『野村克也、明智光秀を語る』(野村克也著、プレジデント社)

写真》月見草逝く、1面トップでなく……(朝日新聞2月12日付朝刊)

 ノムラ逝く――。プロ野球人野村克也さんの訃報である。享年84。世間的には「ノムラ」ではなく「ノムさん」かもしれない。名伯楽にしてボヤキの名人、知性派にして情にも厚い指導者。そんな監督としての姿を覚えている人が大半だからだ。だが、僕は違う。拙稿表題にあるように1960年代、南海ホークス(現・ソフトバンク・ホークス)の四番打者であり、超一級の捕手だったころのことが忘れられないのだ。(以下、敬称略)

 

 野村克也という選手を知ったころ、僕はまだ小学生だった。東京の子どもたちは、圧倒的多数が巨人ファン。覚えている限りで言えば、僕の学級の半数、即ち30人近い男子児童のうち巨人以外を応援しているのは、たった3人だった。西鉄ライオンズが1人、東映フライヤーズが1人、そして南海が1人。その南海ファンが、ほかならぬ僕だったのだ。ちなみにあのころ、プロ野球好きを表明している女子は一人もいなかった、と思う。

 

 1960年代、テレビ各局はプロ野球中継にしのぎを削っていた。セ・リーグ中心でナイター(ナイトゲーム)が多かったが、ときに薄暮ゲームも生中継された。子ども心がときめいたのは、その美しさだ。真夏、夕暮れ、大阪球場の照明塔に灯がともる。後攻ホークスに好機が訪れ、野村が打席につく。丸顔の頭部を覆うヘルメットに照明の光がはね返り、きらめいている。なにかが起こりそうだ!――あの期待感は、今も僕の胸のうちにある。

 

 野村と言えば「月見草」。1975年、本塁打通算600本を達成したときのことだ。巨人のON砲を「ひまわり」にたとえ、自らを「人目に触れないところで咲く月見草」と形容した。南海ファンが1学級に1人という僕の原体験は、その比喩の的確さを物語る。

 

 そうだ、僕は筋金入りの月見草ファンだったのだ。だから、今回は予定を変更して、速報で野村本をとりあげる。かつて当欄の前身では『あ〜ぁ、楽天イーグルス』(野村克也著、角川oneテーマ21)を読んだことがある(文理悠々2013年9月30日付「マー君の陰にノムさんありという話」)。今度は、野球べったりでない本を選びたい。そう思って書店で見つけたのが、『野村克也、明智光秀を語る』(野村克也著、プレジデント社)である。

 

 刊行は、2019年12月24日。つい、ふた月ほど前のことではないか。世間では年明けから始まるNHK大河ドラマの影響で、明智光秀がブームになろうとしていた。このときを狙って「ノムさん」と光秀を結びつける本を出す。あざといと言えばあざとい。さすが、ビジネスパーソンの心、とりわけおじさんの心をわしづかみにするのに長けた版元だ。著者自身、この出版話をもちかけられたとき、「心底驚き、そして呆れた」と書いている。

 

 著者が「光秀なんて名前しか知らない」と応じると、プレジデント社の書籍編集部長は「知っている人間に明智光秀の話をさせますから、その話を聞きながら、その時々における光秀の心情を野村さんに語ってほしい」とたたみかけてきた、という。粘り腰だ。いや、ファウルで粘って狙い球を逃さないということか。ただ、この一文によって、本づくりの内幕が正直に明かされている。この本は、歴史通が楽屋裏にいて力を貸した一冊と言える。

 

 実際に本文は、光秀と著者それぞれの個人史が並行して進み、互いに絡みあうつくりになっている。ところどころに「俺のボヤキ」というひと言が挟まるのだが、これこそが著者の本音のように思われる。その一つに「光秀の話を聞いて、俺の思いを語っているけれど、かみ合っているかな?」とある。著者にも戸惑いがあったのだろう。実際、野村克也と明智光秀、この二人には似ているところもあるが、違うところがあり過ぎる。

 

