『ベルリン 分断された都市』

(ズザンネ・ブッデンベルク著、トーマス・ヘンゼラー著・画、エドガー・フランツ、深見麻奈訳、彩流社)

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 うっかりしていた、というべきか。ドイツ・ベルリンの壁が崩壊して11月9日でちょうど30年となるのに先だって、当欄でもなにか書こうと考えていたのだが、いつのまにか忘れていた。それだけ遠い歴史的事象になってしまったということだろうか。

 

 だが、1週遅れでもこのテーマをとりあげよう。あの出来事は僕にとっても、物心ついてからこれまでで超断トツの大事件だった。人々が解放されるとはこういうことかと実感したのだ。僕たちの世代は1960年代末から70年代初めにかけて、解放は間近いかもしれないと思った。日本だけではない、欧米にも同様の空気があった。それは若気の至りの早とちりに過ぎなかったのだが、20年ほどして本当に解放の瞬間を目にしたのである。

 

 皮肉なのは、その出来事が社会主義体制からの解放だったことだ。1960年代末に巻き起こった若者たちの反抗は、日本の学生運動であれ、フランスのパリ五月革命であれ、社会主義を標榜する党派がかかわっていた。チェコスロバキア(当時)の「プラハの春」のように社会主義体制に対する異議申し立てもあるにはあったが、まだ世界の潮流ではなかった。ところが89年、東ドイツや東欧諸国で高まったのは、そのプラハ型のうねりだった。

 

 この構図から見てとれるのは、人々を旧体制から解放するはずの社会主義が、いつのまにか旧体制と見紛うほどの圧政を生みだしていた、という逆説だ。ただ、一つ言えるのは、僕たちは――少なくとも僕は――その捻じれに対してなんの違和感も覚えなかったことだ。それはそうだろう。1970年前後に世界の若者の多くが求めていたのは、社会主義体制ではなかった。むしろ、いかなる体制からも解放されることを渇望していたのだ。

 

 その意味では、1970年前後に解放を望んだ世代はベルリンの壁崩壊で半分しか目的を達成していない。あの出来事は、冷戦で二分された世界の東側体制の瓦解を象徴している。僕たちから見ると、壁の向こう側の解放である。では壁のこちら、西側はどうか。市場万能論で自由を謳歌しているかのように思えるが、それは経済活動の解放に過ぎない。人々はIT(情報技術)によって強化された管理社会体制にがんじがらめになっている。

 

 そう思うと、僕たちはベルリンの壁崩壊を他人事と受けとめてはならない。その壁が立ちはだかっていたころ、東ベルリンの市民はどんな暮らしをしていたのか、どのように自由を求め、そして解放されたのか。そこからは学ぶべきことが多いはずだ。

 

 ということで、今週は『ベルリン 分断された都市』(ズザンネ・ブッデンベルク著、トーマス・ヘンゼラー著・画、エドガー・フランツ、深見麻奈訳、彩流社)。著者二人は、映像  作品やイラスト、漫画の制作者。訳者の一人、フランツ執筆のあとがきによると、この本は、二人が「東ドイツ時代の出来事を当事者に取材し、5人の実話を時代を追って描いたもの」という。原著は2012年にベルリンで出版された。邦訳は翌13年刊。

 

 ベルリンの壁は1961年8月、東ドイツが「ベルリンの東西境界を閉鎖する」と決定したことで築かれた。ドイツは第2次大戦後、戦勝国の米英仏とソ連(当時)が分割して占領したが、49年、米英仏の占領域はドイツ連邦共和国(西ドイツ)に、ソ連の占領域はドイツ民主共和国(東ドイツ)になった。ベルリンはそれ自体が分割占領されていたので、二つの国に分断されることになる。その都市内国境を顕在化させたのが壁だった。

 

 この本の第1話は、その1961年の出来事。高校の最終学年だったレギーナ・ツィーヴィツの体験談だ。彼女は東ベルリンに住んでいたが、国境を越えて西ベルリンに通学していた。父は教会牧師。「労働者と農民の国」では「階級敵対者」とされたので、娘も東側の高校に進学できなかったのだ。西の授業は東とは違った。東では生徒に「体制側の意見の復唱」を求めたが、西では「個人としての意見」を言うように促されたという。

 

