『通勤電車でよむ詩集』(小池昌代編著、NHK出版生活人新書)

 本を読むことと会社に勤めることには、とりたてて相関がない。あえて言えば、退役して時間がたっぷりできたので長く遠ざかっていた本の世界に戻ったという人はいるだろう。だとするなら、本読みと会社勤めは互いに阻害する関係にある。ところが僕は、そうではない。1年前に会社生活に終止符を打ってから読書時間をどうつくりだすかが大問題になった。通勤という読書時間枠が消えてしまったからだ。
 
 僕の通勤は、電車を乗り継いで片道1時間弱の行程だった。うち正味の乗車時間は約30分。ホームでも本を読んでいることが多いので、それを加えれば行き帰りで1時間強の読書枠になる。朝の車中はあまりの混雑で本を開くどころではないことがあった。夜は半醒半睡で本を開いても字面を追うのが精いっぱいのこともあった。だが、往復1時間強は貴重な時間資源だったと言える。
 
 しかも、なぜか電車は本読みと相性がよい。そもそも、歩き読書は歩きスマホと同じでNGだ。バス読書は、揺れ動きが大きすぎるせいか乗り物酔いする人が少なくない。ところが電車には、読むリズムと共鳴するなにかがある。
 
 それは、車体の揺れだけではない。駅に停まる、ドアが開く、人が乗り込む、ドアが閉まる、発車する、車内放送がある、加速モードが減速に変わる、そしてまた停まる――その繰り返しが一つのリズムをかたちづくっている。さらに、車中心理の妙もある。次の駅までにもう1ページ、とついつい思ってしまうのだ。急き立てられている気はしないが、背中を軽く押されている感じはある。
 
 電車は、どれほどの読書速度をもたらすのか。人それぞれ、本によりけりだろうが、遅読では引けをとらない僕の経験では、会社への行き帰りに片道で30〜40ページということが多かった。乗車時間で割り込めば、分速1ページほどになる。各駅停車なら1駅あたり2ページか。だらだら読めば1駅1ページ半だったのを、車中心理の効果が2ページに押しあげてくれていたのかもしれない。
 
 電車の車内は、これほどまでに出来すぎた読書空間だ。最近は乗客の本ばなれが進んでいるように見えるが、僕はそうは思わない。本を開いている人はたしかに減った。だが、自分の前に立っている人の目がスマホ画面にくぎづけだからと言って、ゲームやソーシャルメディアに没頭していると決めつけてはいけない。視線の先にあるのが電子書籍であることも十分考えられるのである。
 
 で、今週の一冊は、『通勤電車でよむ詩集』(小池昌代編著、NHK出版生活人新書)。編著者は詩人、小説家であるだけでなく、朗読イベントや絵本の翻訳なども手がけている。略歴欄には「大学卒業後、出版社に勤務」とあるから通勤体験もある。
 
 冒頭の「次の駅まで――はしがきにかえて」では、会社帰りの電車で詩集をむさぼり読んだ日々を振り返っている。「詩の言葉は砂にしみ込む水のように、疲れたからだにしみ込んできた。思いがけない行につまずいては、涙がとまらなくなった経験が幾度もある。人目があるから恥ずかしかったが、詩の働きはポンプに等しく、感情を地下から汲み上げる」「我知らず泣いた。自分ひとりでなく、誰かと共に泣いているような感覚があった」
 
 そうか、電車読書では同乗者の存在も見落とせないのか。「はしがきにかえて」には、編著者の電車論も出てくる。「移動あるいは途上の時間は、目的地に着いてしまえば、消えてなくなる。それはこの世のどこにも根を下ろさない、不思議な間(ま)としか言えない時間である」。このひととき、「乗り合わせた人々」と「運命を共にする」のだから「どこか人間の生涯を、圧縮したような感覚がある」と言う。
 
 この本は、国内外の詩41編を「朝の電車」「午後の電車」「夜の電車」の3部に収めたアンソロジー。以下、作品のいくつかに触れるにあたって、おことわりしておきたいことある。詩は作者が磨き込んだ言葉の結晶なので、一部を引くだけで作品の真価を伝えるのは難しい。とはいえ全体を紹介するわけにはいかないので、僕はここで詩そのものよりも、そこに漂う空気感に目を向けたいと思う。
 
