『複合大噴火』(上前淳一郎著、文春文庫)

 阪神・淡路大震災から20年ということで、追悼、復興、防災をめぐる報道がテレビから繰り返し流された。それで思い起こすのが、20年前の「あの夜」である。そのころ僕はロンドン駐在の記者で、1・17の衝撃には時差が伴った。
 
 第1報に接したのは16日午後9時すぎ、日本はすでに翌朝になっている。新聞社の総局に流れてくる通信社のニュースで、それを知った。“urgent(緊急)”の短信に“earthquake(地震)”と“Japan”の文字。ただ、揺れたのが“Kobe”とあるのを見て、不見識にも「大ごとにはならないだろう」と即断してしまった。大地震が起こるなら東海地方、という誤った先入観が心のどこかにあった。
 
 驚いたのは深夜、自宅で邦人向けの衛星放送にチャンネルを合わせたときのことだ。この局は契約者以外には映像にモザイクをかけていたが、それでも音声だけは聞くことができた。これが、記者には役立つ。日本から衛星経由で届くNHKの早朝ニュースがほぼリアルタイムで流れるので、その日の紙面を占えるからだ。夕刊の記事が立て込みそうな日には、急ぎでない出稿は控え、ボツになったり大幅に削られたりするのを防ぐのである。
 
 ところが、あの夜はモザイクがなかった。目に飛び込んできたのは、崩れ落ちた高速道路だ。局が邦人に母国の一大事を伝えるため、NHKの緊急報道を無料放映に切り換えたのだろう。空撮映像を見ると、高速道路のわきでもビルが横倒しになっている。その時点で犠牲者数は数十人とされていたが、それでは収まらないことがすぐにわかった。僕は家族をたたき起こして、ニュースにくぎ付けになった。
 
 この時点で、地震発生から3時間ほどしかたっていない。ただこれは、僕が日本人記者だったからだろう。英国人の多くは、翌朝のテレビや新聞で地球の裏側の災厄を知ったのである。あれほどの大震災でも世界中に知れわたるには半日かかる。20年前はそんなだった。
 
 阪神・淡路大震災の1995年は、インターネット元年と呼ばれる年でもある。このころから世界は電子網でつながり、メールが飛び交い、やがて動画の投稿サイトも登場した。2004年のインド洋大津波では、まだ海外大手メディアの映像がネットで見られるというくらいだったが、東日本大震災が起こった2011年には、人々が手持ちの機器で撮った動画が直ちに投稿サイトを通じて全世界に広まるようになっていた。
 
 自然災害と人類の関係が、この20年で激変したということだ。今は、ローカルな災害がすぐさまグローバルな衝撃をもたらす。では、もっと過去に遡るとどうだったのだろうか。日本が鎖国をしていたころは、自然災害もローカルな事象にとどまっていたのか。
 
 そんな問いにヒントを与えてくれるのが、『複合大噴火』(上前淳一郎著、文春文庫)。著者は1934年生まれ、朝日新聞記者からノンフィクション作家になった人である。個人的に忘れがたいのは、僕が新聞記者になったころ世に出た「支店長はなぜ死んだか」(1977年)。警察発表依存型の事件報道に疑問符を投げかける論旨だったので、食い入るように読んだ。だから僕には、社会部系の手練れたジャーナリストという印象があった。
 
 ところがこの『複合大噴火』からは、著者の幅広さが伝わってくる。そこには国際派の視点があり、科学記者的な取材手法もある。しかも、どこまでも人間の匂いがする筆致は、社会部らしさを踏みはずしていない。
 
 あとがきによれば、1783(天明3)年の浅間大噴火と1789年のフランス革命を結びつける学説に出会ったのが、執筆のきっかけという。浅間の噴煙が欧州でも麦作に打撃を与えて革命を誘発したというのだが、それって本当か。著者が立派なのは、その説に興味をもっても安易に乗っからなかったことだ。まずは英国の気候学者H・H・ラムの論文にあたり、さらにロンドンに赴いて大英図書館で文献を漁った。その果実が、この本である。
 
