『社会的共通資本』(宇沢弘文著、岩波新書)

 経済学者の宇沢弘文さんが亡くなったのは先月のことだ。僕のように経済学とは縁遠い者でも心にぽっかり穴が空いた気がする。同時代人として「自動車の社会的費用」という言葉に強い影響を受けたからだろう。金銭だけで人間を語るな、という思想がそこにはある。
 
 宇沢さんの『自動車の社会的費用』(岩波新書)が世に出たのは1974年。僕はまだ学生だった。あのころの論壇では、「マル経」すなわちマルクス主義経済学が幅を利かせていた。「近経」すなわち近代経済学の学者と言うと、先ず政府の審議会が思い浮んだものだ。そんな固定観念に待ったをかけたのが、この新書本だった。マルキシズムの「マ」の字もなしに、当時の世情に物申したのである。
 
 学生時代、僕はマルキシズムにかぶれてはいなかったが、この本を開かなかった。その意義の大きさに気づいたのは、新聞記者になってからだ。事件が起こったとき、当事者の悪行、過失だけに目を奪われず、背景の要因を掘り起こすことを僕たち世代の記者は心がけた。すぐに思いつくのは、資本対労働というマルキシズムの構図だ。だが、それでは説明のつかない矛盾が世の中にはあふれていた。そんな現実を読み解いてくれたのが宇沢経済学だ。
 
 さて僕は宇沢さんの訃報を知って、彼の本が無性に読みたくなった。世間には、同じような気持ちに襲われた人が少なくなかったのだろう。ネット通販大手のサイトを開いて本を探すと、新品が売り切れていたり中古本が高く値づけされていたりという現象が起こっていた。去った人を追うようにその著書を読む、というのは決して誇れる話ではない。だが、死者の記憶をこの世にとどめたいという衝動の表れとは言えるだろう。
 
 僕はこの欄で先々週、日本の左派はソ連型社会主義の「国家のため」ばかりに気をとられて「労働者のため」を忘れていたのではないかと問い、戦後になっても「西欧社民や米国リベラリズムを貫く弱者擁護の精神が育たず、自前の視点で公正な社会をデザインする試みが広がらなかったように思う」と書いた(2014年10月3日付「岸信介で右寄りの『右』を知る」)。だが皮肉にも、マル経と離れたところに「弱者擁護」の精神があった。そのことは、ここに書きとどめなければなるまい。
 
 で、今週の一冊は『社会的共通資本』(宇沢弘文著、岩波新書)。2000年に刊行された。当時絶頂期にあった市場万能論に異を唱える書となっている。『自動車の……』が公害多発の世に警告を発したのと同じように、この本もまた時宜にかなっていた。
 
 著者によれば、社会的共通資本は「自然環境、社会的インフラストラクチャー、制度資本の三つの大きな範疇にわけて考えることができる」。自然環境は大気、水、森、土など、社会的インフラは暮らしの命綱となる交通システム、上下水道、電気、ガスなど、制度は教育、医療、金融などだ。三つを総覧すると「広い意味での環境を意味する」。経済活動の舞台として「社会的共通資本のネットワーク」があるという考え方だ。
 
 この本を通じてもっとも強く感じとれるのは、社会的共通資本の管理や運営は「市場的基準にしたがっておこなわれるものではない」という著者の主張だ。扱う対象が経済活動そのものではなく、その「環境」なのだから当然と言えば当然だろう。
 
 そこで真っ先にとりあげられるのは農業だ。それは「大規模な自然破壊をともなうことなく、自然に生存する生物との直接的な関わりを通じて」進められる。しかも「おおむね、各人それぞれの主体的意志にもとづいて、生産計画をたて、実行に移すことができる」。その営みは「自然環境を保全し、自己疎外を本質的に経験することなく生産活動をおこなうことによって、社会全体の安定性にとって、中核的な役割を果たしてきた」というのである。
 
 著者は「独立した生産、経営単位としてとられるべきものは、一戸一戸の農家ではなく、一つ一つのコモンズとしての農村でなければならない」と強調する。個々の農家に工業部門の企業と競争させれば「農業部門の衰退という帰結を惹き起こすのは必然的」だからだ。
 
