『技術への問い』(マルティン・ハイデッガー著、関口浩訳、平凡社ライブラリー)

 遠い昔の話だが、高校時代に実存主義哲学者カール・ヤスパースの本をドイツ語で読んだことがある。などというと、僕がおそろしく早熟の少年だったか、あるいはとんでもないひけらかし屋であるかのように誤解されるかもしれないが、そのいずれでもない。
 
 通っていた高校に第二外国語の授業があり、そこで採用されていた読本がヤスパースの論考だったのだ。講演の採録か、雑誌に載った小論だったのではないか。その主題は、原子爆弾にあった。
 
 印象に残るのは、本文中にAtombombeという単語が繰り返し出てきたことだ。「アトムボンベ」という発音を聞いて、ガスボンベのボンベも語源をたどれば「爆弾」なのかと妙に納得した覚えがある。論考の中身は、すっかり忘却の彼方だが、おぼろげな記憶を恥を恐れずに書き記せば、人間は原子爆弾を生みだしたことで人類破滅の危機という限界状況に直面した、という趣旨だったように思う。
 
 どうして哲学者が原爆なのか。あのころの僕には、そんな疑問があった。哲学は個々の人間の内面にかかわる学問のはずだ。実存主義ならなおさらそうだろう。科学技術の産物にそこまで大上段に構える必要はあるまい――もちろん、それは浅はかな決めつけだった。
 
 考えてみれば、哲学者にとって20世紀は大変な時代だった。このことは、一つの思考実験によって明らかになる。ソクラテスであれ、プラトンであれ、アリストテレスであれ、あるいはデカルトであれ、カントであれ、ヘーゲルであれ、古代から近世に至る哲学者がもし20世紀に生き直したら、と問うてみるのだ。彼らの思想は、いま哲学史に記されているものとは、かなり異なってくるのではないだろうか。
 
 そう思えるほどに劇的なことが20世紀には起こった。その立役者は、科学だ。それは知の領分にとどまらず、有史以来の人間の常識を超える怪物を生みだした。「現代技術」である。技術そのものは近代に入ってから着実に進んでいたが、科学が解き明かす自然界深層のしくみがそこに反映されたのは20世紀の出来事だ。その象徴とも言えるのがアトムボンベ――原子爆弾だった。
 
 で、今週は、その時代状況を察知して科学と技術について語った哲学者の本にする。『技術への問い』(マルティン・ハイデッガー著、関口浩訳、平凡社ライブラリー)。著者はヤスパースと因縁浅からぬ仲であり、やはり実存主義の系譜に位置づけられる大哲人である。
 
 この本には5編の論考が収められている。「技術への問い」(1953年)、「科学と省察」(1953年)、「形而上学の超克」(1936〜46年)、「伝承された言語と技術的な言語」(1962年)、「芸術の由来と思索の使命」(1967年)。「形而上学の……」を除くと、講演や講演原稿をもとにしている。具体論にどこまで立ち入っているかは論考ごとに濃淡があるが、通読すると著者の科学技術観を読みとることができる。
 
 まず、「技術への問い」で目を引くのは「現代技術とは自然科学を応用したもの」という通念を「虚偽の見かけ」と断じていることだ。近代科学が17世紀に生まれ、動力技術が18世紀後半に花開いたという史実を認めつつ、「史的確認にとって後のもの、つまり現代技術のほうが、それのうちで支配している本質という点においては歴史的により早い」と言う。ここには、著者の科学と技術を貫く深い洞察がある。
 
 読み進むと「現代技術の本質は、われわれが集-立と名づけるものにおいて示されている」という一文に出会う。「集-立」って何だろう。そう思って、定義らしい記述を探すと、「集-立とは、現実的なものを用立てというしかたで用象として開蔵するよう人間を調達する、すなわち挑発する、あの立てることを収集するものを意味する」とある。どうしてこうもわざわざ難しい言い回しをするのか、と文句の一つも言いたくなる。
 