 著者が国際派の目で全地球を見渡したときに見過ごせなかったのが、浅間山の直前にアイスランドのラキ山が火を噴いたことだった。1783年のラキ大噴火は6月8日に始まる。浅間でこの年最初の爆発があったのは同じ月の25日(太陽暦、以下も)なので、歴史に残る火山活動が欧州と日本で相次いだことになる。ラム論文は、このラキ噴火の噴出物が地球大気に与えた影響は史上屈指で、同時期の浅間噴火の4倍近いと見積もっていた。
 
 「フランス革命との関係を論じようとするなら、ラキに浅間が加わった複合噴火こそ対象にされなければならず、しかもそれは十分対象とする価値があるに違いない」(あとがき)。そういう見立てにもとづいて本文は書き進められていく。そこで記述されるのは、浅間とラキ周辺の出来事だけではない。日本では東北や江戸、大坂(大阪)の市井の様子、権力者田沼意次の次を狙う松平定信の動きが、欧州ではフランスの世相が同時並行で描かれる。
 
 見えてくるのは、鎖国の世でも日欧がひとつながりであったことだ。ラキが吐き出した硫黄分を含む「青い霧」は欧州上空を覆い、偏西風に流されて、浅間噴火に先立つ6月20日ごろまでには日本に届いていたとみられている。これは、日照を弱める効果がある。さらに硫黄分の一部は微粒子となって成層圏にまで及んで「風がないためそこに居すわり、太陽熱を吸収しはじめる」。こうして地球規模で気温を押し下げたのである。
 
 一方、浅間では硫黄分の噴出は少なかったらしいが、火山灰が多かった。この火山灰も広い範囲に拡散して、細かいものは成層圏に届いただろう。ラキほどではないが、地球大気の状態をいかばかりか変える要因にはなったと思われる。
 
 青い霧や火山灰の微粒子には、光をさまざまに散乱させる働きがある。そのせいか、この年の夏は、日欧共通の変事が起こっていた。たとえば、相馬地方で「七月末から八月にかけて、太陽が赤っぽく見えた」という記録は「青い霧におおわれたヨーロッパ各地で朝日と夕日が血の色をしていた」に符合する。「仙台では八月十日、太陽が二つに見えた」と伝えられるが、「同じ現象はやはりこの夏のヨーロッパにあった」というのである。
 
 気温の異変とその余波も日欧で似ている。「八月十四日、相馬中村でも霜が降りた」のが1783年の日本なら、「パリの春は遅かった」というのが翌年の欧州だ。パリ天文台の記録では、4月の平均気温が前後15年間で最低だったという。日本では、冷夏を受けて「全国いたるところで米は不作」となり、米相場が高騰した。フランスでも、不作の予想が小麦の急騰を招いたという。
 
 津軽では、町民や農民が大商家を襲う暴動が堰を切ったように勃発する。大衆は「粟、稗も、青菜一束さえ手に入らない」という窮状にあるのに、大商人たちが「米から粟、豆、味噌にいたるまで買い占めを図って」いたからだ。パリでもパンの値上がりが「収入の半分はパンに消える」という労働者や農民を苦しめたが、このときに大暴動があったとは書かれていない。この一点で、浅間とフランス革命の関係性は希薄となる。
 
 ただ、フランス社会ではラキや浅間の噴火とかかわりなく、パン高騰による暴動が頻発していた。1725年、40年……そして75年の「粉戦争」では、怒った群衆がパン屋を壊しただけでなく「パリの中央粉市場も掠奪された」。日本でも1787年、大坂と江戸で米屋に対する大規模な打ちこわしが相次いだ。この本ははからずも、地球の裏表で世相の空気が、自然界の気まぐれとも言える火山噴火と別次元で同期していたことを教えてくれる。
 
 18世紀、欧州では近代市民社会が芽吹いていたが、日本でも「棉、茶、煙草などの商品作物の栽培、あるいは養蚕」が広まり、「それらを取引する商人が集まって組織される株仲間」が存在感を増していた。日本の近代は明治維新だけが呼び寄せたのではない。
 
 ただ、フランスでは、暴動のエネルギーが啓蒙思想の理念と結びついてやがて革命に至った。日本のそれは、自由だが放漫に過ぎた田沼意次が、潔癖だが自由には縁遠い松平定信に代わっただけでしぼんでしまった。こちらの違いは大きい。
 
写真》時差はあっても地球の裏表はつながっている。
(文と写真・尾関章/通算248回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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