『龍雄先生の冒険――回想の内山龍雄:一般ゲージ場理論の創始者』(内山会編、窮理舎)

写真》暮れは柚子湯で

 かつての職業柄、この時季には過ぎ去りつつある1年のニュースを振り返る。それでつくづく思うのは、よくぞあれほど多くの人々が頭を下げたなあ、ということだ。世に「不祥事」のタネは尽きず、その結末に定番の謝罪会見がある。これが、今の日本社会の現実だ。

 

 「不祥事」の一つは、ハラスメント。訳せば「嫌がらせ」だが、最近は人の尊厳を貶める行為一般を言う。日本では、セクシュアル・ハラスメント即ちセクハラという言葉から広まったように思うが、今では性的要素を伴わないものも多い。パワハラ、アカハラ、マタハラ……世の中のさまざまな局面で人間の尊厳は傷つけられてきたのだ。僕たちはそれに気づいて、ものを言うときも物事を判断するときも、めっきり慎重になった。

 

 ところが、そんな変化に対して感度の鈍い人がいる。強い立場をいいことに平気で暴言を吐いたり、弱い者いじめをしたり、というハラスメントをしでかすのだ。謝罪会見は、こういう行為が跡を絶たないから開かれる。それを見て、僕たちはますます慎重になる。

 

 もう一つ、「不祥事」で多いのはルール違反だ。ルールは法令に限らない。世の中に張りめぐらされた決まりごとの一切を含む。報道によれば、それらにはたいてい動かしがたい証拠がある。コンピューターや記憶媒体の電子記録、街の防犯カメラや車のドライブレコーダーの映像……IT(情報技術)社会にあっては、人はいつも監視されている。それでも決まりを破る人がいて頭を下げるから、僕たちはいっそう慎重になるのだ。

 

 ここで見逃せないのは、僕たちが身につけた破格の慎重さだ。一言一句、一挙手一投足に気をつかうのは悪いことではない。それによって、傷つく人は減るし、社会の安定も保たれる。だが、慎重が過ぎると失うものがある。たとえば、率直さ。相手の気持ちを害すまいとして、言うべきことをのみ込んでしまいかねない。あるいは、思慮深さ。ルール遵守ばかりに気をとられ、自らの良心で事の是非を見極めることを忘れてしまう。

 

 僕たちが若かったころは世間全般が大らかだった。証拠がほしければ、1960年代のサラリーマン映画を観ればよい。森繁久彌や植木等が登場する企業社会には、なんでもありの緩さがあった。そんなコメディーを受け入れるくらいに世の中も緩かったのだ。さて、今週は2019年の最終週。「年忘れ」の大義のもと、日本社会に大らかさが満ちあふれていた時分のことを思い返してみたい。そこには間違いなく、今とは違う人々がいた。

 

 『龍雄先生の冒険――回想の内山龍雄:一般ゲージ場理論の創始者』(内山会編、窮理舎)。「龍雄先生」とあるのは、大阪大学教授、帝塚山大学学長などを務めた理論物理学者内山龍雄(うちやま・りょうゆう、1916〜1990)。その薫陶を受けた物理学者を中心に、ゆかりのある人々が集うのが「内山会」だ。この本は内山の永眠から4年後、同門の人々による私家版の文集として編まれたが、それが今年、加筆改版されて一般書籍になった。

 

 内山は1978年に岩波新書で『相対性理論入門』を出しており、一般相対論の専門家として知られていた。僕が83年、新聞社の大阪本社で科学記者の道に入ったとき、彼は会っておきたい科学者の一人だったが、先輩記者に相談すると忠告を受けた。「怖い人だぞ」。やめたほうがよい、という含意があった。先輩は取材時に不用意な質問をしたかなにかで叱られたのだろう。それでビビッて、話を聴きにいかなかった自分が今思えば恨めしい。

 

 怖い人だったことは、この本の随所からもうかがえる。どうやら、「無礼者」のひと言をしばしば発していたらしいのだ。一つめは戦時の話。電車で英文の論文誌『フィジカル・レヴュー』を読んでいると、それを見た乗客の一人が「非国民め」と声をあげた。「先生は、『無礼者!』とどなりつけざまに、手にしていたフィジカル・レヴューの背でその男の頭を叩きました」(筆者・細谷暁夫)。雑誌の綴じ目がほどけるほどの勢いだったという。

 

