『ヌメロ・ゼロ』(ウンベルト・エーコ著、中山エツコ訳、河出文庫)

写真》新聞――紙とデジタル

 思えば、青臭い日々だった。新聞社在籍時代のことだ。若いころは仲間同士、とんがった議論に明け暮れた。年長になってからは、社内で会議漬けに。日本社会では会議が上意下達の場になっていることが多いが、そこはやせても枯れても言論機関である。ブレインストーミング風に思いつきをぶつけ合い、あたかも学園祭を前にした学生たちのように盛りあがる機会も少なくなかった。紙面企画を練る会議などが、これに当たる。

 

 考えてみれば、新聞づくりという仕事はぜいたくの極みだ。来る日も来る日も、真っ白な紙が幾枚も与えられる。それを好きなように埋めていけ、という。ここでものを言うのは、新聞づくりの動力学。一方には、列島の隅々、世界のあちこちに散って情報を集めてくるボトムアップの流れがある。もう一方には、集まった情報を取捨選択してこれはというものを強調するトップダウンの制御がある。アップとダウンがぶつかり合うのが会議である。

 

 僕の記憶をもとに、新聞社内で日課となっている紙面設計の会議を並べてみよう。朝一番には、夕刊づくりのために各部の出稿責任者(デスク)が集まる。昔は、フロアに立ったまま手短に済ませたので「立ちあい」と呼んだものだ。朝刊に向けては、夕方から夜半にかけて複数回、デスク会を開く。こちらは時間をかけて議論する。デスクは自分の部が出そうとする原稿を、説得力をもって売り込まなくてはならない。口八丁がものを言うのだ。

 

 で今週は、『ヌメロ・ゼロ』(ウンベルト・エーコ著、中山エツコ訳、河出文庫)というイタリア小説。イタリア語の「ヌメロ」は英語の「ナンバー」、したがって書名は「ゼロ号」と訳せる。出版業界では雑誌を創刊するときに見本版の「準備号」を用意することがあり、それを「ゼロ号」と呼ぶ。この小説は、新聞の「ゼロ号」をつくるためにかき集められた記者たちが織りなす物語。とめどなく続く議論が元新聞記者の僕には懐かしい。

 

 著者は、イタリアの小説家。作品群には、『薔薇の名前』『フーコーの振り子』など話題作が多い。哲学、記号論などの学究でもあった。本書カバーの著者略歴欄には、「現代を代表する碩学」とある。1932年生まれ、2016年没。本作『ヌメロ…』は、原著が15年に出た。著者にとっては、80歳を超えて世に問うた最後の長編小説だ。邦訳は16年、単行本として河出書房新社から刊行され、加筆修正されて18年に文庫本となった。

 

 この作品で、記者たちが新聞のゼロ号づくりに奔走するのは1992年4月から6月まで。新聞を新たに創刊しようという話を小説の題材にするには、ギリギリ最後の時代だったように思う。インターネットが広まったのは95年ごろ。その直前だから、紙のメディアは先行き不透明になっていた。当時すでに新聞のデジタル化は予想されていた。だが、その先にソーシャルメディア全盛の世が控えていることを予感していた人はほとんどいない。

 

 1990年前後は、別の面でも新聞が転換点にあった。新聞批判が世論になるという現象は以前からあったが、その議論が成熟してくる。事実の捻じ曲げ、プライバシーの侵害、取材倫理からの逸脱……いくつもの難点が指摘され、批判する側から批判される側に回るという逆転が起こる。記者にとっては厳しい時代の始まりだった。この作品は、新聞づくりの曲がり角に照準を合わせ、その時点に立ち返って想像をめぐらせているのだ。

 

 作品の主人公コロンナは50歳。大学を中退して町から町へ移り住み、「ものを書き散らしてなんとかやってきた」。書いていたのは、地方紙に載る劇評など。出版社の仕事で百科事典の校正や持ち込み原稿の下読みをしていたこともある。結婚経験はあるが、妻から「二年ほどで愛想をつかされた」。要するに、ぱっとしないジャーナリスト。そして「いつの日か本を書いて、富と栄光を手に入れること」を夢に思い描くようになっていた。

 

 冒頭の章の日付は6月6日。「今朝は蛇口から水が出なかった」と書きだされる。断水ではない。アパートの自室で、流し台の下の止水栓が閉まっていたのだ。コロンナは、夜中に不審な出入りがあったと疑う。この猜疑こそが、全編の伏線となっている。

