『64(ロクヨン)』(横山秀夫著、文春文庫、上下巻)

写真》記者の筆記用具

 最近は、毎夜のごとく2時間ミステリー(2H)を観る。今や民放キー局は新作2Hのレギュラー枠を店じまいしたから、BS、CS局が再放映する年代ものを録画保存しておいて再生するのだ。騒々しいバラエティー番組よりは、よっぽどおもしろい。

 

 事件の110番通報があり、刑事たちが食べかけのラーメンをほったらかして外へ飛びだす。パトカーが赤灯を回して走り、規制線の張られた現場に駆けつける。そんな場面を見せつけられると、血が騒ぐ。たぶん、新聞記者として警察署に出入りしていた経験が僕自身にあるからだ。それは記者生活36年のうち、最初の数年に限られる。なのに今、その警察回りの日々ばかりがしきりに思いだされる。どうしてだろうか。

 

 ふと気づくのは、僕が記者としての行動様式を警察回りの取材で刷り込まれたということだ。その最たるものは、「抜いた」「抜かれた」の感覚。「抜く」とは他社に先んじて報じること、「抜かれる」とは他社に先を越されること。新聞やテレビの記者は「抜かれる」ことの恐怖に脅え、「抜く」ことのために寝食を忘れて働く。これは、メーカーの社員が新製品の発売や特許の取得を競いあうのと似ているようで非なるものだ。

 

 どこが違うかと言えば、「抜いた」「抜かれた」にはカネが絡まないことだろう。記者が特ダネを書いても、新聞社はもうからない。大特ダネが載った日に駅売りの新聞がよく売れる、というくらいのことはあるだろう。ただ、それは宅配の部数増に直結しない。特ダネに対する昇給は査定次第だが、あったとしても微々たるものだ。新聞報道が暴走したとき、その無定見を「売らんかな」の精神に帰する批判も耳にするが、これは見当外れのように思う。

 

 ではなぜ、記者は「抜かれる」ことを恐れ、「抜く」ことに血まなこになるのか。正直言って、僕にも理由はわからない。ただ、「抜いた」ときは競争相手があわてふためくさまを見て胸がすく。「抜かれた」ときには、その逆の立場に追い込まれる。この世にはカネに絡まない競争に熱中する人々もいる、僕たちはそういう職業集団の一員になったのだ――そんな意識を徹底的にたたき込まれたのが、かけだしの警察回り時代ではなかったか。

 

 僕たち新聞記者は20代半ば、同級生たちが企業社会に入って市場原理で叱咤されるのを横目で見ながら、それとはまったく別の行動原理で動く世界のど真ん中にほうり込まれたことになる。2Hに惹かれる理由の一つは、それに対する懐旧だろう。

 

 で、今週は『64(ロクヨン)』(横山秀夫著、文春文庫、上下巻)。文藝春秋社が2012年に単行本を刊行、15年に文庫化した。著者は、新聞記者出身の推理作家。『陰の季節』や『クライマーズ・ハイ』などで、警察や新聞社という組織内部の人間群像を活写した。小説家としての姿勢は、朝日新聞群馬県版のインタビュー記事(朝日新聞デジタルにも掲載)に詳しい(当欄2019年1月18日付「横山秀夫が小説の岸辺に立った理由」)。

 

 本題に入る前に、思わせぶりな題名に触れておこう。上巻カバーの作品紹介にも種明かしがあるから、ネタばらしにはなるまい。そこには「〈昭和64年〉に起きたD県警史上最悪の翔子ちゃん誘拐殺人事件」という記述がある。誘拐当日は、西暦1989年が改元によって平成元年となる直前の昭和64年初め。それで、この事件を県警内では「ロクヨン」の符丁で呼ぶようになった。この小説の主舞台は、それから14年が過ぎたD県警だ。

 

 主人公は県警本部広報官の三上義信。捜査一課、二課での刑事生活が長かったが、今の役職は警務部秘書課に属する。日々、記者クラブとの軋轢、警察部局間の反目などに直面して悪戦苦闘している。しかも、家庭でも娘の失踪という心配事を抱えていて、心痛に押しつぶされそうな妻をいたわりながら職務をこなしている。この作品の筋書きは、三上の職業人としての思惑が家庭人としての心情と絡みあって、思わぬ展開を見せていく。

 