 これを僕なりに読み解いてみよう。「開蔵」には「こちらへと-前へと-もたらすこと」という意味合いがあるらしい。「現代技術をくまなく支配している開蔵は、挑発という意味での調達の性格をもっている」(引用では、文中にカッコ書きで添えられた原語表記を省く。以下も)とも書かれているから、頭に浮かぶのは、今日の人間がなにものかから役立つものを引きだすことに急き立てられている姿だ。
 
 これは、自然と人間との関係を変える。たとえば、ライン河は水力発電用に「調達」される。詩的風景と対置される川のありようだ。地面にも同じことが言える。「大地は鉱石のために、鉱石はたとえばウランのために、ウランは破壊あるいは平和利用のために放出されうる原子エネルギーのために調達される」という。「ために」「ために」「ために」……核兵器も原子力発電所もそうした「開蔵」の産物だった。
 
 いや、それだけではない。人間自身も「用立てられる」ことがある。著者は、世に広まった「人的資源」という言葉をその証拠の一つに挙げる。「山番は森で伐採された木を測定する者だが」「今日、彼は木材を利用する産業によって用立てられている」
 
 では、どうして技術が科学に先立つのか。「科学と省察」では、現代科学を「現実的なものにたいして不気味に介入する加工」とみる見解が示される。それは「現実的なものがそのつど、働きをおよぼされたものとして、すなわちある設定された諸原因からの予測可能な諸結果として、提示されるようにする」。この営みは、科学者が「モデル化」と呼ぶ作業と重なって見える。
 
 「不気味に介入する加工」の正体は数理依存らしい。「伝承された言語と技術的な言語」では、近代科学が「自然事象があらかじめ計算可能なものであるためには、あらかじめ自然は対象領域としてどのように投企されなければならないか」という問いに制約されていることを指摘する。このくだりでは、量子仮説の提唱者マックス・プランクが示したとされる次の命題が引かれている。「現実的なものとは、測定されうるものである」
 
 著者は、近代科学の「計算可能な対象性にもとづいて自然を観察し記述する」ところをとらえて「現代技術の一変種かもしれない」という。この視点に立って「自然科学が技術の基礎なのではなく、現代技術のほうが現代科学を支える根本動向なのである」と言い切る。
 
 続く論考「芸術の由来と思索の使命」の表現を借りれば、科学は探究領域の「取り出し方」のところで「算定可能性」に「服属」しているのだ。科学は「計算可能」「算定可能」を最優先に、自然を切りだしているということだろうか。
 
 興味深いのは、著者が1960年代の時点で科学技術を見渡して、もっとも強く関心を寄せているのが情報だということだ。そこには、「算定可能なあらゆる世界事象の根本特徴は制御」とみるサイバネティックスの世界像がある。生命科学で細胞内に「遺伝情報の保管庫」が見つかったことで「確実に予想されるのは、いつの日にか人間を科学的-技術的に生産し繁殖できるようになるだろう、ということである」と踏み込んでいる。
 
 ハイデッガーが生きたのは、現代技術が突っ走った時代だった。「今日の人間は、供給のために自然を挑発せよという要求によって、みずから挑発されているのである」(「伝承された言語と技術的な言語」)という技術批判は、至言と言うべきだろう。
 
 その一方で、この本の科学批判が「計算可能」「算定可能」の束縛を見てとるところに重きを置いているのが、ちょっと物足りない。現代科学は自然界に対する「介入」や「加工」をめぐって、より哲学的な難問を発している。量子力学では、観測という行為が物理世界のありようを変えてしまうようにも見えることだ。その結果、自然科学の世界観に人間の主観をどう位置づけるかが大きなテーマとなっているのである。
 
 いまこそ、科学を語る哲学者の出番なのかもしれない。
 
写真》太陽光を捕らえて灯りに用立てる。防災グッズにも「集-立」の原型があるように思える。
(文と写真・尾関章/通算255回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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