 

 そして、第2章は2カ月前にさかのぼって、以後、最終第18章まで時系列に物語が展開される。それは、コロンナがミラノで、シメイという人物――雑誌編集長の経験があるらしい――から仕事の打診を受けるところから始まる。シメイは「出ることのない日刊紙の準備にかけた一年間を語る本」を執筆してほしい、と頼んでくる。よく聞くと、あくまでもゴーストライターとして、という条件付きだ。表向きの著者はシメイ自身だという。

 

 おもしろいのは、その日刊紙『ドマーニ(明日)』には出資元があり、創刊話がまったくの絵空事ではないことだ。ただシメイは、結局は発刊できまい、と踏んでいる。「新聞が頓挫(とんざ)したら、本を出版する」。そのためにも、ゼロ号をつくろうというわけだ。

 

 翌日、記者6人が集められる。芸能界の「熱々の仲」を記事にしてきたマイア・フレジア、「スキャンダル暴露」専門のロマーノ・ブラッガドーチョ。ほかに、事件事故の取材に駆けまわってきた記者、クイズ・パズル誌の経験者、新聞社の元組版主任、そして出版関係の仕事をしていたというが、どことなく胡散臭い人物。多彩と言えば多彩、ただ、チームプレーは難しそうな陣容だ。コロンナには、出稿管理をする「デスク」の役割があてがわれた。

 

 この筋立てが絶妙だ。コロンナたちは紙面をどうするかで議論を重ねるのだが、それは現実の報道ではない。出るか出ないかもわからない新聞のゼロ号。試作だから、実際の記者活動に比べて制約が少ない。「いつの日付にしてもいい」ので、日々の事件に追い立てられることもない。過去の大事件を振り返って、あのとき自分ならこんなふうに報じただろうと大見えを切ることもできる。こうして編集部は、言いたい放題の活況を呈する。

 

 実際、部内の議論には新聞を出す側の思惑が表出している。シメイは「ニュースが新聞をつくるのではなく、新聞がニュースをつくる」と言って、持論を展開する。いくつかの記事に共通点を見いだして、それらを1カ所に集め、大見出しを打ったとしよう。読者は、個々の出来事に関心が薄くても「ひとつにまとめると、どうしても目を止めてしまう」。これこそが編集の妙味というわけか。それは同時に、危うさでもあるのだが……。

 

 用語をめぐる議論もある。ブラッガドーチョが、ある記事の「モスクワの怒り」という表現にかみついて「陳腐に響かないか?」と切りだした。これに対して、コロンナは「読者はまさにそういう表現を待ち望んでいるんだよ」と反論する。例示される常套句は「真っ向から対立」「冬の時代」「これからが正念場」「もはや待ったなし」「土俵際に立たされる」……イタリア語でどう言うのだろう? いずこの新聞も同じだと、僕は苦笑する。

 

 自由な立場にいることを満喫しているように見えるのは、ブラッガドーチョだ。コロンナを酒場に連れだし、「新聞は嘘(うそ)をつく。歴史家も嘘をつく。そして今、テレビも嘘をつく」とまくし立てる。「アメリカ人はほんとうに月に行ったのか」「湾岸戦争はほんとうに起こったのか」。真実は「疑うこと」で得られると説いて、科学を例に挙げる。それにコロンナが同意すると、今度は「科学だって嘘をつく」と卓袱台をひっくり返す。

 

 物語はしだいに、ブラッガドーチョの取材報告に焦点が当てられていく。彼が記事にしようとしているのは、イタリア戦後史の裏読みと言ってよい。ファシスト残党、カトリック教会、極左勢力の動向に冷戦期の東西対立が絡まって、さまざまな出来事が陰謀論に結びつけられていく。読んでいると、もっともらしく聞こえてくるから不思議だ。これは真実なのか、それとも懐疑を旨とするジャーナリストが懐疑の末に行き着いた妄想なのか。

 

 どんな結末が待ち受けているかについては触れない。ただ、そこにフレジアが見てとるジャーナリズムの落とし穴のことは言っておこう。謀を暴露しようとすると、その暴露そのものが謀と疑われてしまう、という皮肉な現実だ。ネット時代なら、なおさらだろう。

 

 碩学エーコは、新聞「冬の時代」の「土俵際」を見事に予言して逝ったのだった。

(執筆撮影・尾関章、通算508回、2020年1月24日公開、同月29日更新)

 

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