 「無礼者」には、戦後の逸話もある。非常勤の教員だった女子大で理事長と面談していたとき、なにかのきっかけで「いつものように『無礼者』とおっしゃって」「チョークを理事長に投げ付けました」(筆者・同上)。それは後方のガラス窓を突き破ったという。

 

 このときなぜ、内山の怒りが爆発したのか。それにはわけがある。当時は大学の設置基準が設けられたころで、図書施設も文部省の調査対象になった。女子大の理事長は学内の書物が十分にそろっているように見せるため、内山の蔵書を一時借りたのだ。貸す側にしてみれば、被雇用者ゆえの「不承不承」の協力だった。理事長は大喜びだったが、内山のほうはごまかし行為の一端にかかわってしまったことで「むしゃくしゃ」していたのだ。

 

 これらの話は、今ならば武勇伝とは言えない。「非国民」という中傷に対して「無礼者!」と言い放ったまでは小気味よいが、雑誌を振りまわしたのはまずい。学校図書の見せかけ増量に腹を立てたのはもっともだが、チョークを飛ばしてガラスを割ってはいけない。ただ断っておくべきは、いずれも筆者の目撃談ではないことだ。おそらくは内山自身が語ったのだろう。語った時点の物差しが許す範囲で尾ひれがついていてもおかしくはない。

 

 実際、内山には人に一杯食わせるところがあったようだ。宇宙論学者の僚友と北回りの空路で欧州へ向かっていたときの話。友人は高所が苦手で、内側の席でおとなしくしている。飛行機が北極圏に接近すると「窓側に座っていた先生が突然『N極が見えるぞ! 下を見てみろ』と叫びました」。と、友人は思わず窓のほうへ乗りだしてきたという(筆者・同上)。一瞬のことではあれ、科学者が地球の磁極に印が付いていると思ってしまうとは。

 

 世間が一杯食わされていたかもしれない話もある。「龍雄」を音読みすることだ。自分では「禅坊主の息子だったので」と言っていた。だが、それと矛盾する伝聞も紹介されている。ある人が自宅に赴くと「奥様が玄関に出ていらっしゃって、奥に向かって、『タッチャン!』と呼ばれた」というのだ(筆者・同上)。筆者は「りょうゆう」を「単にペンネームということのよう」と結論づけているが、「タッチャン!」話にも食わせものの感はある。

 

 懐の深さを感じさせるのは、「超能力者ユリ・ゲラー」ブームのころの逸話。そのスプーン曲げを研究室の大勢は「いかがわしい」と感じていたが、内山は違った。「スプーンを片手にもち、その首根っこを親指と人差し指で挟んで猛烈な勢いで擦り始めました」。やがてスプーンは切れて、一同あっけにとられる。とりあえず「先生の指の力が人一倍強い」説に落ちついたという(筆者・同上)。あやしげなものでも最初から切り捨てない人だった。

 

 ここまでの内山像からは、ほんとかなと思わせるような豪放さしか見えてこない。だが実際には、繊細な感性を秘めた人だったらしい。1950年代、大学の研究室が「遠足」を計画したときのことだ。あいにく、当日は大雨になった。事前に雨天中止を決めていたから、ふつうならだれも行かない。ところが「先生」だけは目的地に足を運んだ。「もし間違って誰か来て電車に跳ねられでもしたら」。翌日、そう漏らしたという(筆者・山本邦夫)。

 

 この本には、内山本人のエッセイ、論考も載っている。心打たれるのは「痛恨の記」(『帝塚山論集』第37号〈1983年〉から抜粋)。素粒子物理の力を説明する「ゲージ場」の研究をめぐる話だ。彼は1954年、その理論をまとめていたが、論文発表は在米のC・N・ヤン(楊振寧)、ロバート・ミルズに先を越されてしまう。内山理論は、重力をも含む「一般ゲージ場」を扱っているという強みがあるから、負けたとばかりは言えないのだが。

 

 このいきさつを内山自身は「残念千万」としつつ、「すべては私の大きな過ちにもとづく」と認めている。論文原稿をすぐ英文誌に投稿すべきだったのに「ふところの中に温めていた」。そこに「慢心」があったというのだ。「龍雄先生」は率直な人でもあった。

 

 研究仲間の議論で「先生」を怒らせないためには、「論文の動機付け」から説き起こして「これからやろうとしている事の本質だけ」を切りだす必要があったという(筆者・重本和泰)。世間が緩かった分、論理だけは揺るがせにしない人々が大学にはいたのである。

(執筆撮影・尾関章、通算504回、2019年12月27日公開、2020年1月31日更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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