『フランドン農学校の豚』(宮沢賢治著、新潮文庫『新編 風の又三郎』所収)

 今からちょうど20年前、ロンドン駐在を終えて帰ってきたときのことだ。当時の新聞社では「特派員」の業務がまだ仰々しく扱われていたから、帰任後には必ず部長会に出て、ただの挨拶ではない中身のある帰朝報告をするのがならいだった。科学記者だから欧州の原子力事情などについて話すのだろうと大方の部長は予想していたと思われるが、僕が選んだテーマは「動物の権利保護」だった。
 
 欧州メディアでよく見かけるのに、日本ではなじみの薄い言葉は何か。そう考えたとき、真っ先に思い浮かんだのがアニマルライツ、すなわち「動物の権利」だったからだ。もちろん、日本社会の動物愛護精神は海外に引けをとらない。ペットを愛する人、飼い主のいない犬猫を守ろうとする人、野生動物保護に情熱を燃やす人は大勢いる。だが、その活動をメディアが伝えるとき、よく見かける用語は「動物愛護」だ。
 
 ところが、欧州は違う。朝の日課で英国の新聞のページを繰っていると、動物の権利をめぐるニュースが出てこないのが珍しいくらいだった。それは、決して世間話にとどまらない。たとえば、キツネ狩り。猟犬を使ってキツネを追いつめるという英国貴族伝統の娯楽だが、2000年代に入って禁じられた。その禁止法案は、僕がいた1990年代でも英国の議会で盛んに議論されていたのである。
 
 なんだ、動物愛護じゃないか、肩肘張って「権利」というほどのことはないという見方もあるだろう。それなら、ということで僕が書いた記事の一部を引用する。「子牛を英国からフランスへ運ぶ間、水や休憩を十分に与えなかったのは動物虐待の違法行為だとして、英国ノースヨークシャー州の家畜輸出業者が六日、地元裁判所から計一万二千ポンド(約百九十万円)の罰金刑を言い渡された」(朝日新聞1995年1月8日付朝刊)。
 
 記事の後段には「英国では今年に入って、南部の港町で、動物の権利保護運動家らが家畜のフェリー輸送に対する大規模な阻止行動を起こすなど、この問題に大きな関心が集まっている」とある。当時、野生動物だけでなく家畜の権利までが論議の的になっていた。
 
 動物の権利保護運動は20世紀後半、エコロジー思想とともに強まった。それは、生物種の共存を生態系(エコシステム)として重んじる。その極北と言えるのがディープ・エコロジー。「人間以外の生命は、人間にとって有用か否かに関係なく、独立した価値を持っている」(『緑の政治ガイドブック――公正で持続可能な社会をつくる』デレク・ウォール著、白井和宏訳、ちくま新書)という立場だ。ここまで突きつめると「権利」の発想が出てくる。
 
 『緑の政治……』という本は、当欄の前身で「緑の政治思想を本気で考える」と題して紹介したことがある(「文理悠々」2012年11月5日付)。日本ではエコロジー思想を主張する政治勢力が育っていないことを論じた小文だった。「動物の権利」論議の不在もそのことと同根のように思う。では日本には、人間と人間以外の動物との共存を真正面から考える人がいなかったのか。決してそうではない。
 
 今週は、宮沢賢治の短編『フランドン農学校の豚』(『新編 風の又三郎』〈宮沢賢治著、新潮文庫〉所収)。賢治の作品らしく動物が人間のように描かれているが、それだけではない。家畜の立場から人間を逆照射する思考実験にもなっている。
 
 フランドンは、巻末の注解によれば「創作地名」。賢治ならではの無国籍世界だ。ただ本文中に「洗礼を受けた、大学生諸君」といった言葉が出てくるので、素直に読めばキリスト教文化圏での出来事らしい。その地にある農学校に飼われたヨークシャー種(この作品では「ヨークシャイヤ」と表記)の豚が主人公である。農学校長や畜産教師、生徒らが入れ代わり立ち代わり畜舎に出入りして、豚の心を揺さぶっていく。
 
 まずあっけにとられるのは書きだしだ。「〔冒頭原稿一枚?なし〕」とある。公表時、すでに著者の没後でその箇所が散逸していたのだろう。その結果、いきなり「以外の物質は、みなすべて、よくこれを摂取(せっしゅ)して、脂肪(しぼう)若(もし)くは蛋白質(たんぱくしつ)となし、その体内に蓄積(ちくせき)す」という科学文献らしきものの引用から入る。これがかえって、家畜が人間にとってどんな存在かを鮮明に印象づける。
 
 ひと言でいえば、栄養製造機のように扱われているということだ。生徒の一人は、豚が水や餌を「いちばん上等な、脂肪や肉にこしらえる」ことを理由に「豚のからだはまあたとえば生きた一つの触媒(しょくばい)だ。白金と同じことなのだ」と言ってのける。これを聞いた豚は、白金の単価に自らの体重を掛け合わせて自分の値打ちをはじきだし、「第一流の紳士(しんし)」並みだと幸福感に浸る。笑うに笑えない話だ。
 
 もちろん、不安感も募ってくる。教師は「やる前の日には、なんにも飼料(しりょう)をやらんでくれ」と助手に命じ、生徒たちは「早いといいなあ、囲って置いた葱(ねぎ)だって、あんまり永いと凍(こお)っちまう」「馬鈴薯(ばれいしょ)もしまってあるだろう」「三斗(と)しまってある。とても僕たちだけで食べられるもんか」と口々に言う。豚は「やる前の日って何だろう」「一体おれと葱と、何の関係があるだろう」と疑心暗鬼になる。
 
