『絢爛たる醜聞 岸信介伝』(工藤美代子著、幻冬舎文庫)

 2年前の夏のことだ。僕は箱根からの帰り、御殿場の旧岸信介邸に立ち寄った。岸は1957年から3年間、首相を務めた政治家。60年には激しい反対運動が渦巻くなかで、日米安保条約の改定を押し切った。僕が物心ついて初めて名前を覚えた総理大臣である。
 
 旧岸邸は元首相にとって最晩年の住まい。69年、数寄屋造りを現代に蘇らせたとされる建築家吉田五十八の設計で建てられた。没後に御殿場市に寄贈され、いまは和菓子店のグループ企業が管理して公開されている。邸内に入って強く印象に残ったのは、そのすっきりとしたモダニズムだ。広々として無用な飾りを排した居間、そして食堂。その大きな食卓の片隅で、老政治家はひとり朝食をとっていたという。
 
 この元首相は、「妖怪」と呼ばれることが多い。日米開戦時の閣僚。戦後はA級戦犯の容疑をかけられ、起訴には至らなかったが3年間を巣鴨の拘置所で過ごす。出所後8年余で政権トップに躍り出た。たしかに「怪物」には違いない。だが、それだけではないだろう。彼は、時代が求める才覚をもち合わせていたのではないか。モダニズムのなかの孤独――その姿を思い浮かべると、そんな想念が湧いてくる。
 
 で、今週は『絢爛(けんらん)たる醜聞 岸信介伝』(工藤美代子著、幻冬舎文庫)。著者は、僕とほぼ同世代のノンフィクション作家。読み応えのある人物伝を書いてきた人だ。この本の単行本が出たのは2012年。書名は『絢爛たる悪運 岸信介伝』だった。今年8月の文庫化で、「悪運」は「醜聞」に変わった。「悪運」の強さを描き、「醜聞」の謎を残しながらも、日本現代史に占める岸の存在感の大きさを浮かびあがらせている。
 
 この本をとりあげるのは、右寄りの「右」についてじっくり考えたいからだ。いま日本社会では、かつて右寄りと言われた言説が世間の真ん中あたりに来ている。その右シフトに僕は強い違和感を覚えるが、それを嘆く前に真面目に向きあってみようと思うのだ。
 
 右寄りと言えば、ナショナリズム、新自由主義、市場万能論といった言葉が思い浮かぶ。それらは同じ方向を向いているようで実はそうではない。この本は、その思考の整理にヒントを与えてくれる。岸信介という右派中の右派とされる人物が、日本社会をどう設計しようとしてきたのか。彼の足跡をたどると、自分は右派だ、左派だという自己規定から発した論争が空疎でばかばかしいものに思えてくる。
 
 この視点に立つと、岸が戦前、東大を出て農商務省、商工省の官僚として過ごしていた時代の話がもっとも興味深い。著者によれば、彼は「ことあるごとに統制経済の重要性と市場経済の行き過ぎを批判していた」。会議では「放漫なる自由主義経済というのはね、弱肉強食、つまり力で勝手にやれというシステムなんですよ」といった発言を繰り返し、経済には「一種の計画性」や「おのずと越えてはならない制約」が必要と訴えていたという。
 
 それをもっとも端的に言い表した本人の肉声も引用されている。「私は国体とか天皇制の維持は考える」が、「私有財産制を現在のまま認めなければならないとは思っていなかった」というひと言だ(『岸信介証言録』=原彬久編、毎日新聞社)。背景には、当時、青年たちの心を惹きつけ、2・26事件の理論的支柱となった国家社会主義者北一輝の思想もあった。それが、官界に統制志向の「革新官僚」群を生んだのである。
 
 岸は1936(昭和11)年、満州国実業部(後に産業部)の官僚として大陸に渡る。そこで、この思想の具現化に力を尽くすことになった。現地では、すでに「満州産業開発五ヵ年計画」がまとまっており、その実現を委ねられたのである。それはちょうど、新生社会主義国家のソ連がスターリン体制のもとで計画経済を推し進め、5カ年計画の第1次を完了して、第2次の途上にあった時期にあたる。
 
