『東京ダモイ』(鏑木蓮著、講談社文庫)

写真》シベリア

 お役所仕事のずさんさが次々に露呈しているが、あまりに多岐にわたるので目立たないものもある。第2次大戦後、抑留先のシベリアで亡くなった人の遺骨情報の「放置」が、その一つだ。だがこれは、死者の尊厳にかかわる話なので見過ごせない。

 

 この一件は昨夏、NHKの特報で発覚した。その後の朝日新聞の報道によると、厚生労働省の事業で1999年〜2014年にシベリアから引きとられた遺骨のうち、約600人分が日本人のものでないらしいとわかった。これを厚労省は公表しなかったという。

 

 ここで、遺骨が日本人のものかどうかを見極めたのはDNA型鑑定だ。厚労省の派遣団は、埋葬地の調査で日本人の遺骨とされたものを持ち帰った。昔なら、それでひとまず事業は完了したはずだ。もちろん、判定に対して懐疑的な見方は出たかもしれないが、決め手がないので、うやむやに終わっただろう。ところが今は、物証が手に入る。専門家が人骨に残るDNAを調べて、疑義を唱えたのだ。この結果を無視してよいわけはない。

 

 DNA型鑑定は1980年代に登場した。この技術は、血液型だけでは父親がわからない、犯人を絞れない、という近代小説の決まり事を吹っ飛ばした。それが今回は、埋葬記録のいい加減さをあばいたのだ。だが、そのことでシベリア抑留の霧はますます深まった。

 

 シベリア抑留とは何か。厚労省ウェブサイトにある公式データを見ておこう。シベリア抑留とは、戦争直後、旧満州(中国東北部)や樺太(ロシア・サハリン)、千島地域にいた旧日本軍人など57万5000人を、旧ソ連がシベリア地方やモンゴル国内に「強制抑留」したことを指す。うち約5万5000人が抑留中に亡くなったという。被抑留者の総数は鳥取県1県の人口に匹敵する。しかも、その1割ほどが生命を落としたことになる。

 

 戦後しばらく日本社会では、家族が、親類が、友人が海を隔てた極寒の異郷にいて、その生死すらわからないという状態がふつうにあったのだ。しかも厚労省サイトによれば、70余年後の今も、彼の地で死去したのは誰かという情報が確定されていない。

 

 そうでなくとも、僕たち戦後世代はシベリア抑留についてほとんど知らない。私事を言えば身内にも体験者がいたのだが、抑留期の思い出を聞いた記憶がまったくない。さぞ辛かったのだろう、尊厳を傷つけられることもあったに違いないと推察して、こちらもあえて聞きだそうとはしなかった。おそらく同様の家庭は津々浦々に多いはずで、その分の個人史が封印されている。こうして、民衆の戦後史に大きな穴がぽっかり開いてしまったのだ。

 

 で、今週は推理小説『東京ダモイ』(鏑木蓮著、講談社文庫)。終戦直後のシベリア抑留地と今日の日本社会が、それぞれで起こった殺人事件の謎解きでつながってくる、という筋立てだ。著者は1961年生まれ。塾講師、出版社勤務、コピーライターなどの職歴を経て、2000年代にミステリー作家となる。06年、この作品によって江戸川乱歩賞を受けた。それが同年、講談社から単行本として刊行され、09年に文庫化された。

 

 題名の「ダモイ」は、「帰郷」「帰国」を意味するロシア語。シベリアの被抑留者たちはきっと望郷の念を募らせて、この外国語を真っ先に覚えたのだろう。彼らの帰還後、日本国内でも一時期、流行ったらしいが、1951(昭和26)年生まれの僕には記憶がない。

 

 作品のプロローグは、1947年11月、イルクーツク州タイシェトの第53俘虜収容所の話。ちなみに巻末のことわり書きによれば、この収容所は架空のものだという。本文は、鴻山隼人中尉のつぶやきで始まる。「寒波(マロース)だ、マロースが来る。明日はマイナス四十度を下回るかもしれん」。零下40度より寒ければ、作業は中止との決まりがある。だが、中尉は「帝国軍人の誇りを忘れるな」「ノルマに負けるな」と発破をかける。

 

 ここで浮かびあがってくるのは、被抑留者集団の複雑さだ。指示系統の頂点にソ連当局が君臨していることは間違いない。だが日本軍の階級はそのまま残っていて、それが指示系統の補完装置のように働いている。とはいえ、そこにも牽制が入る。「ソ連側は、抑留者たちに共産主義を植えつけるため、軍国主義をやめさせようと民主化教育を激化させていった」。集団内には、民主運動の活動家となった元日本兵がいて「アクティブ」と呼ばれていた。

