『黒川能――1964年、黒川村の記憶』(船曳由美著、集英社)

写真》山形の米

 当欄前回のまくらで書いた福井の思い出を、今週ももう一度。先週は、記者2年生のころを振り返って「朝、ジープを駆って田園地帯に出る。水田が青々と広がっている」と書いた。だが、あとで気になったことがある。あれは、福井本来の風景だったのか――。

 

 1970年代の後半、僕がいた新聞社の福井支局では、新人が1年目の警察回りを終えると郡部担当になるしきたりだった。県内数カ所にはベテランの駐在記者がいるから、県域すべてを回るわけではない。県都・福井市周辺の町村を受けもたされたのだ。主な取材先は福井市北方の坂井郡。港町の三国、城下町の丸岡、温泉町の芦原など個性豊かな6町が肩を寄せあっていた。今は平成の大合併で、坂井市とあわら市に集約されてしまったが……。

 

 郡の真ん中には坂井平野が広がっている。僕が青々とした水田に心躍らせたのは、そこを走り抜けていたときだ。ジープは風通しが良いので、田んぼの水を撫でた風が運転席にも吹き込んでくる。都会育ちの青年は、これこそが農村なのだと思ってしまった。

 

 だがこれが、北陸農村部の原風景だとは到底言えない。僕がよく通った道は通称「嶺北縦貫道」。文字通り、まっすぐ延びていた。道路計画の詳しいいきさつは知らないが、マイカー時代の到来を受けて整備されたものであることは間違いない。今回、ネット検索で福井県文書館のウェブサイトに入ると、「嶺北縦貫道路(工事)」という写真が館に保存されているようだ。日付は「昭和47..16」。1972年。高度成長が極まったころである。

 

 そうだ。あの道は、もともとはなかったのだ。農村には、在所と呼ばれる集落が散らばっていた。それに寄り添うように鎮守の森もあった。人々は街道を行き交うか、畦道をとぼとぼ歩くだけだった。クルマで通り抜けてゆく闖入者などいなかったのだ。ところが、その原風景を縦貫道が貫いた。周りには福井空港。そして、半導体工場。まるで都会派のユーミン(荒井〈松任谷〉由実)が歌う「中央フリーウェイ」のように……。

 

 農村は変わった。高度成長によって変わったのだ。だから僕は、それ以前の農村を知らない。この一点は、忘れてはいけないと思う。今回、『黒川能――1964年、黒川村の記憶』(船曳由美著、集英社)を読んで、そう自戒した。この本に描かれた農村は、高度成長のために出稼ぎの人々を大都会に送りだしているが、村のありようは昔のまま。変容寸前だったのだ。だから、貴重な証言となっている。で、今週も、この同じ本を読む。

 

 1964〜65年に見たものが風前の灯火だったことは、著者も心得ている。たとえば、稲刈り後の田んぼを描いたくだり。「稲におが、人の立姿のように、何十本と田に整然と並んでいるさまは、この世で人の営みが作り上げた最も美しい光景の一つではなかろうか」と讃えて、こう続ける。「黒川のこの浄土のような風景は、十年も経たないうちにまったく消えてしまった」。ここで「稲にお」とは、刈った稲を円錐状に積み重ねたものをいう。

 

 代わって見えてきたのは「農地の基盤整備で一枚一反という田が格子状に広がる風景」だ。「スーパー農道が三本も出来、大型の農業機械が入る。ハーヴェスタが音を立てて唸り声を上げると、黄金の稲はたちまち刈り取られ、同時に稲籾の脱穀もされる」。田んぼが規格化され、収穫作業の一切をやってのける農業機械コンバインド・ハーヴェスタ(コンバイン)が広まったのだ。これを読んで僕は、縦貫道沿いののっぺりとした景色を思いだした。

 

 日本では、あのころから農村に中核農家を育て、一戸当たりの耕地面積をふやして農業の生産効率を高めようという方向性が強まっていた。それは「農地の基盤整備」や「大型の農業機械」に象徴される。その裏返しで昔ながらの農村文化が追い払われようとしていた。

 

 では、前週の予告通り、この本が紡ぎだす黒川村の四季を追いかけていこう。「王祇祭が終わった。さあ、日常の暮らしに戻らねばならない」で始まる一節に出てくるのは、雪の話だ。急を要するのは、家屋の雪下ろし。男たちが屋根の雪を「掘るように」搔きだし、投げ落とす。たちまち、家は雪の山に囲まれるから、それを越えられるように階段を刻む。ときには、高くなった山を切り崩して、その雪を用水路へ流すこともあった。

