『大正幻影』(川本三郎著、ちくま文庫)

 京都に住んでいたとき、僕が好んで散歩したのが御池から丸太町にかけての寺町通だった。町家が並ぶ京都洛中のふつうの通りでありながら、本屋やパン屋、家具店、洋菓子店、あるいは茶舗といった店々が控えめに個性を主張している。ちょっと東へ足を向ければ、河原町通という大通りがある。寺町通も御池より南に下がれば、アーケード商店街の喧騒が始まる。この1km足らずの区間に、歩くだけで至福の空間がある。
 
 この通りについては1年余り前、当欄で触れたことがある(「文理悠々」2013年12月16日付「梶井『檸檬』が戻ってくるという話」)。梶井基次郎の短編小説『檸檬』の主人公「私」がレモンを買った果物店は寺町通が二条通と交わるところにあった。
 
 「寺町通りはいったいににぎやかな通りで――といって感じは東京や大阪よりはずっと澄んでいるが――飾り窓の光がおびただしく街路へ流れ出ている。それがどうしたわけかその店頭の周囲だけが妙に暗いのだ」。梶井の目がとらえた宵の風景はこうだった。『檸檬』が書かれたのは1920年代半ば、大正末期のことである。光と闇の交錯は、いま同地点に立ってもなお感じとることができる。
 
 この通りで僕がもっとも心惹かれるのは、洋菓子店の「村上開新堂」だ。木造2階建てで、正面は洋風。ショーウィンドウのガラスが緩やかな曲面を描く。ドア越しに透けて見える店内は薄暗い。それらが、えもいわれぬ魅力となっている。
 
 僕はずっと、この建物が大正時代のものとばかり思っていた。なにかの本で、大正建築の好例としてとりあげられていたように記憶しているからだ。ところが今回ネットで調べると、建造は昭和に入ってかららしい。一つだけ言えるのは、あの雰囲気が明治っぽくなく、戦時昭和っぽくもなく、戦後昭和っぽさもない、ということだ。翳りをはらむ軽やかさは、大正とその前後ならではのもののように僕は思う。
 
 明治は、文明開化と富国強兵だ。昭和は、まず戦争へ突っ走り、次いで復興と成長に躍起となり、最後はバブルの夢に浮かれた。この二つの時代は、いけいけどんどんの色合いが濃い。その間に挟まれ、寺町通のように静かな佇まいなのが大正だ。僕たちは平成に入って、バブル崩壊の痛みを感じ、3・11の原発事故で戦後型産業経済の土台が揺らぐのを目の当たりにした。いま参照すべきは、いけいけどんどんか、それとも静かな佇まいか。
 
 で、今週の一冊は『大正幻影』(川本三郎著、ちくま文庫)。著者は1944年生まれ、映画や文学、そして都市論を語る評論家。この本は、「アステイオン」誌に連載したものを中心にまとめたもので、1990年に単行本が新潮社から出て97年に文庫化された。大正文学に光を当て、おもに佐藤春夫、谷崎潤一郎、芥川龍之介、永井荷風の作品世界をのぞき見ながら、その時代の空気を読み解いている。
 
 鍵となる作品は、佐藤春夫の『美しい町』(岩波文庫の短編集などでは『美しき町』)だ。日本人と米国人の血を引く謎めいた人物が画学生や老建築家とともに毎夜、東京・築地のホテルに籠り、美しい町の構想を練って、家々の模型をボール紙でこしらえていく。うわものは架空だが、所在地は隅田川の中洲(なかず)。いまは「川を埋め立てられビルと高速道路だけの趣きのない町」だが、当時は「美しい隠れ島」だった。
 
 「川に浮かんだ小さな島の上にいまにも水に流されそうなはかないユートピアが夢みられる」という話だ。佐藤は「原稿用紙を方眼紙に見立て家のデッサンをした」というほど「普請道楽」の趣味があったが、それは家を建てることよりも「家を作る過程を楽しむ、いわば、夢の行為」だった。だから、その家は内実なしの表層でいい。「建つと同時に、消滅が予定されているはかない家。佐藤春夫にとって家とはそうした『書き割りの家』だった」
 