 ぜひ紹介しておきたいのは、著者の農に対する敬意が旧制一高時代に育まれたという懐旧談だ。「都会の小学校、中学校で、偏った性向の友人たちの間で育った私」は「農村出身の友人たちの多くがもっていた大らかな人間性、たくましい生き方、そしてことがらの本質を鋭く見抜いてゆく知性に、ほとんど衝撃に近い印象を受けた」という。多感な青年を刺激した「農村の場で形成される人間的な雰囲気」もまた、社会的共通資本の一つと言えよう。
 
 農業を語るくだりでは、市場に重きを置く新古典派経済学の人間像を批判している。そこで想定されているのは「人々が生産にたずさわるときに感ずる職業的矜持も存在しないし、社会的、文化的香りも消えてしまった世界」であり、「虚無的な世界に、点々と散在する泡のような、非人間的な、抽象的な経済人」だというのだ。ふと思うのは、僕たちは知らず知らずに「抽象的な経済人」の型に自分自身を押し込んではいないか、ということである。
 
 街をめぐっては、建築家ル・コルビュジエが描く「輝ける都市」に、近代的都市計画の批判者ジェイン・ジェイコブズの思想が対置されている(著者は「ジェーン・ジェイコブス」と表記)。著者によれば、「輝ける都市」では鉄とコンクリートとガラスの建築群を結ぶ自動車道路が称揚されるが、ジェイコブズは逆に「街路の幅はできるだけせまく、曲がっていて、一ブロックの長さは短い方が望ましい」と言う。クルマではなく人が主役の道である。
 
 「歩行者がかろうじて電柱のかげにかくれて、走りすぎる自動車をよけているというのは、日本の都市でよくみられる光景であるが、このことほど、日本の都市の貧しさを象徴するものはない」という慨嘆は、著者ならではのものと言えよう。自動車の社会的費用は「本来、自動車の所有者ないしは運転者が負担しなければならない費用を、歩行者あるいは住民に転嫁して、自らほとんど負担しない」ようなときに露わになるからだ。
 
 著者がどれほど人間を大切に考えているかは、交通死亡事故の補償をめぐる論述でもわかる。槍玉にあがるのは、被害者が「天寿を全うしたとき、あとどれだけの所得を稼ぎ出すことができるか」に土台を置くホフマン方式の計算法だ。これでは「余命いくばくもない老人かあるいは病人であったとすれば、その人の生命の経済価値はゼロないしはマイナスの値をとることになってしまう」。そこが「非人間的、反論理的」というのである。
 
 同じ論法で、医療に「市場的基準」をもち込むことの危うさにも触れている。「医師の所得が、その診療行為によって患者がどれだけの経済的便益を受けるかということによって決められる」ようになったらどうか。極論を言えば「余命いくばくもない老病人に対する治療の経済的便益はゼロに等しく、医師の所得もこの場合ゼロになってしまう」。ここにも「非人間的、反論理的」な落とし穴が待ち受けている。
 
 著者は、極端例の思考実験をすることで市場経済過信の怖さを浮かびあがらせる。自身が若いころ、近経の学徒として新古典派の理論を研究していたからこそ、市場の弱みがどこにあるかも探り当てられるのだろう。僕たちの人生から金銭にまつわるもろもろのことをそぎ落としたとき、それでも残る人間の本質に価値を見いだそうというのが宇沢経済学なのである。

 この本を読み終えて、一つだけ疑問が残る。著者が「社会的共通資本は、それぞれの分野における職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって管理、運営される」としていることだ。「政府によって規定された基準ないしルール」でもなく、もちろん「市場的基準」でもなく、専門家の知見を重んずる立場だ。だが3・11後の今、専門家に対する信頼はかつてほど堅固ではない。この難題にはどんな解があるのか。
 
 大きなヒントと重たい宿題を残して、人間の顔をした経済学の提唱者は立ち去った。

写真》宇沢経済学と言えば自動車が思い浮かぶ。それは「社会的費用」をまき散らしながら走る=尾関章撮影
(通算234回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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コメント
<<尾関さんの示された処方箋をすでに実践していた宇沢さんが「専門家の知見を重んじる立場」を取ったことを考えると、その言葉に特別な重みを感じますし、宇沢さんの懐の深さに感嘆をさえ覚えます>>(虫さん)
たしかに、宇沢さんは自分の研究を相対化して、批判的に進化させることができる経済学者だったのだなあ、と思います。その意味では、自らが「あるべき専門家」像を体現していたのかもしれません。
  • by 尾関章
  • 2014/10/21 9:23 AM
尾関さん