 小説の読みどころは、県警内で角突き合わす刑事部、警務部の心理戦にある。そこに、警察庁が中央官庁として地方の警察行政支配を強めようとする動きと、それに対する県警側の反発という組織戦が重なる。さらに厄介なのは、県警には伏せておきたい過去の不祥事という重荷があることだ。三上は刑事魂をもちつづけながらも警務部の一員として振る舞い、やがては「広報」の職責にも惹かれていく――だが、この顛末を当欄は追いかけない。

 

 ここでは話を記者の生態に絞ろう。冒頭からまもなく、記者クラブ員の一群が広報室に押しかけてくる。幹事社東洋新聞記者の手には、交通人身事故の発表文がある。県警は加害者の実名を明かさず、匿名表記になっていた。妊娠中だから、というのが理由だ。記者たちは「三十二歳の主婦A子さん。これじゃあ実在する人物かどうかもわからない」と突きあげるが、三上も「実在する生身の人間だから母胎への影響を考慮したんだ」と譲らない。

 

 実名匿名問題は、昔から警察と記者の間の火種だった。この小説の作品世界は個人情報保護法が成立した2003年ごろなので警察発表にも匿名化の機運があったように思うが、それでも記者は実名公表を求める。報道で名を伏せるかどうかは、メディアが当事者の人権や事件の公共性を勘案して自主判断する。発表内容が事実であることの保証はメディアが検証可能な状態に置かれることにあるので、そのためには実名が必要――という論理だ。

 

 もっともな理屈だ。これなら、記者クラブは一枚岩で固まりそうな気がする。だがそれは、所詮「抜いた」「抜かれた」でうごめく集団なのだ。三上は、この弱点を見逃さない。クラブが本部長に抗議文を突きつけようとすると、その動きを封じる工作に乗りだす。

 

 東洋新聞の支局デスク(次長)を昼食に誘いだして、それとなく談合事件の内密情報を明かしたのだ。これを聞いたときのデスクの表情はこうだった。「顔の幾つかの筋肉が張り、幾つかのそれが緩んだ。新人もベテランもない。特ダネを手にした瞬間の記者の顔は皆同じだ」。この細密描写は、同様のシメシメ感を体験したことがある新聞記者出身の作家ならではのものだろう。だが工作は、与えるだけで得るものがないまま終わった。

 

 別の箇所では、特ダネをものにした記者が三上の目にどう映るかも描いている。「抜いた翌朝は誰もが『事後の顔』だ。気怠(けだる)さと満足感の入り交じったその表情を見るにつけ、記者にとっての特ダネは、他のどの欲よりも性欲に近いのではないかと思ったりもする」。記者経験者として、あまり受け入れたくない記述だ。だが、君たちは本能で競いあっていたではないかと聞かれたら、うなずかざるを得ない一面もある。

 

 ただ、記者の生態も変化しているらしい。それは、三上の部下で広報業務に専心する中堅室員の仕事ぶりからもうかがえる。彼は「将棋、囲碁、麻雀、遊びは何でもとことん付き合って」「頻繁に記者と飲み歩き」……という昔ながらの記者懐柔法をとりながら、「都内の大学を出ているから東京の話もゼミの話もできる」「年齢的にも若い記者たちの兄貴分として振る舞える」という強みを生かそうとしている。戦略を「更新」しているのだ。

 

 それでも追いつくのは難しい。最近の若手記者は「奇妙なぐらい生真面目で潔癖」「酒の付き合いを好まず、飲んでも乱れない」「現に自分が在籍し、様々な恩恵を享受していながら、記者クラブ制度が警察と記者の癒着の温床なのだと真顔で論じる者もいる」……。

 

 そもそも理詰めで考えれば、同業者集団として排他的にまとまりながら、閉鎖的に競いあう記者クラブの正当性は破綻しているのだ。今は新聞記者のありようを問い直す好機なのかもしれない。(当欄2014年5月2日「ジャジャジャジャーンの事件記者」参照)

 

 さらに言えば、記者は「抜いた」「抜かれた」の呪縛から脱すればよいと僕は思う。速報ではソーシャルメディアに負けたりもするのだ。それよりは、強者に対峙して連帯することのほうが大切だ。『ペンタゴン・ペーパーズ』(キャサリン・グラハム著、小野善邦訳、CCCメディアハウス、副題は省く)で、ホワイトハウスに取材拒否された記者を他社の仲間たちが助けたように(当欄2018年5月11日「ケイとベンに教わるメディアの連帯」)。

(執筆撮影・尾関章、通算495回、2019年10月25日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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