『新実存主義』(マルクス・ガブリエル、廣瀬覚訳、岩波新書)

写真》在でなく存、内でなく外

 大人になろうとするころ、僕の意識にどこからか舞い込んできた言葉に「実存主義」がある。いつだったかは思い出せない。だが、その語感になんとなく好感を抱いたことは覚えている。これから生きていくことに対する不安を軽減してくれそうな気がしたのだ。

 

 これには、1960年代の論壇状況が深く関係している。たいていの論調は、右か左か、保守派か進歩派か、という座標軸で位置づけることができた。この物差しは、政治経済の文脈では自由主義対社会主義に対応する。ただ、僕のようなへそ曲がりの少年には、そのどちらにも与したくないという思いがあった。あのころの実存主義は、左がかっているように見えてもゴリゴリの社会主義とは距離を置いていて、共感しやすかったのだ。

 

 字面の妙もあった。「実存」は、英語ではexistence(存在)だ。「実存主義」はexistentialism。これを、存在主義と訳さなかった先哲の言語感覚には脱帽する(日本版ウィキペディア=2020年2月21日最終更新=によれば、命名者は九鬼周造という)。実存主義は、実在論(realism)とは違う。主題は、モノが在ることではない。人が存在することにある。「実存」の二文字で、僕たちはその含意をうっすらと感じとっていた。

 

 もう少し、言葉にこだわってみよう。気になるのは、existenceの接頭辞exだ。「外へ」という感じか。哲学の常として興味の向かう先は人間の内面のはずだが、ここには外向きの志向性もある。邦訳「実存」は、その側面とも響きあっているのではないか。

 

 改めて思い返すと、1960年代は唯物論の優位が顕著だったように思う。これは、政治座標軸の左右を問わない。左の背後には、マルクス主義の唯物史観が控えているのだから当然だ。ところが、右にもモノ志向が強まっていたように僕は思う。とりわけ日本社会は高度経済成長まっしぐらのころで、大量生産が合い言葉だった。僕たちは、物質世界を無視できなかったのだ。世を挙げて、内にこもってはいられない心境にあったと言ってよい。

 

 ただ、当時の僕は実存主義に心惹かれるだけで、それを習得していたとまでは言えない。ジャン=ポール・サルトルの『嘔吐』やアルベール・カミュの『異邦人』を読みかじって空気感を味わったものの、それ以上は進まなかった。とくにカミュ自身は実存主義に批判的だったから、頭は混乱するばかりだった。(当欄2018年8月10日付「異邦人ムルソーのママンとは何か」、当欄同年11月30日付「いいねばかりの時代の不条理考」)

 

 だからもう一度、実存主義の本をきちんと読みたい、という思いが僕には強い。同世代には、そういう人が少なくないだろう。ここで心にとめておきたいのは、思想状況が大きく変わってしまったことだ。左右の座標軸はとうに消えかかっている。旧来の社会主義はすっかり色褪せてしまった。唯物論も、モノ志向も、かつてほどの勢いがない。物質よりも情報、モノよりもコトの時代である。そんなときに実存主義はどういう意味をもつのか。

 

 で、今週は、そんな問いに答えてくれそうな1冊。『新実存主義』(マルクス・ガブリエル、廣瀬覚訳、岩波新書)。「ガブリエル著」としていないのは脱字ではない。「著」は表紙にも奥付にも見当たらない。理由は、著作権表示を見ればわかる。原題にby Markus Gabrielと添えられてはいる。だが各章には、それぞれ著作権を主張する筆者がいる。この本は、それらの論考をジョスラン・マクリュールという序論執筆者が編みあげたものだ。

 

 ガブリエルは1980年生まれ、現在、ドイツ・ボン大学で教授を務める哲学者。この本では、第1章「新実存主義――自然主義の失敗のあとで人間の心をどう考えるか」(この章題が本書全体の原題)で持論を展開、第2〜4章でカナダ、フランス、ドイツの学究に論評を委ね、第章で返信風の論考を執筆している。原著は2018年、邦訳は20年1月刊。当欄は第1章と第5章を紹介するので、ガブリエルを「著者」と呼ぶことにする。

 

 第1章の冒頭で書かれているのは、心を脳との関係でどうとらえるか、ということだ。この問いに、「実存」の文脈で光が当てられたのである。旧来の実存主義が華やかだったころと比べ、脳研究が進んだからこその新機軸だろう。生物学では、脳生理学が進んだ。情報科学では神経回路網(ニューラルネットワーク)の理論が生まれた。今や、脳の働きは人工知能(AI)に代行されようとしている。ところが、心は未解明ではないか?