返信コメントをありがとうございます。
原発事故を例に専門家への信頼が揺らいだ理由を二つの要因に分けて説明されていますが、なるほどと合点いたしました。
特に二つ目の要因、即ち、見解の一致が見られないことからくる混乱が専門家集団、あるいは専門性への信頼の低下を招いたことをどう捉えるか、また、どう解決するかは大きな課題ですね。

そして、この専門家論の課題をもう一歩深めるための処方箋として尾関さんが述べられたa)、b)はそれ自体としてもとても興味深いものですが、宇沢さんの足跡に照らして考えてみると、一層面白いものになるのではないかと思います。

宇沢さんはノーベル賞候補として名が挙がるほどの経済学者でしたが、その専門分野に「人間への視点の不在」を感じ、ときに変節と言われながらもその路線転換を図った専門家でした。これはまさに尾関さんがa)に示した「自身の見解の相対化」に当たりますよね。
そして宇沢さんはまた、市井の人々との勉強会に熱心であったとも聞いています。これはまさに、尾関さんの処方箋b)の実践にほかなりません。
尾関さんの示された処方箋をすでに実践していた宇沢さんが「専門家の知見を重んじる立場」を取ったことを考えると、その言葉に特別な重みを感じますし、宇沢さんの懐の深さに感嘆をさえ覚えます。
  • by 虫
  • 2014/10/20 8:27 PM
<<宇沢さんが社会的共通資本を構成するさまざまな専門分野について語るとき、各専門分野は『人間を大切にする』という思想に基づいて管理、運営されている(或いは、されるべし)と語っていることになります>>(虫さん)
なるほどそうだなという面と、それだけではないなという面があるように思います。
3・11、とりわけ原発事故で専門家の信頼度が揺らいだのには、大きくとらえて二つの要素があります。
一つは「原子力ムラ」の存在。ここでは、専門家が扱っているものが「社会的共通資本」であるにもかかわらず、「まず原子力ありき」の信条が優先された。
もう一つは、低線量被曝のリスクをめぐって専門家の間に見解の隔たりがあったこと。どの見方が正しいのだ、という戸惑いが世の中に広がった。
後者については、専門家論をもう一歩深める必要がある、と僕は考えています。
a)専門家の進化(自身の見解を相対化して、数ある見解の一つであると位置づけられる専門家の出現)
b)社会の進化(専門家の見解が一つでない現実を受けとめ、専門外の人々も交えて最適解を見いだしていくこと)
a)or b)、もしくはa)and b)が求められているように思うのですが、どうでしょうか。
  • by 尾関章
  • 2014/10/20 4:22 PM
<<この本を読み終えて、一つだけ疑問が残る>>

尾関さんの心に残った疑問について少々。
つまり、宇沢さんが「専門家の知見を重んずる立場」を取っていることと「3・11後の今、専門家に対する信頼はかつてほど堅固ではない」という事実の間に折り合いはつくのかという疑問について。

尾関さんの引用によれば、宇沢さんは「社会的共通資本は、それぞれの分野における職業的専門家によって、・・・・・管理、運営される」と語っていますが、冒頭の『社会的共通資本』という言葉にはすでに、『人間を大切にする』という核心となる思想が含意されています。ですから、宇沢さんが社会的共通資本を構成するさまざまな専門分野について語るとき、各専門分野は『人間を大切にする』という思想に基づいて管理、運営されている(或いは、されるべし)と語っていることになります。
3・11後の専門家への信頼失墜は、自分の専門領域が宇沢流「社会的共通資本」を構成するいち分野であるという認識を持たず、人間の上位に経済効率を置いて管理、運営してきたことのツケなのかもしれません。
尾関さんの疑問は疑問として解釈するかわりに、むしろ、宇沢さんの警鐘に耳を傾けずにきた専門家達がその信頼を失ったという意味で、宇沢さんの慧眼を示すものと解釈すべきものではないでしょうか。

  • by 虫
  • 2014/10/20 1:17 AM
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