 著者は、佐藤がこの作品に「洋風のオブジェ」をちりばめたことに注目する。ホテルの便箋、金モール金ボタン姿のホテルマン、そして「自動車、ピアノ、葡萄酒、ストーブ、シャンパン」。明治の世で「西洋のモノ」は「富国強兵、殖産興業の時代にふさわしい実用的価値のあるハードウェア」だったが、大正に入ると「より日常的な小さなオブジェのほうが重要なものとして意識されるようになった」とみる。公から私への移行である。
 
 それは「家を、家具や庭に“部品化”して見る視点」と表裏一体だ。著者によれば、佐藤の作風からは「家から独立した個人の強固な、同時に、熟しきった意識の成立」が見てとれるという。そう言えば、自動車も「私的空間」だ。近代技術も「個」を後押ししていた。
 
 「個」を支える技術には映画もある。著者は、谷崎潤一郎が映画を賛美した事実に触れて「『芝居より映画』の志向は、彼が映画のなかに『闇』をこそ発見したために思えてならない」と書く。「映画館が暗闇を持っているために必然的に観客はそこで『ひとり』になる」「観客は『ひとり』に分化・純化され、自分だけの感性と意識でスクリーンのフィクショナルな世界と対峙させられる。その意味で映画とは徹底的に『個』のメディアである」
 
 映画は「個」を自覚させただけでなく、それを分裂させもした。著者は、谷崎の『人面疽』という小説で、映画技師が口にしたという言葉を引用している。「もし、或る俳優が、自分の影の現れるフイルムを、たつた一人で動かして見たら、どんなに変な気持がするだらう。定めし、映画に出て来る自分の方がほんたうに生きて居る自分で、暗闇に彳(たたず)んで見物して居る自分は、反対に影であるやうな気がするに違ひない」
 
 これは、芥川龍之介の作品にもつながってくる。『影』や『歯車』に出てくる「もうひとりの自分」、すなわちドッペルゲンゲルだ。なぜ、分身がリアルに思える時代だったのか。その答えを、著者は世情変化の速さに求める。「昨日までのものが今日はもう古いものとして捨て去られていく。近代人は一人で二世も三世もの時間を生きていかなければならなくなった。当然、そこに、古い自己と新しい自己という自己分裂が起こってきた」
 
 もう一つ、東京が舞台の大正文学に欠かせなかったのが「水」である。隅田川だけではない。そこにつながる掘割や小渠をも含む風景だ。「『水』は町の隅々まで走り、家や通りを地上から浮かしていく」「その浮遊感覚が大正期の作家たちの感覚を『水酔い』とでも呼びたい軽い陶酔状態にひき入れていく」。それは「淡い幻想の物語」が育つ恰好の培地だった。その例が谷崎の『刺青』であり、佐藤の『美しい町』ではなかったかという。
 
 ここには下町志向が見てとれる。明治という「『陸の東京』が『水の東京』を圧倒していく時代」を過ぎたころ、下町の水路は埋め立てられ、空は煤煙に覆われていた。永井荷風は、自らの住まいを山の手にもちながら、明治、大正、昭和を通じて下町を「遊民」として見つめ、小説を書きつづけた。「荷風が『水』を求めて下町に『下山』していったのはそうした『陸の東京』に対するささやかな抵抗だった」
 
 著者は、大正を「小春日和」にたとえる。少なくとも、1923(大正12)年に関東大震災が起こるまでは「比較的のどか」だったというのだ。そうしたなかで作家たちは「夢見心地」に浸り、「淡彩の幻想」ともいえる作品群を生みだしたとみる。
 
 僕は3・11に先立つ2008年、新聞のコラムで佐藤の『美しき町』を話題にした(表題は岩波文庫にならった)。登場人物の町づくり構想に「もし科学が完全に発達した時には、今我々が必要とするような大仕掛けな電灯会社(それは電灯ばかりとは限らないが)などに依らずとも」「自分たちの電灯を自分たちの簡易な機械で灯す時代が来るに相違ない」という記述を見つけたからだ(朝日新聞2008年8月2日付夕刊「窓――文豪のエコ」)。
 
 原発事故を知らず、太陽光発電の「た」の字も思い描けなかったはずの時代にエネルギー分散型社会を重んじる発想があったとは。「淡彩の幻想」は、ただの幻ではなかった。それは、いけいけどんどんとは別方向のベクトルの発見でもあったのだ。
 
写真》手前は、『美しき町・西班牙犬の家 他六篇』と題された佐藤春夫の短編集(池内紀編、岩波文庫)。
(文と写真・尾関章/通算254回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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  • 2015/03/11 5:31 PM
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