 所収作品は、書名に因んでか鉄道に想を得た詩が多い。印象的なのは、四元康祐「言語ジャック 1 新幹線・車内案内」だ。「今日も新幹線をご利用くださいまして、/どうも感情面をご理解いただけなくて、」で始まり、読み進むと「この電車は、のぞみ号・東京行きです。/このままでは、わたしたち絶望的です。」「つづいて車内のご案内をいたします。/鬱にて家内もたまんないと申します。」といった詩句に出会う。(/は改行、以下も)
 
 音韻は似ているが意味は別系統の1対2行の連なりだ。編著者の寸評に「二つの世界は平行線をたどる。決して和解することはない。怖いよ、この詩」とあるが、同感。とはいえ僕たちも、車内放送を聞きながら同じリズムで別のことを考えているのかもしれない。
 
 藤井貞和「雪、nobody」に登場するのは、東京近郊の私鉄電車だ。書きだしは「さて、ここで視点を変えて、哲学の、/いわゆる『存在』論における、/『存在』と対立する『無』という、/ことばをめぐって考えてみよう。」と難しい。次いで一転、米国の小学校に通う日本人の子どものエピソードになる。友だちを探して見つけられなかったとき、「nobodyがいたよ」と言ったという――以上はすべて、本に書かれていた話。
 
 「ここまで読んで、眼を挙げたとき、きみの乗る池袋線は、/練馬を過ぎ、富士見台を過ぎ、/降る雪のなか、難渋していた。/この大雪になろうとしている東京が見え、/しばらくきみは『nobody』を想った。」。東京が雪で「白い広場」と化しつつある日のひとこまだ。作者は「きみ」に問いかける。「この広場でnobodyに出会うのだとしたら、帰って来ることができるかい。」。書物の存在論と車窓の雪景色の化学反応がおもしろい。
 
 エドワード・トマス「アドルストロップ」(沢崎順之助訳)は鉄道の詩でありながら静的で、微かな音を際立たせる。「しゅっと蒸気の音。だれかが咳ばらいをした。/がらんとしたプラットフォームは/来る人も去る人もなかった。」。アドルストロップは、英国グロスター州にかつてあった駅の名。急行が停まる1分の間に1羽の鳥が鳴き、「その周りを/遠くへ遠くへ霞んで、オクスフォード州、/グロスター州のすべての小鳥が鳴いていた。」
 
 鉄道を離れるが、若者のコトバ事情を詩にしたのはトーマ・ヒロコ「ひとつでいい」。朝の学校で同級生が「お疲れ」。起きて朝食をとり、バスに乗ってお化粧をしただけなのに。初デートの後、送ってくれた彼氏も「お疲れ」。慣れないスカート姿、目力(めぢから)を入れ、鈴の音のような声で笑っていただけなのに。「この世を生き抜くためには/挨拶はひとつでいい/『お疲れ』だけで事足りる」。編著者によれば「これは時代の疲労なのだ」。
 
 「記憶」は編著者自身の作。「十年以上前に錦糸町で買った」というオーバーコートの詩だ。「わたしよりもさらに孤独に/さらに疲れ果てて/袖口には毛玉/すそにはほころび」というほど着古されている。「それにしても/かなしみのおかしな形状を/オーバーはいつ記憶したのか」。自らの過去をかたどる形状記憶体か。編著者は寸評欄で打ち明ける。「いよいよだめになって捨てるとき、古い自分を捨てるようにすっきりした」
 
 そして、鈴木志郎康「終電車の風景」。夜の電車で、床に散らばった新聞を乗客たちが足で蹴って退けているという話だ。「きたないから誰も手で拾わない/それを立って見ている人もいる/車内の床一面汚れた新聞紙だ/こんな眺めはいいなァと思った/これは素直な光景だ」。元新聞記者としては、ちょっとムッとする。だが裏を返せば、この作品が世に出た昭和40年代は、電車でも大勢の人が新聞を読んでいたということだ。うらやましい。
 
 この本を読んでわかったのは、電車は詩を生みだすのにも最適な場所だということ。読書空間であるだけではなかった。詩的空間でもあるのだ。きっと、「人間の生涯を、圧縮したような感覚」が詩心を醸してくれるのだろう。
 
写真》ICカードは詩的空間の乗車券=尾関章撮影
(通算240回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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