 レギーナは、西ベルリンにある大学への入学も決まり、あとは卒業試験の口頭試問を待つばかり。その夏に東西境界閉鎖の知らせが届く。前途真っ暗とは、こういうことを言うのだろう。このままでは学校にも行けない、大学にも進めない。そこで、高校の教師や友だちが助け舟を出す。彼女と同じように髪が短い級友の身分証明書が自宅に届けられたのだ。級友は西ベルリン在住。その友人になりすませば検問を通過できる――。

 

 スリリングな作戦の詳細はここに書かない。ただ、この話で何が印象深いかは記しておこう。それは、自由を手にしている人々が自由を奪われそうな隣人に対して救いの手を差し延べるときの手法だ。そこには、柔軟な思考がある。こういうときならば他人の身分証明書を用いるという違法行為もいとわない。法よりも良心を優先させた、ということだろう。この行動様式は、僕自身の取材経験でも欧米の国際NGO(非政府組織)に特徴的なものだ。

 

 第2話は、西ベルリン側にあって壁に面する病院で働いていたウルズラ・マルヒョーの見聞記。自身は食事の配膳係、夫は看護師、住まいも病院のすぐそばにある。「通りの向こう側には東ベルリンとの境界線があります。その先は別の国、つまりドイツ民主共和国(東ドイツ)です」。そこでウルズラが目撃した光景が文章と漫画で再現されているが、ここでは漫画の視覚効果が圧倒的な威力を発揮する。この本は、漫画形式で正解だったのだ。

 

 たとえば、境界となった東側の建物で「西側へと通じるすべての出口は段階的に封鎖されていきます」とあるくだり。「封鎖」とはどんなことかと思って漫画に目を凝らすと、二階の窓を煉瓦で封じる作業が進行中だ。別の絵では、未封鎖の窓から荷物が投げ落とされている。この場に居合わせたウルズラは「脱出しようとする人に気づいても、国境守備兵に気づかれないように、なるべく平静を装うようにしています」と独白する。

 

 この一節では、このほかにもいくつかの場面が描かれている。逃げようとして屋根にへばりついている人、窓からシーツを結びあわせたものを垂らして降りようとする人……。驚かされるのは、階上の窓からぶら下がった人の腕を東側の国境守備兵がつかまえて引きあげ、その足を西側の市民がつかんで引きおろそう、としている絵だ。冷戦時代、東側と西側が接する最前線では、人間が綱引きの綱のようになる状況が見られたのである。

 

 この本には、各話の末尾に記事欄があって、ベルリンの壁にかかわるデータが盛り込まれている。それによると、壁の分断があった28年間に「少なくとも136人が国境で命を落とした」。射殺による死ばかりではない。事故死もあった。自殺に追い込まれた人もいる。忘れてならないのは、30人は脱出を企てた人ではないことだ。巻き添えになり、誤射など不測の事態で落命したという。まさに、大都市のど真ん中に戦場があったのだ。

 

 この本でもっとも劇的なのは第3話だ。東ドイツの学者兼官僚だったハインツ・ホルツアプフェルは1965年、妻と息子の3人で東ベルリンから脱け出ようとする。その起点は、なんと「合同本庁舎」。東ドイツの建国宣言がなされた場所だ。彼は夕刻、この建物のトイレに「使用中止」の貼り紙をして中に家族とともに籠り、決行のときをうかがう。そしてサーカスのように自由の地に降り立つのだが、その詳述も控えておこう。

 

 第4話では1980年代、東ドイツの青年が西側のテレビ放送を見たり、東側の高層ビルから西側の写真を撮ったり、西側の広場で開かれたロックコンサートを壁の東側で聴いたりする。そして第5話では、壁の崩壊が18歳の若者の目を通して活写される。その夜、国境の通過地点には東側市民が押しかけていたが、遮断機は下りたまま。だが、守備兵に上層部から届く命令は混乱している。そして現場判断で、ついに門が開かれたのだ。

 

 ベルリンでは、西側地域こそが本国から切り離されて陸の孤島だった。ところが、東側地域のほうが孤立していたように見える。これは、ベルリンの壁が教えるもう一つの逆説だ。体制に縛りつけられ、ひと色に染まる社会が、どれほど罪深いものかがよくわかる。

(執筆撮影・尾関章、通算498回、2019年11月15日公開、同月20日更新) 

 

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