 似ているのは、月見草ということか。たしかに、戦国絵巻の主役と言えば織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。僕たちは当代著名人のキャラを比べるとき、この3人になぞらえる。だが、光秀の名は出てこない。これはまさに、王貞治、長嶋茂雄に対する野村の立ち位置だ。

 

 少年期、青年期の境遇も重なりあうところがある。光秀は美濃の武将の子として生まれるが、若くして郷里を追われ、越前の朝倉義景らに仕える。信長と出会うのは40歳の大台に乗ってから。苦労人だったことは間違いない。著者は、それと自らの生い立ちを重ねる。

 

 著者は1935(昭和10)年、京都府網野町(現・京丹後市)で生まれた。父は戦死、母や兄とともに暮らした。小学3年生のときから、新聞配達をして家計を助けたという。中学生時代に思いついたのが、歌手になって母の恩に報いること。音域を広げようと、放課後は浜に出た。「海に向かって大声を出し続け、本当に声が出なくなるくらいに叫んだ」。さながら、自主トレのようだ。野球部に入ったのは中3になってからだという。

 

 ここまでは、たしかに相通じる。だが、光秀が信長に登用されたころの心情を、自身がヤクルト・スワローズの監督に就任したころのそれとだぶらせる話には無理がある。光秀は、弱小球団を転々としてようやく人気球団にトレードされた選手という感じ。これに対し、著者は現役時代、すでに強豪チームの主砲であり、尊敬を集めていた。身が引き締まる思いだったことは共通していても、心の余裕は地と天ほどの差があっただろう。

 

 こうみてくると、著者と光秀を強引に対応させるのは賢明ではない。出版社の心理としては、既刊の著書群で披歴された野村イズムを別の角度から切りだそうとして光秀を引っ張ってきたのだろうが、その必要はない。野村イズムは二度三度聞いても鮮度が落ちない。

 

 僕がこの本で、さすが野村、と感銘を受けたのが「想像して、実践して、反省する」という言葉だ。なんの変哲もない人生訓のようにも見える。だが、これが「キャッチャーは一試合で三試合分の試合をしている」という著者の実感と結びつくと、輝きが増してくる。ここで「三試合」とは、プレーボール前の「想像野球」、試合中の「実践野球」、ゲームセット後の「反省野球」。想像と反省という知的作業が、実践の身体作業と不可分なのだ。

 

 捕手の仕事に即して言えば、試合前の「想像野球」で「相手打線の並びや打者のタイプを見極めて、どう攻めるか具体的に考える」。試合が終われば「一球一球の配球と結果を思い出し、反省野球をする」。これが、翌日の糧になるという。このくだりを読んで、ここにあるのは科学者の思考様式そのものではないか、と僕は思った。物事を観察して仮説を立てる、その当否を確かめるために実験する、その結果を分析して仮説を修正する――。

 

 大打者ならではの説得力ある言葉も、この本には出てくる。「野球とは、『間』のスポーツだ」というのである。投手の手を離れた球が捕手に届くまでの時間は1秒足らず。打者は、瞬時に「球を見極めて判断しなくてはならない」。だから、攻撃時のベンチは「休憩する場所」ではない。「準備をする場所」なのだ。打順を待つ間、マウンド上の投手がどんなときにどう投げるかをしっかり「観察」する――その時間を著者は「間」と呼んでいる。

 

 監督時代の話もある。1976年、南海の監督兼選手だったころ、移籍してまもない名投手江夏豊が肩の故障で苦しんでいた。本人も「もう先発完投は無理だ」と打ち明けたという。そこで抑え役となるよう促すのだが、まだ「先発完投するピッチャーだけが評価された時代」だった。監督として言い渡した言葉は「お前、リリーフ分野で革命を起こしてみい」。江夏は承諾した。著者は、投手の分業が当たり前になる流れを見抜いていたのである。

 

 野村克也は、選手としても監督としても「考える人」だった。これは、明智光秀との共通点かもしれない。光秀は花を咲かせずに散ってしまったが、野村は見事に開花させた。月見草の美学を貫いて……。その人のファンでありつづけたことを僕は誇らしく思う。

(執筆撮影・尾関章、通算511回、2020年2月14日公開、同月15日更新)

 

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