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『TVピープル』(村上春樹著、文春文庫)

 ノーベル賞シーズンには村上春樹本のことを書く。それが僕の年中行事になっている。この作家に賞をとってほしいという期待が毎年膨らみ、毎年裏切られてきたということだ。今年もまたそうだった。科学記者の本拠地とも言える物理学賞で日本人研究者3人の受賞が決まったばかりなので、本来ならばそのことを語るべきだろう。だがこの欄で優先すべきは、やっぱり村上春樹だ。
 
 どうして僕のイチオシが村上春樹なのか。その理由は去年、打ち明けた。それは「普通がいい」のひと言に尽きる。「科学記者としてノーベル賞に向き合ってきた。そこで見たのは偉大なる知である」「だが、村上春樹はちょっと違う。誤解を恐れずに言えば、受賞すれば日本初の『普通の人』のノーベル賞ということになる」(「文理悠々」2013年10月15日付「残念、でも村上春樹の『普通』がいい」)
 
 「なにを不遜な」という信奉者がいるかもしれない。だが、「普通」の感覚をもって「普通」の人々を描くということは「普通」の力量ではできない。「普通」の人でありながら「普通」でない力量を発揮してきたのが、この人のスゴイところではないか。
 
 該博な知をもとに知識人の目で世事を見渡す作家はいる。今風に言えば「上から目線」だ。一方、地を這う目で権力をにらむ作家もいる。あえて言えば「下から目線」か。「上から」「下から」の立ち位置は作家の個人史にしたがっておのずと決まることもあるが、意図してどちらかが選ばれることもある。いずれにしても、針は振り切れがちだ。作家にとって「普通目線」でいることはとても難しいに違いない。
 
 で、今年僕が選んだのは『TVピープル』(村上春樹著、文春文庫)という短編集。雑誌表題作など6編が収められている。初出は1989年に雑誌に載ったものが4編、書き下ろしが2編。単行本が90年に文藝春秋社から出て、93年に文庫化された。過半の所収作品が、超常的もしくはそれと紙一重の奇想天外な出来事をはらんでいる。だが、そうでありながら、イントロに「普通」が用意されているものが多い。
 
 表題作は、電機会社の広報宣伝部に勤めるサラリーマンの話。題名にある「TVピープル」は、不可解な集団だ。主人公が家にひとりでいるとき、頼みもしないのにテレビを運び込み、据えつけていく。主人公の存在などまったく意に介さず、黙々と働き、作業を終えると消え去った。おもしろいことに、出かけていた妻が帰ってきても、そのテレビについて何も言わない。彼らは部屋のものを勝手に動かしていったが、そのことにも無反応だ。
 
 彼らの体格は「まるで縮小コピーをとって作ったみたいに、何もかもが実に機械的に規則的に小さい」。このあたりの描写を読むと、テレビの向こう側の世界が僕たちの意識にしみ込み、もう一つの現実をつくりだしていることの寓意かな、ともとれるが、この作品をどう読むかは読み手の感性に委ねられている。それよりも僕を惹きつけるのは「TVピープルが僕の部屋にやってきたのは日曜日の夕方だった」という冒頭の一文だ。
 
 主人公は「重要なのはそれが日曜日の夕方であったということだ」「僕は日曜日の夕方という時刻を好まない。というか、それに付随するあらゆるもの――要するに日曜日の夕方的状況というものを好まない」と打ち明け、TVピープルはそこを狙って襲来したとみる。
 
 主人公の日曜日はこうだ。「朝には何もかもがうまくいきそうに感じられる。今日はこの本を読んで、このレコードを聴いて、手紙の返事を書こうと思う。今日こそ机の引き出しをかたづけて、必要な買い物をして、久し振りに車を洗おうと思う。でも時計が二時をまわり三時をまわり、だんだん夕方が近づくにつれて、何もかもが駄目になっていく」。勤め人の休日の心理を見事に言い当てているではないか。著者の「普通」感覚がここにある。
 