 岸自身、自らは立案の中心にいなかったとしながら「計画はソ連のまねです。あの構想そのものの基底をなしているのはソ連から学んでいる」とあっけらかんと言い放っている(著者が『岸信介の回想』=岸信介、矢次一夫、伊藤隆著、文藝春秋=から引用)。「陸軍が仮想敵国をまだソ連に据えていた時期で、その経済計画がそっくり社会主義的であったことは、昭和の歴史を考える上で極めて重要なポイント」とみる著者の分析に僕も同感だ。
 
 岸は39(昭和14)年、内地に戻る。「刮目(かつもく)すべき業績を残し」「『満州は私が描いた作品』と記者団に豪語しながら」の帰還だった。すぐに商工次官となる。40(昭和15)年には、関西財界人で「自由主義経済の旗手」の小林一三が商工相に就任。当然、二人は相容れない。岸が企画院の官僚らと産業統制志向の「経済新体制確立要綱」案をまとめると、小林は「岸の企画案はアカである」と断じる。結局は次官を辞任した。
 
 この本には、その後日談もある。「自由主義経済の聖域を死守した小林一三は、十六年に入ると間もなく、企画院内部の大掃除に入った」。くだんの「要綱」が「小林商工相をはじめ、財界から共産主義思想の産物として攻撃され、治安維持法違反容疑で多くの検挙者が企画院内部から出た」のである。そのなかに和田博雄、勝間田清一といった戦後世代には社会党左派の政治家として記憶される人々がいたことも言い添えておこう。
 
 ここでは、ナショナリズムと自由主義経済という同じ右寄りのはずのベクトルが角突きあわせている。自由主義者が本来のリベラリズムを忘れ、結果として思想弾圧をする側に回ったこと――その倒錯の構図からは、右寄り保守思想の尊重する「自由」が個々人ではなく、国家経済を支える資本のためのものだったというひずんだ現実がみてとれる。そこに、日本社会の「右」の混迷がある。
 
 そして、経済統制が国家のために企てられたことは「右」だけでなく、「左」のありようもゆがめた。ソ連の計画経済では、建前として「労働者のため」と「国家のため」という二つの柱が同居していたが、日本には後者ばかりが入り込んだと言えないか。その結果として、戦後日本の左派に西欧社民や米国リベラリズムを貫く弱者擁護の精神が育たず、自前の視点で公正な社会をデザインする試みが広がらなかったように思う。
 
 と、ここまで書いて、この本の本来の魅力を語っていないことに気づいた。岸信介という人物が隠しもっていた人間味である。たとえば、岸には官僚になっても政治家になっても心に淀む「悔恨」があった。小学生のころ、貧しい家の子の帯をとりあげて捨てたことがあるというのだ。「小学校時代に犯した私の罪の最大なるものと言ってよい」(著者が『我が青春――生い立ちの記 思い出の記』=岸信介著、廣済堂出版=から引用)と打ち明けている。
 
 驚くのは後年、自らがいじめた子と再会して後悔の念を伝えていることだ。その人は、京都の寺で住職となり、「岸総理大臣」の思い出を自民党の国会議員にもらしていた。「何十年振りかで親しく会い、懺悔話をした」(著者が同書から引用)という。
 
 たぶん、岸は心の底で「放漫なる自由主義経済というのはね、弱肉強食なんですよ」とほんとうに信じていたのだろう。その信念が、すぐさま国家本位の社会像と結びついてしまうところが日本の政官界エリートの限界だったのかもしれない。
 
 いま岸信介の孫である安倍晋三首相のアベノミクスをみていると、成長戦略を掲げて強い国家をめざす思考回路は間違いなく受け継がれている。その一方で、弱肉強食の格差社会をなんとかしようという意気込みが僕にはあまり感じとれないのだが、どうだろうか。
 
写真》祖父から孫へ。その思想のどこが同じで、どこが違うのか。手前は、朝日新聞2014年9月30日付朝刊紙面から=尾関章撮影
(通算232回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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