『ドイツ現代戯曲選30 第十三巻/私たちがたがいをなにも知らなかった時』

(ペーター・ハントケ著、鈴木仁子訳、論創社)

写真》広場

 若いころは、筋を追えるような物語を嫌ったものだ。いや、小ばかにしていたと言ったほうが当たっている。なぜだろうかと自問して気づくのは、わかりやすさに値打ちがないと思い込んでいたことだ。若気の至りとは、こういうことを言うのだろう。

 

 筋を追えない文学作品とはどんなものか。すぐ思いだせないのは、きっと筋が乏しくて印象に残らなかったからだ。ただ、そこにはコトよりもモノにこだわる傾向があった。たとえば、ドアの把手をただひたすら描く、という小説があった気がする。そこでは把手を、ドアの開け閉めに使うという用途から切り離している。モノをモノとしてとらえる、という志向がどこか実存的に思えたのだ。そこに立ち現れる世界は、どこまでも無機質に見えた。

 

 今では、そんな性向がすっかり消え失せた。物語の筋を軽蔑しなくなったのだ。たぶん、人と人の影響の及ぼしあいが人生の醍醐味であると悟ったからだ。青少年期は、人と人の関係を図式化してとらえていた。登場人物に男と女がいれば、そこに恋やセックスの力学しか想定しなかった。そんな決めつけが世界を見る目を貧しくしていたのだ。年をとるごとに、人間にはさまざまな関係性がありうることを実感してくる。これこそは年の功だ。

 

 ここで、ふと思う。筋がないと思われる文学作品にも、実は人と人のかかわりが隠れているのかもしれないと。だから当欄は今回、一つ実験を試みる。筋を追えない作品を年寄りの目で読んでみようと思うのだ。きっと、若者には見えないものが見えてくるだろう――。

 

 で、手にとったのは『ドイツ現代戯曲選30 第十三巻/私たちがたがいをなにも知らなかった時』(ペーター・ハントケ著、鈴木仁子訳、論創社)。著者は今年、ノーベル文学賞を贈られた。今回、文学賞は2018年と19年の2年分が同時に選考されたが、彼は19年の受賞者だ。巻末の著者紹介によると、1942年、オーストリアに生まれ、大学在学時代から創作活動に携わった。幅広く、小説や戯曲、映画脚本などを手掛けているという。

 

 この戯曲は1992年の作品。その邦訳を収めた上記戯曲選第十三巻は2006年に出た。今回のノーベル賞報道では、著者の戯曲家としての側面に触れて「66年初演の『観客罵倒』や『カスパー』(68年)など、従来の演劇形式を大胆に解体する前衛的な戯曲を発表」(朝日新聞2019年10月11日朝刊)という記述もあった。『私たちがたがいを…』も、きっと「前衛的」に違いあるまい。そう確信して、さっそく本を開いてみた。

 

 冒頭のページには「S.に」と書かれた献辞があり、「そしてたとえばヴェリジー台地のマユ・ショッピングセンターまえの広場に」と続いている。謎めいているが、この2行から引きだせることはいくつかある。「ショッピングセンター」とあるのだから、時代設定は現代なのだろう。「台地」の一語からはニュータウンのような印象も受けるが、これは日本の感覚を引きずった解釈かもしれない。いずれにせよ、日常性が感じとれる切りだし方だ。

 

 本編に入ると、書きだしはこうだ。「舞台はまばゆい光のさすひろびろした野外の広場。/はじまりにまずひとり、すばやく舞台を走り抜ける。/次に反対方向からまたひとり、おなじく足早に駆け抜ける。/」(/は改行)。これでは終わらない。二人が「両方向」から出てきて「すれ違う」こともある。要は、人は広場をただ走り過ぎるだけということだ。なるほど、「私たちがたがいをなにも知らなかった」状況がここにはある。

 

 このあと、「間」があって次の場面に移る。この第二場面でもやはり、人が次々に出てくる。ただ、今度はさまざまなしぐさを伴う。たとえば「しきりと掌を開いては五本の指をひろげ、同時に伸ばした両腕をゆっくりと持ち上げて、頭上で弧を描くように回してからふたたび下ろす」というように。やがて、広場には人が左右上下いろんな方向から出てきて「めいめいがてんでばらばらに〈ウォーミングアップ〉にいそしんでいる」。