 この短編がすごいのは、ただの家畜残酷物語に終わっていないところにある。フランドン農学校のある国では、そのころ「家畜撲殺(ぼくさつ)同意調印法」ができていた。この法律は、「家畜を殺そうというものは、その家畜から死亡承諾書(しょうだくしょ)を受け取ること」と定め、そこに「家畜の調印」を求める内容だ。動物の権利が文書によって守られていたと言えないこともない。
 
 校長が用意した書面はこうだ。「私儀(ぎ)永々御恩顧(ごおんこ)の次第(しだい)に有之候儘(これありそうろうまま)、御都合(ごつごう)により、何時(いつ)にても死亡仕(つかまつ)るべく候」。見かけはもっともらしいが、これではいいなりではないか。「御都合により、何時にても」は、権利の放棄にほかならない。僕たちも、ネットで長文の約款をざっと見て「同意」欄にチェックを入れがちだが、クリック前の熟読は欠かせないなとつくづく思う。
 
 校長が豚を口説く言葉も、さもありなんだ。「実は今日はお前と、内内相談に来たのだがね」「この世界に生きてるものは、みんな死ななけぁいかんのだ。実際もうどんなもんでも死ぬんだよ」と、まずはじわじわと一般論で攻める。そうしておいて「私たちの学校では、お前を今日まで養って来た」「まあ私の処(ところ)ぐらい、待遇(たいぐう)のよい処はない」と恩に着せる。管理職必携のリストラ通告マニュアルを地でいく展開ではないか。
 
 そして、書面を見せて本題に入る。「つまりお前はどうせ死ななけぁいかないからその死ぬときはもう潔(いさぎよ)く、いつでも死にますと斯う云うことで、一向何でもないことさ」と追いつめ、「死ななくてもいいうちは、一向死ぬことも要(い)らないよ」と宥めすかす。ただ、押印を迫られた豚もなかなかだ。「何時にてもということは、今日でもということですか」と切り返す。校長はいったん引き下がるが、教師はあくまで強硬で……。
 
 賢治には菜食志向があったらしいが、この作品はただの肉食批判ではない。動物の権利保護が避けて通れない難題を教えてくれる。権利とは、人類という同一種の内側で培われた概念だ。法律や契約によって制度化されている。同じしくみを家畜に対して用いようとしても、それはあらかじめ「栄養製造機」として用立てられているのだから、うまくいかない。現実世界では、家畜が人の言葉を解さず人も家畜の心を読めないのだから、なおさらだ。
 
 ディープ・エコロジーに立脚して、人間以外の生命の「価値」を重んずるとしても、その「権利」をどう守るかの答えは見えてこない。エコロジー思想の基本精神には僕も共鳴するが、それが未解決の問いをはらんでいるのは確かだ。だからこそ、この問題では日本からのメッセージがあってよい。異なる食文化、異なる宗教を背景にした動物観や生命観、自然観を持ち寄ることで、僕たちはどうにか人類が共有可能な最適解に近づけるのだろう。
 
 賢治は、その一助となる発信をエコロジーの台頭よりも早く試みていたのである。
 
写真》岩手県花巻で買った宮沢賢治にちなむコースター。賢治の世界に動物たちは欠かせない。
(文と写真・尾関章/通算257回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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コメント
<<人間は権利というものをたまたま概念化しているけれど、言語化できない動物にも本来そなわっているものであるということになるかもしれません>>(虫さん)
なるほど。人間以外の動物にも「権利」がアプリオリに備わっているとみるべきかもしれない。このことは否定できないですね。
問題は、その権利が種の垣根を超えても有効かというところにあるのではないでしょうか。エコロジーは、一方で人間以外の種の尊重を言い、もう一方で食物連鎖を組み込んだ生態系の保護を言う。ここに最大の悩みがあるのではないか、と僕は思っています。
  • by 尾関章
  • 2015/04/01 11:03 PM
尾関さん

今回のブログも興味深く拝読いたしました。
さて、動物行動学、特に動物と人間の行動比較に関する情報を最近よく見聞きします。中でも特長的に感じるのは、単なる表面的な行動の比較にとどまらずに「心理面」とでも呼ぶべき側面に切り込んだ話が多いことです。比較の対象としては霊長類の「ボノボさん」などが活躍していますね。人間の道徳性の起源を「ボノボさん」の群の観察から説き起こした「道徳性の起源:ボノボが教えてくれること」という本も昨年出版されています。
この流れで明白な特徴は「人間は特別な存在ではない」という視点です。生物の個体が群を構成して生活するとき、そこには社会性や個体間のルールが生まれ、人間はそれらのルールなどを概念化してはいるものの所詮は動物に過ぎないというわけです。
さて、動物の権利。上記の視点からすれば、人間は権利というものをたまたま概念化しているけれど、言語化できない動物にも本来そなわっているものであるということになるかもしれません。権利は人間が動物に付与するものではなく、動物には元々権利というものがあるから人間にもあるのであって、そのことは「ボノボさん」が教えてくれます、ということになるわけです。
  • by 虫
  • 2015/04/01 6:42 PM
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