 

 著者によれば、新実存主義の「心」観は単純ではない。「『心』という、突き詰めてみれば乱雑そのものというしかない包括的用語に対応する、一個の現象や実在などありはしない」と考えるのだ。意識がある、警戒する、知性がある……といった「心的語彙」は、人間の「特異なあり方」を説明する語群にほかならない。「特異」とは「物理法則が支配する無生物」とも「生物学的パラメータによって突き動かされる動物」とも違うことを指している。

 

 これでは埒が明かないな、と戸惑っていると、著者は救いの手を伸ばしてくれる。「心的語彙には、それを取りまとめる不変の統一構造がある」として、「精神(ガイスト)」という用語を引っぱり出してくるのだ。それは「雑多で、多様な変化をみせる心的語彙の背景にある不変なものを説明する」。このあとに「精神は、長い歴史のなかで、人間と人間以外のものの区別をいろんなやり方で理解しようとしてきた」という記述にも出会う。

 

 ここで、「不変」という言葉に惑わされてはならない。著者によれば、精神が人間の行為の説明に一役買うとき、「歴史的に変転していく人間観」が参照されることがあるという。精神という枠組みは変わらないが、人間観は歴史軸のなかで変わるということだ。

 

 著者は、この視点に立って人間と自然界の事物(この本では「自然種」と呼ばれる)とを対比する。素粒子の世界にはフェルミオンと呼ばれる粒子群がある。それらは、粒子に具わるスピンという数値が1/2のような半整数になることで特徴づけられる。著者が指摘するのは、フェルミオンのスピンは「われわれの知識が正しいか誤っているかにかかわらず、現にある通りのもの」ということだ。自然種のありようは、人が誤認しても揺るがない。 

 

 この本の原題に「自然主義の失敗」とあるが、その「自然主義」は自然種還元論と読みかえてもよさそうだ。著者は、新実存主義が心と脳の問題に「正面から」向きあっていることを強調して、こう言う。「何千年ものあいだ志向的スタンスで記述されてきた現象、われわれが心のなかで起きるその経験を記録してきた現象が、自然のなかにその等価物を見つけることで、あますところなく理論的に統一できるなどと期待すべきではない」

 

 著者は、今日の「自然主義」の落とし穴も洗いだしている。それは、英国の医師レイモンド・タリスの論法にならって「ニューロン熱」と「ダーウィン炎」と称される。著者によれば、前者は「脳」または「神経回路」を「洗練した心的語彙に対応する自然種」とみることであり、後者は「人間のあらゆる行動」を「進化生物学や進化心理学」の立場から説明づけようとすることだ。これら二つは、互いに「関連する病気」であると位置づけている。

 

 新実存主義は旧来の実存主義の後、自然科学がたどった軌跡の難所を的確に見抜いている。それは、「ニューロン熱」をもたらした脳生理学と情報科学にとどまらない。分子生物学も視野に入ってくる。チンパンジーとヒトの違いがDNAレベルではごくわずかだという知見は「ダーウィン炎」と無縁ではない。著者がそうした人間観に対置するのが、人は歴史のなかで「志向的」という事実だ。僕たちは時間とともに変化する存在なのである。

 

 この本で著者は、心と脳をサイクリングと自転車になぞらえている。自転車はサイクリングにとって必要条件だ。だが、自転車とサイクリングは同じものとは言えず、そこに原因と結果の関係もない。「サイクリングは理論的、存在論的に自転車に還元できない」のだ。

 

 後段で著者は、旧来の実存主義から「人間とは、自己理解に照らしてみずからのあり方を変えることで、自己を決定するもの」という見方を引き継ぐことを明らかにしている。人は自分を変えるから人なのだ、そこが自然界の事物とは違うのだ――そう僕は理解した。

(執筆撮影・尾関章、通算517回、2020年3月27日公開)

 

《お知らせ》ちょっと休んで、新装開店します

 当欄は、私が新聞社に在籍中の2010年4月、記者ブログとして始めた「本読みナビ」を原点としています。以来、「文理悠々」(ブック・アサヒ・コム、2012年〜)、「本読み by chance」(個人ブログ、2014年〜)と看板をかえつつ、1週1冊のペースで読書の醍醐味を綴ってきました。今年4月、満10歳の誕生日を迎えることになります。

 さて、この機会に私は、当欄の大幅改装を決意しました。要点は、以下の二つ。

1)ブログの自前度を高める

2)ブログの自由度を高める

 1)については、新装ブログをWordPressで開設しようと考えています。これまではJUGEMのお世話になってきたのですが、これからはできる限り、自力で設計してゆくつもり。すでに着工していますが、ときにはコンピューター向けの人工言語世界にも踏み込まなくてはならないので、試行錯誤の連続です(「建設現場」の現況をご覧になりたい方は、こちらへ)。

 ということで、2〜3週の休業をお許しいただき、4月中の開店をめざします。

 2)については、再開時にその思いを語るつもり。

 これからも、ご愛読いただければ幸いです。

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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