった。

 

 ところが、どちらの地震も知名度は高くない。大昔なら、そういうこともあろう。だが、戦争末期はそれほど昔ではない。僕にとっては自分が生まれるより6〜7年前の近過去だ。それなのに子どものころ、あの震災から10年が過ぎた、20年が過ぎた、という報道に接した記憶はほとんどない。どうしてそうなったのか。先の大戦の戦没者は日本人に限っても数百万人といわれる。犠牲者が1万人に満たない災害には意識が及ばなかったのか。

 

 どうも、それは違うらしい。それを知ったのは『一九四四年の大震災――東海道本線、生死の境』(西村京太郎著、小学館)を読んだからだ。2014〜15年に小学館発行の『本の窓』誌に連載された小説だ。15年刊。巻末で「フィクション」と念を押している。東南海地震後、静岡県の浜松に住む町の地震研究家が、まもなくもう一度大地震があると言い張って特高警察からにらまれるという筋書きだ。そこに地震の報道管制の話が出てくる。

 

 本当に報道管制があったのかを知りたくて、ネット情報を漁ってみた。それでわかったのは、規制の実態はともかく当時の新聞が二つの地震をほとんど正しく伝えていなかったことだ。これはぜひ、小説ではなくリアルな記録を読んでみたい――。

 

 で、今週は『三河地震――60年目の真実』(木股文昭、林能成、木村玲欧著、中日新聞社)。2005年刊。刊行時、著者3人はいずれも、名古屋大学大学院環境学研究科地震火山・防災研究センターの研究者。専門は、順に測地学、防災地震学、防災心理学。

 

 さっそく、本文に入ろう。地震報道がどれほど軽んじられたかについては、第一章の冒頭でとりあげられる。東南海地震発生の1944年12月7日は、偶然にも日米開戦3周年の前日。「翌日の新聞では、一面のトップは地震の記事ではなく、軍服姿の昭和天皇の写真が飾っていた」。この節目に、朝日新聞は「一億特攻」を謳いあげる記事を掲げたとある。地元紙中部日本新聞(現・中日新聞)も、地震の記事は「三面の隅」だった。

 

 では、約1カ月後の三河地震はどうだったか。これについては第三章で、一つの節を割いて定量分析もしている。対象としたのは、朝日新聞(東京本社版)、読売報知新聞(東京本社版)、中部日本新聞の3紙。地震翌日の1945年1月14日から3月末までの紙面を調べている。ここで僕のほうでことわっておくと、これらはみな1日1回の刊行だ。東南海、三河両地震のころ、国内の新聞社は用紙の統制で夕刊を出していなかった。

 

 この分析でまず驚くのは、出稿数の少なさだ。三河地震を扱った記事は2カ月半の期間中に朝日が11件、読売報知が3件。地元紙の中部日本(以下、中日と略す)ですら56件に過ぎない。中日の件数推移を見ていくと、地震翌日(2日目)が5件、3日目も5件、4日目が8件。これが1日当たりの最多本数だ。翌日ではなく、なぜ4日目がもっとも多いのか。推察するに、通信事情や交通事情が悪くて、情報収集に手間取ったのだろう。

 

 著者は、中日が6〜10日目の5日間にも合計20件の出稿を続けていることに目をとめ、「地元紙にとって三河地震は報道すべき重大な出来事であり、報道管制下という制約の中でも多くの報道を行っていた」と評価する。当時の新聞はページ数が限られていた。この間、朝日も読売報知も続報を出していない。そう考えると、中日はたしかに頑張った。ただそれでも、あの地震で2カ月半に56件は、今の感覚からすると少ない。

 

 ここで気になるのは、引用部にある「報道管制」という言葉だ。この本の随所に出てくるが、誰が何を規制したのか、地震のことを書くなと言ったのか、書いてもよいがこう書けと指図したのか――そのあたりがはっきりしない。それを知るには、著者の一人が出した『戦争に隠された「震度7」――1944東南海地震 1945三河地震』(木村玲欧著、吉川弘文館、2014年刊)など、別の文献をもっと読まなければなるまい。

 

 ということで今回は「報道管制」の実相に迫れないが、新聞がどんな圧力を受けていたかは紙面から感じとれる。中日1月14日付の三河地震第1報を見てみよう。記事の核心は、中央気象台(現・気象庁)の発表そのものだ。ところが、それにかぶせて「再度の震災も何ぞ/試練に固む特攻魂/敵機頭上、逞しき復旧」(常用漢字に改め、旧字体は新字体に換えた。以下も)の見出しが並ぶ。本文のニュースから浮きあがってみえるではないか。

 

 記事は、記者たちが取材した被災状況も伝えている。「十三日早暁一部電灯線が切断する程度の可成の地震が東海地方を襲ったが」「愛知県下三河部方面で若干全半壊の家屋があり死傷者を出しただけ」(記事にはルビがあるが省く、以下も)というのだ。著者は、これを「明らかに事実とは違う」と断ずるが、書いた側には嘘ではないと言う屁理屈があるのかもしれない。数字を出せば驚天動地のニュースを「可成」「若干」で覆い隠しているのだ。

 

 新聞編集陣の心理を深読みすれば、本当は地震のニュースをそのまま伝えたいのだが、戦意喪失を招きそうな記事を出すと当局から難癖がつく。ここは、地震のことを当たり障りなく報じつつ、見出しだけは威勢のよいものにしておこうという感じか。

 

 僕がことのほか興味をそそられたのは、当時も災害報道では、記者が科学者を現場に引っぱり出して見解を聞くという取材をしていたことだ。この本には「特筆すべきは、中部日本新聞本社が、人心の安定に寄与するために震害地学術調査団を被災地に派遣したこと」とある。調査団は、名古屋帝国大学の教授が率いていた。これは、「絶対に大地震なし」(1月20日付)など、余震に対する過度の不安をやわらげる報道につながったようだ。

 

 著者は、これらをとらえて「地震や震災そのものを隠すのではなく、地震や震災についての正しい理解を促進するための啓蒙的報道が行われていた」と評する。「報道管制下にあっても」一定の役割は果たした、という見方だ。だが僕には、その「啓蒙的報道」が曲者に思える。東日本大震災の原発事故報道でも当初、専門家が「人心の安定に寄与する」解説を繰り返し、事態の深刻さを見抜けなかったことがある。一つの見方を過信するのは危険だ。

 

 この本は、被災地の人々の証言が読みどころだ。そこには、名古屋に奉公に出ていた人が家族の死を伝えられるまで震災の深刻さを知らなかったという話も出てくる。数万戸が「若干」とされたのだから当然だ。事実の報道より「人心の安定」が先行するという奇怪さ。

 

 今はソーシャルメディアがあるから、こんなことはないだろう。被災者自身が現場の実態を映像にして発信できるからだ。だがそれだけでは、何が起こったかの全体像は思い描けない。事象の全容をつかみ、それを輪郭づけるという大役が、マスメディアにはある。

(執筆撮影・尾関章、通算490回、2019年9月20日公開、同月22日最終更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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