『日本国憲法――9条に込められた魂』(鉄筆篇、鉄筆文庫)

写真》戦後の原点、憲法(左は三省堂刊『新六法』)

 秋寒し能あるハトは絶滅す(寛太無)

 先日の句会に出した拙句だ。「能」の一文字を入れ込んだものを一つ、というのが宿題だったので、ひねり出した句である。俳味には欠けるが、時事句として受けとめてほしい。

 

 内閣改造が済んで、いよいよ改憲の足音が聞こえてきた。焦点は平和憲法の核心、第9条の改定だ。最近は世論調査でも賛成派の割合が反対派に比肩しているので、国民投票では改憲に振れるかもしれない。この流れを押しとどめる有能なハト派の影は見えない。

 

 最近言われだしたのは、戦力と交戦権の否認をうたった9条2項を残したまま自衛隊が合憲であることを明記するという奇案だ。これには、あぜんとする。そもそも9条改憲派の言い分には、国民の多くが自衛隊の存在を受け入れているのに憲法が「戦力」を否認しているのは現実的でない、という見方があったはずだ。たしかに人々の認識と9条の文面にはズレがある。9条2項の残置は、そのズレを条文に内在化させることにほかならない。

 

 9条2項について言えば、もともとある種の無力感が僕にはある。改定してもしなくても、世論の大勢は自衛隊を認めている。僕自身も、今ではその一人になった。考えてみれば、初めから「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と書かなければよかったのだ。連合国の顔色を見ながらではあれ、「専守の防衛力を超える戦力は、これを保持しない」という落とし所もあっただろう。なぜ、そこまで非武装にこだわったのか――。

 

 で、今週は『日本国憲法――9条に込められた魂』(鉄筆篇、鉄筆文庫)。憲法本文をそのまま載せて関連資料を収めた本だ。「鉄筆文庫」は、渡辺浩章という人が「魂に背く出版はしない」を社是に2014年に創刊した。この本は16年に自社編集で出た。

 

 当欄前身のコラムも『新装版 日本国憲法』(講談社学術文庫)をとりあげたことがある(文理悠々2013年9月17日付「日本国憲法を読むという読書」)。改めて別の憲法本を手にとったのは、「付録」資料の一つ「幣原(しではら)先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」に惹かれたからだ。「幣原先生」とは、終戦直後の1945年10月に首相となり、新憲法づくりにかかわった幣原喜重郎(1872〜1951)である。

 

 これは1964年、元衆議院議員の平野三郎(1912〜1994)が作成して、当時内閣に設けられていた憲法調査会に提出した文書。今も、国立国会図書館憲政資料室に保管されている。平野は、幣原が首相退任後に衆議院議長を務めたときの秘書官。1951年、幣原が亡くなる10日ほど前に東京・世田谷の幣原邸を訪ね、新憲法に託した思いなどについて聴いて、後にメモにまとめていた。幣原の遺言とも呼べる文書だ(敬称略、以下も)。

 

 圧巻なのは、問答形式の部分だ。平野が「私には第九条の意味がよく分りません」「暫定的な規定ですか」と問うと、「いや、そうではない」という答えが返ってくる。次いで「丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうするという訳なのですか」「それは死中に活だよ」というやりとりがある。ここで幣原は「常識ではこれはおかしい」としつつ、こう言う。「しかし原子爆弾というものが出来た以上、世界の事情は根本的に変って終(しま)った」

 

 幣原は、東大法科出身の元外交官。別段、理系ではない。だが、この原子核エネルギーの解放という新次元の兵器が、既存の兵器とどれほど違うかを弁えていた。核兵器の開発がさらに進めば「恐(おそ)らく次の戦争は短時間のうちに交戦国の大小都市が悉(ことごと)く灰燼(かいじん)に帰して終(しま)うことになるだろう」とみている。その結果、「戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証」という結論に至ったという。

 

 これに対して、平野は「しかし日本だけがやめても仕様がないのではありませんか」と食い下がる。ここで幣原がもちだすのが、「何らかの形に於(お)ける世界の連合方式」だ。そこには「各国の交戦権を制限し得る集中した武力がなければ世界の平和は保たれない」「戦争をなくするための基本的条件は武力の統一」という認識がある。国連中心の平和構築論が東西冷戦後ににわかに期待を集めたが、それを先取りする思想だった。

