『黒川能――1964年、黒川村の記憶』(船曳由美著、集英社)

写真》庄内風? 手前は地元産あさつき

 あの夕暮れは生涯忘れられない。1977年4月、新聞社に入って、初任地福井の土を踏む直前のことだ。特急列車が、福井市内を流れる足羽川を渡るころ、西空の陽光が斜めに車内へ射し込んだ。オレンジ色だが、どこか哀愁を帯びている。僕は心細かった。

 

 25歳。生まれてからずっと東京暮らしだった。入社試験の面接では、そこを突いてくる質問もあった。「入って数年は地方勤務だよ。やっていけるかなあ」。とりあえずは「その覚悟です」と答えたものの、そこで問答が打ち切られたので受かるまいと思った。ところが予想に反して、採用通知が届いたのだ。本当は「やっていけるかなあ」と脅えていたのは、だれよりも自分自身だった……。だから、北陸の薄暮がひときわ寂しく感じられたのだ。

 

 だが、それも一晩で吹っ飛んだ。翌朝からは警察回りの取材が始まって、慌ただしさのなかで心細さは雲散霧消した。それどころか、むしろ「地方」に心が躍るようになる。それを強く自覚したのは、2年目に郡部担当になったころだ。朝、ジープを駆って田園地帯に出る。水田が青々と広がっている。繊維工場からは織機の音が聞こえてくる。港町がある。城下町がある。温泉町も、門前町も。日々、東京にないものの発見つづきだった。

 

 とりわけ心惹かれたのは、九頭竜川河口の三国町(現・坂井市)。江戸時代、北前船の寄港地として栄えた歴史があるが、今はカニ漁や甘エビ漁などの水揚げ基地になっている。砂浜沿いにはラッキョウやスイカを栽培する農家があった。丘陵地では酪農も営まれていた。小さな町なのに多彩な顔がある。僕は20代半ばにして、大都市にはない小都市の魅力を知ったのである。(当欄2016年4月29日付「三国湊ノスタルジック街道をゆく」)

 

 で、今週の1冊は『黒川能――1964年、黒川村の記憶』(船曳由美著、集英社)。山形県庄内の黒川村(現・鶴岡市)に伝わる黒川能に光を当て、1964〜65年に現地に赴いて、その一部始終を活写したノンフィクション。著者は集英社の編集者として海外小説の大作を発刊してきたことで知られるが、その前は、平凡社の雑誌『太陽』編集部に在籍していた。この本は当時の取材の記憶を核にして、近年の状況も盛り込んでいる。

 

 最初にことわっておくと、著者は僕にとって近隣の人だ。存じあげる限り、少女時代からこの町におられた。どの町かは個人情報にわたるので書かないが、東京のふつうの住宅街。この本からも、東京っ子が目の当たりにした農村文化の迫力が伝わってくる。

 

 著者の横顔を、もう少し紹介しておこう。本書に綴られた個人史によれば、東京大学3年生のとき、1960年の安保闘争に遭遇する。「あれは西洋史の講義であったか、階段教室に先生が現れると、後からひらり、と小鳥のように一人の女子学生が入ってきた」。その人こそが、まもなく国会周辺の反安保抗議行動で犠牲となる樺美智子さんだった。彼女はデモへの参加を呼びかけ、岸信介内閣の打倒を訴えて教室を後にしたという。

 

 記述からは、著者も当時、反安保を掲げる進歩派に共感を覚えていたことがうかがえるが、興味のありかがちょっと違った。ゼミの指導教授とのやりとりで、今読んでいる本の話になったとき、同級生の多くはマルクスやマックス・ウェーバーらの名を挙げたが、著者は『ものいわぬ農民』(大牟羅良著、岩波新書、1958年刊)を挙げた。大牟羅が行商のかたわら、岩手の山あいで農業に勤しむ人々から囲炉裏端で聞いた話を集めた本である。

 

 東京っ子なのに、なぜ農村なのか。理由の一つに「世田谷の多摩川に近い郊外」で生まれたことが挙げられている。同郷の僕にはピンとくる。そのころ、東京・世田谷は畑が広がっていた。都心部から見れば近郷近在。東京には「まち」と「むら」が共存していたのだ。著者は、その「むら」に愛着があったのだろう。そして、「むら」が東京から消えつつあった時代、その原型を列島の津々浦々に求めたのが雑誌『太陽』だった。

 