 『眠り』という作品は、17日間も眠らないでいる女性の話だ。夫は歯科医、車で約10分のところに診療所があるので、昼休みは家で過ごし、診療後もふつうは7時前に帰ってくる。夕食は息子を交えて3人でとり、会話もはずむ。「トラブルの影ひとつない」家庭である。それなのに、彼女はどうして覚醒の日々を送ることになったのか。その本筋に入るまえのところで、おもしろい話がはめ込まれている。
 
 それは夫の顔をめぐる考察だ。「彼の顔の不思議さを、私はうまく言葉で説明することができない。もちろんハンサムではないが、かといって醜男(ぶおとこ)というのでもない。いわゆる味のある顔というのでもない。正直に言って、ただ〈不思議〉としか表現のしようがないのだ」。そして彼女は「夫の顔を捉えがたくしている何かの要素」を「把握できていない」ことに気づく。
 
 彼女は、かつて夫の顔を描こうとしたことがあった。だが、「鉛筆を手にして紙に向かうと、夫がどういう顔をしていたかまったく思い出せなかった」という。朝も昼も夜も同じ時間を共有しながら、それでも互いの顔の本質をつかめないという夫婦間の深淵がのぞく。
 
 それなのに、この夫婦には二人だけに通じる冗談があった。診療所が繁盛していることが話題になったとき、妻が「たぶんあなたがハンサムだから患者が押し寄せてくるんじゃないかしら」と言い、夫が「僕がハンサムなのは僕の罪じゃない」と返すやりとりだ。
 
 「私たちはそんな冗談をかわすことによって、いわば事実を確認しあっているのだ。私たちもこうして何とか生き残ったのだという事実を。そしてそれは私たちにとってはけっこう重要な儀式なのだ」。ここにも、「普通」の夫婦の「普通」の日常がある。
 
 この短編集で、一つだけ異質なのは「我らの時代のフォークロア――高度資本主義前史」だ。書き出しに「これは実話であり、それと同時に寓話である」とあり、本文中でも「実在の人物に迷惑がかからないように意図的に(でも話の筋にまったく支障のない程度に)事実を作りかえた部分もある」とことわっている。個別の話としてはフィクションとみてほしいが、同様のことはたしかにリアルにあった、ということだろう。
 
 登場するのは1960年代、高校、大学時代を通じて4年ほどつきあい、セックスの一歩手前で踏みとどまっていた優等生男女。その男の告白を元同級生の「僕」が聞くという筋立てになっている。この作品では、導入部にある時代状況の分析が興味深い。
 
 「今になって思うのだけれど、僕らの世代の女の子の多く(中間派と言ってもいいだろう)は、結果的に処女であったにせよなかったにせよ、内心あれこれと迷っていたのではないかと思う。今更処女性が大事だという風にも思えないし、かといってそんなもの意味ないわよ、バカみたい、とも断言できなかったのだと思う。だからあとは要するに――ありていに言ってしまえば――成り行きの問題だったのだ」
 
 と、ここまでは同世代の異性の心のうちを過去にさかのぼって推し量っているだけだ。だがこのあとに出てくる言葉は、ずしんと心に響く。「いつの時代でもそうなのだけれど、いろんな人間がいて、いろんな価値観があった。でも一九六〇年代が近接する他の年代と異なっているところは、このまま時代をうまく進行させていけば、そういう価値観の違いをいつか埋めることができるだろうと我々が確信していたことだった」
 
 そうだ、あのころ僕たちは、既成の価値観は塗りかえられると信じていた。それが「普通」の若者の「普通」の感じ方だった。その後、男女の関係性に対する人々の意識はたしかに変わったが、それ以外はどうだろう。村上春樹を読みながら、そう問いたくなる。
 
写真》今年のノーベル文学賞受賞者はフランスのパトリック・モディアノ。この作家の作品も近々、当欄でとりあげてみたい。手前の紙面は、朝日新聞2014年10月10日付朝刊=尾関章撮影
(通算233回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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