 

 このあと、幣原は世界の国々が自国の軍備縮小を進めることの難しさを語る。「軍縮交渉とは形を変えた戦争である」「軍縮交渉は合法的スパイ活動の場面として利用される程である」。これは元外交官、元外相の経験に裏打ちされた言葉で説得力がある。

 

 そのうえで幣原は、軍縮を達成するのに「一つだけ」方法がある、とする。「一、二、三の掛声もろとも凡(すべ)ての国が兵器を海に投ずるならば、忽(たちま)ち軍縮は完成するだろう」。これは、できないことのように思える。だが、できなければ軍縮もできない。そう思いめぐらせていたときに「第九条」がひらめいたのだという。「そうだ。もし誰かが自発的に武器を捨てるとしたら――」。軍縮の困難を知り尽くした人の着想である。

 

 ここで幣原は、「非武装宣言」を「従来の観念からすれば全(まった)く狂気の沙汰」と認める。そのうえで「世界は今一人の狂人を必要としている」と言って憚らない。平野が、侵略を受けたときはどうするのかと疑問をぶつけると、「その場合でもこの精神を貫くべきだ」と一歩も譲らない。理念先行のようには見える。だが、理詰めでものを考える人が広島、長崎の惨禍を見せつけられれば、こういう結論になるのだろう。

 

 平野は、非武装は「マッカーサー元帥(げんすい)の命令」だったのではないか、と切り込んでいる。これに対して幣原は、連合国の間には日本が天皇制を保ちつつ再軍備することへの警戒感があったことを認め、「天皇制を存続すると共に第九条を実現する」ことが「一石二鳥の名案」だったとまで言う。非武装が当時のマッカーサーの意に沿うものだったのは間違いなさそうだ。だがそれでも、幣原の思考が後付けのものだったとまでは言えまい。

 

 この文書にある幣原の発言には、人類の未来に対する卓見が見てとれる。彼は、数十年後を的確に見通していた。「世界はここ当分資本主義と共産主義の宿敵の対決を続けるだろうが、イデオロギーは絶対的に不動のものではない」「共産主義のイデオロギーも何(いず)れ全(まった)く変貌して終(しま)うだろう」。冷戦の終焉や旧ソ連・東欧の体制崩壊、現中国共産党政権下の市場経済を見れば、その眼力に脱帽せざるを得ない。

 

 だが、大きな誤算もあった。幣原は、資本主義対共産主義の対立構図が消えれば――即ち、東西冷戦が終われば――「世界の共通の敵は戦争それ自体」という状況が生まれると楽観視していたが、これは完全に外れた。民族主義が高まって局地戦争があちこちで頻発、難民があふれ、大国にも自国第一主義のうねりが強まっている。「何らかの形に於ける世界の連合方式」は、今やはかない夢。世界のベクトルは、その逆を向きはじめている。

 

 こうみてくると、日本国憲法9条2項はたしかに現実的ではない。だが今、核兵器は局地戦争でも使われかねないほどに拡散しており、「短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰して終う」という危惧のほうも現実感を増している。いつ核攻撃があってもおかしくない現実がある一方、いったんそれが始まれば応酬の連鎖で人類が破滅しかねない現実もある。僕たちは二つの現実の狭間にいるのだ。9条2項は安易に否定できない。

 

 日本国民は今、9条2項は先行世代が戦後に思い描いた究極の理想にほかならないことを世界に向けて明言すべきだ、と僕は思う。その目標があるから、自前の実力部隊を「軍隊」と呼ばなかったのだ。我々は理想を追いながら現実を生きているのである――と。

 

 この「付録」には、平野が幣原を一人称の主語にして執筆した一文も載っている。一問一答を補い、「先生の世界観で記憶に残るもの」も織り込んでまとめたという。そこには、ダーウィン進化論や唯物論、観念論をめぐる論述もあって、幣原の学識の深さがよくわかる。こうした知的な蓄積があるから、最終兵器としての核の脅威に気づき、軍拡の流れを根絶しようとしたのだろう。今の政界では、そんな思慮深いハト派がなかなか見つからない。

(執筆撮影・尾関章、通算492回、2019年10月4日公開、同月6日更新)

 

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