『華氏451度』(レイ・ブラッドベリ著、伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫[新訳版]

 こういうニュースのこういうところに反応する自分は心配性の極みなのか。米マイクロソフト社が先月発表した次世代の基本ソフト「ウィンドウズ10」の話だ。音声による操作機能をちりばめると知って思わず警戒感を抱いてしまった。
 
 朝日新聞デジタルが日本時間1月22日深夜にアップしたサンフランシスコ発特派員電には、こうある。「話しかけると端末が自動的に動く音声認識もあり、ネット検索をしたり、天気を聞いたりと、話しかけるだけで答えを表示してくれる。連絡先を呼び出し、メールを書いて送信するのも、声だけでできる」。いいことではないか。視力が弱い人には朗報だ。僕自身も老いとともに目が衰えてくるだろうから恩恵を受ける身である。
 
 では、なぜ警戒感なのか。その背景には、パソコンであれ、タブレットであれ、スマホであれ、ITが果たしてきた役割の一つに文字文化の再興があるのではないか、と考える僕なりの時代認識がある。
 
 僕たちの世代は少年期から青年期にかけて、テレビが文字媒体を追いかけ、追いつき、追い抜く様子を目の当たりにしてきた。気がつくと、音と映像は紙面を這うような文字の羅列をしのぐ存在となっていた。僕が新聞社に入った1977年は、ちょうどその絶頂期にあたる。あえて言えば、斜陽のメディア業態に職を選んだことになる。ところが十数年で事態は変わる。IT文化による文字の復権である。
 
 そのことは、自分が日々体験しているコミュニケーションを思い起こせばすぐわかる。仕事向きの用件で知人とメッセージをやりとりするにも、私的な思いを友人と伝え合うにも、電話を使うことはほとんどない。取って代わったのはメールの送受信だ。先輩世代にとって手紙をしたためることがさほど苦痛でなかったように、僕たちにとっては画面に向かって文章を綴る行為が日常ルーチンの動作になった。
 
 ところが、新しい基本ソフトを使えば「メールを書いて送信するのも、声だけでできる」という。メールを書く作業のかなりの部分が音で代行されるわけだ。これは、口述筆記のようなものだから、作文の本質は変わらないという理屈は成り立つ。ただ、声で文をつくっているうちに、できあがったものが話し言葉の色合いを強めるということはあるだろう。世に出回る文章の多くが究極の口語体となるように思えてならない。
 
 その兆しは、すでに短文のソーシャルメディアに見てとれる。頭に思い浮かぶ言葉が、そのまま反射的に文字に転写されたものが目立つ。こうして文字は生き残っても、思考しながら言葉を紡ぎ、文章を組み立てるという文字文化は衰退していく。

 そんな危機感を抱きながら、今週選んだのは『華氏451度』(レイ・ブラッドベリ著、伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫[新訳版])。著者は、数々のSF名作を世に出した米国の作家。2012年に91年の生涯を閉じた。この長編小説は、焚書が治安業務の一つとなった未来世界を舞台としている。1953年の刊行。扉には「華氏四五一度――この温度で書物の紙は引火し、そして燃える」とある。華氏451度は、摂氏233度である。

 すごいと感じるのは、主人公ガイ・モンターグの職業を「昇火士」としたことだ。「ファイアマン」とルビがふってある。著者は、英語では消防士を「火(fire)」の「男(man)」と呼ぶ不合理を逆手にとって、焚書の火付け人に同じ言葉をあてがった。「いい仕事さ。月曜にはミレーを焼き、水曜はホイットマン、金曜はフォークナー。灰になるまで焼け、そのまた灰を焼け。ぼくらの公式スローガンさ」(引用では詩人に対する注を省いた)
 
 消防署ならぬ昇火署が置かれた世の中は、僕たちが経験しているIT社会と酷似している。たとえば「テレビ壁」。部屋の壁がそっくり画面になった受像機だ。これなどは脱ブラウン管の薄型テレビを予見していたと言えるだろう。
 
 その番組内容には苦笑する。「ひとつの壁で、女がオレンジジュースをのむのと笑うのとを同時にやってみせている」「別の壁にはその女のエックス線映像が出ていて、清涼飲料水が伸び縮みしながら歓喜にふるえる胃袋にたどりつくようすがまる見えになっている!」。これは、昨今のバラエティーとダブる。今はさすがにX線をおもちゃ代わりにしないだろうが、おふざけぶりは同じだ。著者は、テレビの前途をその草創期に見通していたのである。
 