 

 こうしたなかで、鴻山中尉の殺害事件が起こる。零下47度の朝、高津耕介二等兵が凍土の氷――融かして水にするのだ――を調達するために外へ出ていたとき、首を切り落とされた死体が見つかったのだ。高津は斧をもっていたので疑われたが、血がついていないので容疑はすぐに晴れた。「鋭利な刃物だ。日本(ヤポン)のカタナのような」と、収容所の医師ニコライが言う。そこには、マリア・アリョーヒナという看護婦の姿もあった。

 

 つづく第一章では、時代が一転、2005年に飛ぶ。ここで登場するのは、東京の出版社員、槙野英治。新幹線経由で山陰本線に乗り、京都府北部の綾部に向かっているところだ。勤め先は、自費出版本の刊行が専門。その依頼人が綾部に住んでいるのだった。氏名年齢は、高津耕介76歳。そう、あの高津二等兵だ。槙野が綾部駅で降り、たどり着いた家は川沿いの雑木林の中。丸太づくりで土間があるだけ、という質素な住まいだった。

 

 出版したいのは、シベリア抑留をテーマとする句集だという。奇妙なのは、高津が本の体裁などにはまったく無関心で、「宣伝に力を注いで欲しい」とだけ条件をつけてきたこと。新聞広告は写真入りの大きな扱いで、と強く求めた。そうしてくれれば出版代金と合わせて500万円支払うが、ダメなら依頼そのものを撤回する、という。「売れなくてもいいんだ」「私が句集を出したことを知らせたい」――そこはかとなく、訳あり感が漂う。

 

 この小説では、同じ京都府北部の舞鶴で事件が起こる。かつて収容所の看護婦だったマリアが扼殺されたのだ。83歳。埠頭で海から引きあげられたのだが、下着のなかに旧日本軍人の軍用時計を隠していた。旅の付き添いをしていたのは、東京の医師鴻山秀樹。鴻山中尉の孫だ。高津も事件が報道された後、舞鶴署を訪れ、遺体を見て慟哭している。そして秀樹も高津も行方不明となった。マリア殺害は58年前の中尉殺害につながっているらしい。

 

 これより先は筋を追わない。作品のところどころに織り込まれた高津原稿から、被抑留者の思いをすくいあげてみよう。そこには、句集と言っても散文がたっぷり綴られている。

 

 まずは、抑留の始まり。「戦地で終戦を迎えた我々は二ヵ月後、何も知らずに満州から貨車に詰め込まれていた」。日本の兵士たちの間には、これはダモイなのか、という期待もあったらしい。一人の兵士が停車中、小用を足しているふりをして夜空を見あげる。星の位置からみて、行く手は北らしいと知り、こう叫ぶ。「ダモイではない、シベリアに向かっている」。このときの一句。「椋鳥やいづこへ帰る夜半の月」(ルビは省く、以下の引用も)

 

 高津にとって、収容所では医務室だけがやすらぎの場だった。看護婦が優しかったのだ。関東軍時代の誤爆事故で体内に陶器片が残っていたので、土木作業で穴を掘っていて、首のあたりに痛みを覚えたことがある。医師の処方は湿布薬くらい。それも不足していて交換できないことがあったが、マリアは「追い返そうともせず」「一撮みの砂糖をくれることさえあった」。その甘さに故郷のつるし柿を思いだす。「手のひらの甘き白砂柿の色」

 

 1947年暮れ、高津たちもついにダモイを果たす。「無事乗船してからも多くの人間が姿を消したり、亡くなったりしていた」。船内には「兵士たちが将校に報復した」とか「アクティブが制裁の機会を狙っている」とか、噂話が飛び交った。一方に、軍国主義の残滓。もう一方に、歪んだ「民主主義」の工作。二つの抑圧を経験した人々の心には、舞鶴港への引き揚げを前にして、疑心暗鬼が渦巻いていた。「甲板で心に秘する舞鶴草」

 

 俳句は、17文字に幾つもの思いを重ねられる。だから、そこに真情を潜ませることもできる。それが抑留の闇を照らす灯となり、ミステリーの謎を解く鍵にもなっている。

(執筆撮影・尾関章、通算509回、2020年1月31日公開)

 

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