 

 それが済むと、もう農業の営みが始まる。雪に覆われた田んぼに「いくつもの真っ黒な小山」が出現する。「見ると、男たちが二人掛かりで何かを運んでいる」。橇に積まれているのは、村人たちが丹精込めてつくった堆肥だった。材料は、牛小屋や馬小屋に敷かれた藁。そこには牛馬の糞がしみ込んでいる。さらに落ち葉、生ごみ、米糠、そして下肥。その調合に自然界の循環がしっかり組み込まれている。エコロジーの原型である。

 

 そして三月、雪解けを待っていたかのように、村は婚礼の季節を迎える。背景には「春の農作業が始まる前に、この大事(おおごと)をすませたい」という農村ならではの事情があり、新婦を迎える側の家族には「春先からの農事の働き手が一日でも早く来るのがいい」という思惑もあった。結婚は、農の営みに根ざしていたのである。だが、そこにも時代の波は押し寄せる。「この頃、農村ではヨメ不足が問題になり出していた」と著者は記す。

 

 五月には田植え。「一軒の田植が終わると、明日はつぎの一軒に移る。大勢が集まって楽しいのが田植の結である。昼飯も小昼(コビル)もみんなで畦に坐って食べる」。ここで改めて教えられるのは、農作業には共同体が進める事業という一面があったことだ。ところが数年たつと、この光景は見られなくなる。田植えも草取りも機械を使った一人仕事となり、作業をてきぱき済ませると「また東京へ出稼ぎに戻る」人たちが出てきたという。

 

 夏はお盆。その一節では、意外なことに成人式会場の情景が描かれる。黒川村では、1月、即ち旧暦の年の瀬は王祇祭の支度で忙しい。どこの家族も「男たちの紋付や袴の心配はしても娘の晴れ着など思い浮かびもしない」。そこで、東京の工場などに就職した若者たちが盆休みの里帰りで戻ってくる機会に成人式が開かれるようになったのだ。なにごとも、まず王祇祭ありきで物事が決まっていく。風土に根ざした歳時記が、ここにはある。

 

 そして、いよいよ秋祭り。これは、字(あざ)ごとにそれぞれの氏神を祀る神社で次々開かれてゆくという。ここで著者がもちだすのが、「内場(うちば)」だ。近隣に住む10戸足らずの小さな共同体、血縁ではなく地縁の集団を指す言葉らしい。秋祭りでは、この内場が結束を強める。これこそが、新春の王祇祭を支える土台になる。王祇を迎え入れる家、即ち当屋は、内場の仲間たちの支援があるからこそ大役を果たせるのだ。

 

 黒川村では、季節が王祇祭、即ち黒川能を中心に回っている。同じことは、村人の人生についても言えそうだ。前回の当欄では、この本の記述から、子どもたちが能舞台で元気に足踏みする姿や、年長者が夜通し朗々と謡いあげる様子を切りだした。黒川能に、それぞれの年齢層に割り当てられた役回りがあることを伝えたかったからだ。著者が、この村には「年代ごとにつねに場があり、役割がある」と書くとき、それは能にとどまらない。

 

 黒川村では、家庭を営むこと、生計を立てること、地域に貢献すること――それらのすべてで、若者には若者の、壮年には壮年の、年寄りには年寄りの役目が期待されている。その構図が凝縮されているという一点で、黒川能はただの伝統芸能ではないのである。

 

 最後に、この本はIT(情報技術)世代にこそ読んでほしい、と僕は思う。ネットワーク技術は世の中をひと色に染める力があるので、地域の伝承を一掃しそうな気がする。だが、情報の流れを逆転させたらどうか。まず、伝承を蘇らせる。その一部始終をネットで発信する。さながら、著者船曳由美さんのように……。そこに立ち現れるのは、いくつもの文化が並び立つ世界だ。ITがあるのに、ネットがあるのに、今の僕たちは貧しすぎる。

(執筆撮影・尾関章、通算513回、2020年2月28日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

■各編は原則として毎週金曜日に公開します。

■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

■通算回数は前身のブック・アサヒ・コム「文理悠々」の本数を含みます。

■「文理悠々」のバックナンバー検索はこちらから

コメント
コメントする