 テレビ壁は、主人公の妻を女優気分にさせてもくれる。相手役は画面の向こう側にいる。「抜けたセリフのところへくると、三つの壁からみんながこちらを見て、わたしがセリフをいうわけ」。妻の願いは、テレビ壁をもう1面ふやすことだ。「四つめの壁があったら、ここだってまるでわたしたちの部屋じゃなくなって、風変わりな人たちがいろいろ住む部屋になるわ」。双方向性もどきと仮想現実感。ここにはIT時代を先取りする発想がある。
 
 この小説の筋は、ある住宅の屋根裏があやしい、との通報を受けて主人公らが書物隠匿疑惑の現場に出動するところから展開する。住んでいる高齢女性の抵抗に遭いながら本をかき集め、燃料のケロシンをまき散らす。この途中、主人公は職務を忘れて、思わず本に手を出してしまう。「片手がひとりでに動いた。あたかも脳がそこに宿り、ふるえる指の一本一本に良心と好奇心がひそんでいるかのように、その手は盗賊と化していた」
 
 高齢女性は結局、自らマッチに火をつけて本とともに命を絶った。主人公は翌日、仕事をさぼろうとする。このとき、妻に「どうだろう、つまりさ、ここでしばらく仕事を休むというのは?」ともちかける。「あなた、なにもかも投げだしたいの?」とたしなめられて「女は燃える家に残ったんだぜ。あれだけのことをするからには、本にはなにかがある、ぼくらが想像もつかないようなものがあるにちがいないんだ」。前夜の本は、枕の下にあった。
 
 この小説の一つのヤマ場は、この日、昇火署の上司ベイティー隊長が主人公宅を訪ねてくるところだ。「昇火士はみんな遅かれ早かれこの壁にぶちあたる」「われわれの職業の歴史は知ったほうがいい」と言って、焚書正当化のために薀蓄を傾ける。
 
 隊長によれば、20世紀には映画やラジオ、テレビなど「いろんな媒体が大衆の心をつかんだ」「そして大衆の心をつかめばつかむほど、中身は単純化され」「映画や、ラジオ、雑誌、本は、練り粉で作ったプディングみたいな大味(おおあじ)なレベルにまで落ちた」というのである。「本は短くなる。圧縮される。ダイジェスト、タブロイド。いっさいがっさいがギャグやあっというオチに縮められてしまう」。たしかに今も、その流れにある。
 
 隊長の講釈は、時代の病巣をえぐり出していく。「ジッパーがボタンに代わり、おかげで人間は夜が明けて服を着るあいだ、ものを考えるたったそれだけの時間もなくしてしまった」「学校がスポーツ選手、資本家、農家、製造業、販売業、サービス業、修理屋を世に送りだすことに熱心で、審査する人間や、批評する人間、発想豊かな創作者、賢者の育成をおこたるうち、“知識人(インテリ)”ということばは当然のようにののしり語となった」
 
 おもしろいのは、だから本が必要だではなく、だから本が邪魔になったという論理だ。学校時代、放課後にいじめたくなる相手は「俊才君じゃなかったか?」と妬みの感情をくすぐり、「みんな似たもの同士でなきゃいけない」と強調して、昇火士こそが「われわれの劣等意識が凝集するその核心部を守る人間」「心の平安の保証人」という。ここにあるのは、大衆社会が思考や知性を嫌うという構図である。
 
 この小説で心に残るのは、本を愛する人が「本を読んだら燃やしてしまう」「この老いぼれ頭にいれておくほうがいい」と語るくだりだ。「各々、記憶しておきたい本があって、記憶した」という人たちが「ゆるいネットワーク」をつくっているという。
 
 本の知は、音や映像、あるいはギャグやオチの攻勢に見舞われても不滅ということだ。たとえ焚書の時代が到来しても、だれかがそれを守るに違いない。当欄のように本の話をネット空間に載せておくことも、その手だての一つにはなる。
 
写真》本、本、本……。そこに込められた珠玉のフレーズを記憶から呼び起こしていきたい。
(文と写真・尾関章/通算251回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
■ブック・アサヒ・コム「文理悠々」のバックナンバーはこちらへ
「本読み by chance」は原則として毎週金曜日に更新します。
コメント
コメントする