 世の中が1964年の東京オリンピックを前に沸いていたころ、『太陽』初代編集長の谷川健一は「日本列島に息づいて暮らしている人間の実像に迫ることが、なによりも大事」を口癖にしていたという。著者は、それに応えるように企画を練る。五輪景気で東京には出稼ぎの男たちがあふれている。東北の村は年寄りと妻子だけが残されているはずだ。だが、ときに男たちも帰郷して「村をあげて」盛りあがる行事があるのではないか――。

 

 著者は、山形の詩人、真壁仁の作品を通じて黒川村の王祇祭、即ち黒川能の魅力を知る。これは2月初め、地元春日神社のご神体として「王祇様」を村内の民家に迎え入れ、旧暦新春の到来を祝う催しだ。1964年晩秋から、なんども現地に赴くことになった。

 

 その夜行列車の情景がいい。二等寝台に乗り合わせた上段の客は大荷物。風呂敷からクマのぬいぐるみや金髪のフランス人形がのぞく。おそらく、東京土産なのだろう。ラクダのシャツ姿になり、「東京では一日中、土の中にもぐっていてよー」。地下鉄の工事現場で働いているらしい。清酒の1合瓶を開けて、ちびりちびりとやりだした。秋田県の象潟に帰省するというが、黒川村にも祭りのころ、同じような男たちが集まって来るのだろう。

 

 ではいよいよ、著者の現地体験。ヤマ場の一つは、1965年2月1日夜から2日未明にかけ、神の宿となった民家2軒――当屋という――で演じられる能と狂言にある。ただ、あいにく僕は能楽の知識が乏しい。細部に踏み込まず、空気感だけをお伝えしよう。

 

 なんと言っても、この祭りは黒川村というトポスと切り離せない。5歳前後の稚児が唱える寿詞(よごと)には「東に月山高くさん」「南にてふてふつらなって」「西に青龍寺ががんとして」「北に鳥海まんまんと」とある。ここで、青龍寺の所在地は金峯山。わが村こそは四方の山に守られた「神の嘉(よみ)する地」という郷土礼讃だ。見渡せば山々に囲まれ、冬になれば雪に閉ざされる村だからこそ、これほど濃密な祭事が育ったのだろう。

 

 稚児たちが舞台上で足拍子を「タンタタタン」と踏んだり、腰に差した太刀を扇で打ち鳴らしながら駆けまわったり、という場面もある。ここで著者は、「二軒の当屋の舞台から稚児の足踏みが波紋のように広がって、黒川の大地にその霊力は届いた」「深い雪に埋もれた大地にいま眠っている種子や草木の芽は、その音で目覚め、春を村にもたらすのだ」と書く。子らの健やかさは、新年を雪深い里で迎える人々の春への期待感を体現している。

 

 ただ、そんな子どもたちも間違いなく、高度成長期の少年少女たちだった。当屋を訪れた小学生の男の子に母親が小言をいう。「ダメだぁ、帽子取らねば」。だが、その子は野球帽を脱がない。「いいでねえか、だだちゃの東京からのみやげかぁ、巨人(ジャイアンツ)だのう」と声がかかる。別の箇所では、赤い手袋をはずさない女の子の姿も。だだちゃ(父親)が上野発の夜行で運んでくる「東京」が、子ども心を魅了していたことがわかる。

 

 年寄りの存在感も大きい。壮年期は舞台で主役(シテ)を務めていた世代が今は長老となって地謡座に並び、「肩衣を着け背筋を張って坐し、声朗々と明け方まで謡いあげていく」。中座あり、交代ありではあるらしいが、8人が「十時間近く全曲を謡い通し」というのだから敬服する。その一方で、謡いのかたわら、ワキ座にいる子らの足のしびれを気づかう様子の描写には思わず微笑んだ。孫世代の世話も決して忘れていないのだ。

 

 老若男女が入り交じって盛りあがるのが、王祇祭に先だって当屋で繰り広げられる豆腐炙り。祭り当日にふるまう豆腐料理の下拵えだ。当屋の火炉を村人20〜30人が囲み、串に刺した豆腐を炉の縁に立てて炙る。これは、男女の出会いの場でもあるらしい。「夕暮れ近く、風の如く一人の女性が入ってきた」。ちょっと目礼して炉端へ。「サッと男が一人追いかけてきて隣りに坐ると、しきりに話しかける」……。美しくも切ない場面である。

 

 東京の喧騒の陰で「地方」にはこんな豊かな世界があった。それは、五輪のように突然、誘致されたものではない。来る年も来る年も繰り返され、受け継がれてゆく暮らしとともにある。著者は後段で、その春夏秋冬も描いている。ということで、次回もまたこの本を。

(執筆撮影・尾関章、通算512回、2020年2月21日公開)

 

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