 

 この人々は、ただなにかの準備運動をしているのではない。「たえずだしぬけに」「とっかえひっかえさまざまな姿態をとる」からだ。「いきなり跳躍して、ジグザグに走る」「眼のうえに小手をかざす」「櫛で髪をとく」「シャドウボクシングをする」「唾を吐く」「ハミングする」……。著者はここで、思いつく限りの行為を書き連ねる。しかも、これらは「すべてが入り乱れた様相で、どれもやりとおされることはなく、出だし部分だけ」なのだ。

 

 ここまできて予感するのは、この芝居は先へ進んでも台詞が出てこないのではないか、ということだった。実際にページをパラパラとめくってみると、登場人物名が太字で冠せられた発話部分がまったく見当たらない。これは、ト書きだらけの無言劇なのである。

 

 だが、登場人物の間には、それでもいかばかりかの関係性がある。ここが、おもしろいところだ。第一場面では、舞台を横切る人同士が無関係の関係にあるだけだろう。逆向きの人が「すれ違う」光景は、それを表現したものにほかならない。ところが第二場面では、そこに同調が生まれる。「ウォーミングアップ」だ。ただし、それは「てんでばらばら」のものであり、しかも任意の振る舞いを伴う。弱い関係が芽生えたということか。

 

 巻末には、ドイツ文学者池田信雄執筆の解題が載っている。題して「広場の叙事詩―そしてハントケの軌跡」。そこには「主人公は誰かと問われれば、広場だと答えるしかない」という記述がある。欧州で「広場(アゴラ)は劇場の原型」であったことを踏まえ、この作品を「劇場の起源についての劇」ととらえてもいる。これを僕なりに咀嚼すれば、広場とは人間の関係性が表出する場なので、関係性を可視化した戯曲とも言えよう。

 

 そこに立ち現れるのは、愛憎や怨嗟、嫉妬などが渦巻くドロドロとした人間関係ではない。あるかないかもはっきりしない関係。あえて言えば、他人をそれとなく見たり、他人から見られているように感じたりするときの、あの心理ではないだろうか。

 

 そのことをうかがわせる場面を切り出そう。「かけだしの現代的なビジネスウーマン、中が透けて見え、入っている品物のシルエットがわかる鞄を手に登場」の一文で始まる段落だ。ここで、鞄が透明もしくは半透明であるという点が暗示的だ。広場を歩くとき、人はプライバシーの衣をまとっているが、それはどこかで透けている。足の運び一つで心の内が爽快かそうでないか、すれ違う人にもわかってしまうということはよくある。

 

 この女性は携帯電話をかけようとして、端末を地面に落とす。かがんで取ろうとすると鞄の口が開いて、中に入れた品物が散らばる。それらを拾って歩きだすと、今度はつまずいて転びそうになる。「女はそこで突拍子もなく、なんとも説明のつかない笑みをにやりと浮かべる」。バツが悪いと感じたのか、真意はわからない。ただ、「にやり」は表情だ。だれかに向けたものなのだろう。このとき、広場には彼女一人。それでも他者は存在している。

 

 後段には「広場の人々はしだいにたがいを見つめあうようになる、いや、そうではなく、見守るようになる」というくだりがある。広場では、人々が「半狂乱」で駆けまわったり、「しゃくりあげて」泣きだしたり、「悲しげに」口笛を吹き奏でたりしている。その一人ひとりが「ただ見守られることによって、なだめられていく」。ここに至って、見るという行為は視線を投げるという所作を超える。対象を「守る」という意味を帯びるのだ。

 

 この戯曲を今日のメディア風に読み解くと、広場にはもともと無関係の関係しかなかったが、やがてその関係が実を結び、絆とか連帯とかが生まれてくる、という話になるのかもしれない。だがそれでは、この無言劇の核心を言いあてたことにはならないだろう。

 

 人はみな、他人を意識した存在だ。人生とは、そんな意識の集積にほかならない。著者は言葉という意思疎通の道具を消去することで、その現実を浮かびあがらせている。

 

 この戯曲には筋がない。だが、カフェから広場を眺めているようなおもしろさがある。

(執筆撮影・尾関章、通算503回、2019年12月20日公開)

 

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