『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』(多木浩二著、岩波現代文庫)

 コピペという言葉は、すでに市民権を得たようだ。ITが僕たちの生活に浸透して、文書の一部を複写して別の文書に貼りつける行為が「コピーしてペイストする」というパソコン用語でピンとくるようになったのだ。だが、この言葉には危ういイメージがつきまとう。
 
 なぜか。コピペしたものをあたかも自分の著作物であるかのように世に出せば、法律にも道義にも反する行為となるからだ。しかもそれが、自ら一字一字ペンを動かすこともなくマウス操作とキータッチで手軽にできてしまう。危うさは、そこにある。
 
 ただこれは、コピペ部分を「自分の著作物であるかのように」見せたときのことだ。もとより、人間の知的活動に引用は欠かせない。出典を明らかにして既存文献の一部を引き、それを踏まえて新しいものを創ることは認められている。この作業がなければ、幾多の論文の積み重ねのうえにある理系の探究は成り立たない。文系世界も同様だ。先達の言葉をニュアンスも含めて論評することはふつうなので、カギ括弧で囲む引用が必須になってくる。
 
 引用は、作品をまるごと複製することではない。ただ、作品の一部を引き写したり、作品の核心部を要約して採りだしたりする。部分コピー、要点コピーという複製の要素を伴っているとは言えるだろう。
 
 いま、人間の知的活動は迷路にさしかかっている。目の前で二つのベクトルが綱引きをしているからだ。一方は、知的財産権をもっと守れと主張している。もう一方は、複製技術の手間のかからなさをこれ見よがしに見せつけている。市場経済の論理がモノの呪縛から解き放たれて情報世界に広まることと、情報世界を扱う科学技術が驚くほど身近になることが同時進行しているのである。
 
 複製技術が、僕たちのものの見方に影響を与えているのは間違いない。そのことは、先週の当欄「白石一文にみるIT時代の死生観」でも書いた。『翼』(白石一文著、鉄筆文庫)の主人公は、人の死は記憶の消滅であるとして「共有されたデータっていうか送信済みのデータっていうか、そういう記憶は当然他のメモリーにも残るので、その意味では、人の死は関係者全員の死をもって完全な無になるのかもしれないですね」と語っている。
 
 ここで見落とせないのは、複製物の存在感だ。ITは、データをネット空間に雲のように浮かばせたり大勢の人に同時送信したりして、あちこちに分身をつくりだしてしまった。複製が原本と見分けがつかない実在を見せつけているのである。
 
 で、今週は『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』(多木浩二著、岩波現代文庫)。この本のつくりは重層的だ。前段では著者がヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代……』を読み解き、後段にはその邦訳(野村修訳)がそっくり収められている。僕たちは読書をするとき、ときに巻末解説に目を通してから本文に入るという変則技を使うことがあるが、この本では、その裏ルートが表ルートになっているのである。
 
 入れ子構造の本なので、それを語るには工夫が要る。不用意に「著者」という言葉を使うと混乱を生じそうだ。ここでは「多木」「ベンヤミン」と固有名詞で表現する。さらにベンヤミンの『複製技術時代……』は「原著」と呼ぶ。原著引用は、すべて野村訳である。
 
 ベンヤミンは19世紀末、ドイツのユダヤ人家庭に生まれた思想家。ナチス政権下、パリに亡命した。原著は1930年代半ばの論考。「ベンヤミンは教条的なマルクス主義は受け付けなかったが、紛れもなく史的唯物論の影響を受けていた」(多木)ので、その視点に立っている。書きだしも「マルクスが資本主義生産様式の分析を企てたとき……」だ。だが、そんなイデオロギーのバイアスを除き去っても、腑に落ちる考察に満ちている。
 
 原著でもっとも強調されているのは、複製技術が芸術の「一回限り」という特質を脅かすということだ。「芸術作品は、それが存在する場所に、一回限り存在するものなのだけれども、この特性、いま、ここに在るという特性が、複製には欠けている」。絵画は写真によって、音楽はレコードによって、自宅でも鑑賞できる。「オリジナルを受け手に近づけること」によって「作品が、いま、ここに在るということの価値だけは、低下させてしまう」。
 
 原著が執筆されたころは写真やレコードに続いて映画が広まり、それも無声からトーキー付きがふつうになりはじめた時代だった。ベンヤミンは、この論考で技術論に根ざした映画論を目いっぱいに繰り広げている。
 
 そこでのキーワードは「遊戯性」であり、「実験的営為」だ。まず、技術を二つに分けて考える。第一のものは太古以来の「やたらと人間を投入する」もので、「一回性が肝要である」。第二は現代技術で、「できるだけ人間を投入することを少なくする」ものであり、「実験のしかたを倦まずたゆまず多様化させてゆく」という意味で遊戯性がある。映画は、第二の技術の落とし子だというのである。
 
 ちょっと難解だ。原著では具体例として、チャップリンが作品の約40倍もの長さのフィルムを消費することがあったという話が出てくる。「完成した映画は、さいころの〈一振り〉による創造物などではけっしてない」「じつに多くの映像や場面からモンタージュされるものであって、モンタージュするひとは、その映像や場面の選択権を握っている」「思いどおりの映像ができるまで、好きなだけ撮影をやり直すことができる」というのだ。
 
 おもしろいのは、これが人々の芸術への向きあい方の移ろいに対応していることだ。ここでのキーワードは「くつろぎ」。多木読解によれば、いまでもふつうには「芸術は美的崇拝の対象であり、精神を集中させて見るものだと思われている」が、映画鑑賞の原型には「覗き眼鏡」のからくりを観るような楽しみ方がある。「そこではいかなる意味でも観客の精神は緊張しない」というのである。
 
 芸術が、美術館で名画の前にたたずみ、しばし見入るというだけのものではなくなったということだろう。あるいは音楽ホールで、名曲をしわぶきひとつ漏らさず聴くだけではないと言ってもよい。原著に出てくるのは「触覚的」という言葉だ。
 
 これは、実際に「触る」ことではない。ベンヤミンの言葉では、芸術を「注目という方途よりも、むしろ慣れという方途」で受け入れることだ。「集中」ではなく「くつろぎ」に近い。例に引かれるのは建築。そこでは「慣れをつうじてのこの受容が、視覚的な受容をさえも大幅に規定してくる」。たとえ視覚で受けとめるにしても、それは「緊張して注目する」ことよりも「ふと目を向ける」ことから始まるというのである。
 
 これは僕の実感にも、しっくりくる洞察だ。展覧会は大好きだが、どんなに好きな画家の絵を見ていても一瞬、違和感に襲われることがある。それは、意識が絵に没入する時間が分断されることによるものらしい。Aという絵の世界とBという絵の世界を断続して体験するので、その切れ目のところで気持ちが白けてしまう。これに対して、建築は外観の意匠であれ、内装の質感であれ、それを見ている僕たちを無理なく浸してくれる。
 
 ベンヤミンは先見性に富む人だった。新聞の投書欄を話題にしたくだりには「読み手はいつでも書き手に転ずることができる」とある。これは、ソーシャルメディア出現の予感のようにも読める。さらに原著の注では複製技術の政治に対する影響を考察して、演説を「無際限に多くのひとびとに聴かせたり見せたりすることができるようになると、この機械装置の前に政治家を展示することのほうが、主になってくる」と、テレビ政治を予見していた。
 
 なによりも痛感するのは、ベンヤミンの没後、「複製」の重みが増したことだ。生命の本質がDNAの複写であることがわかり、同様のことは人の情報伝播にもあるだろうと、文化の遺伝子ミームの概念が生まれてくる。「複製」抜きに僕たちは世界を語れない。
 
写真》複製技術の担い手は僕たちの日常にもどんどん入り込んでいる。
(文と写真・尾関章/通算250回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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