『現代語訳 方丈記』(佐藤春夫著、岩波現代文庫)

 「本読みby chance」も春夏秋冬を一巡して2年目に入る。もともと当欄は、僕がまだ朝日新聞社にいたころ、読者向け会員制サイトの記者ブログ「本読みナビ」として始まり、やがてブック・アサヒ・コムの「文理悠々」に衣替えした。その後、退職から半年ほどたった去年4月、今の個人ブログとなって再出発したのである。お店ふうに言えばSince2010。その5年間に2回、看板を掛けかえたことになる。
 
 看板を代えながらも、なぜ続けてきたのか。それはたぶん、自分を自分につなぎたいという思いがあったからだ。同じ会社で何十年も働いた人は定年前後に安定が崩れ、いきなり別世界に移ることを強いられる。僕自身、新聞社との関係では正社員記者から再雇用記者となり、最後は一読者に戻った。その移ろいの痕跡が看板の掛けかえだとも言える。そして、そんな状況下でも自分は自分でありつづけたいという志の証しが、当欄の継続だった。
 
 定年で自己同一性にゆらぎを感じたのは、僕たちの世代が日本社会に強かった終身雇用制に守られてきたからだ。今は違う。若い世代では、同じ勤め先に居続けることを疑わない人が少数派だろう。転職しなくとも、会社が同じかたちで半世紀も生き延びるとは考えにくい。だから、若くして移ろいの感覚を身につけ、仕事環境が一変するシナリオも将来図の一つに組み込んでいることだろう。この感覚のほうが日本の精神風土に近い、と僕は思う。
 
 たとえば、建築事情がそうだ。日本の建物は木造がキホンなので、町々は幾度となく大火を経験してきた。東京について言えば、20世紀に限っても、1923年の関東大震災と1945年の大空襲で広大な地域が焼き尽された。ただ、それだけではない。鉄とコンクリートの時代に入っても、短命に終わるビルは多い。建物は更新して当たり前という意識が人々の心に浸透しているのだろう。
 
 空襲を免れた商店街でも、戦前の匂いを残す看板建築が、肩身が狭そうにペンシルビルの間に挟まれている。農村でも、古民家がモデルハウスのような家と隣り合わせでたたずんでいる。建物は、ときどきの思惑とデザインで建てかえていくというのが日本流なのだろう。
 
 高度成長期、僕が通学で電車に乗っていたころ、乗り換えで通るターミナル駅は常時工事中だったという記憶がある。一つの改修が終わっても、知らないうちに次の改修が始まっているという感じで、いつになったら完成形が現われるのだろうかと訝ったものだ。工事の合間にいったん小康が訪れても、次はあの古くなったところにとりかかるんだなと、僕たち乗客のほうが予感していた。
 
 これは、バルセロナのサグラダ・ファミリアが長い歳月をかけて建築工事を続けているのとは似て非なるものだ。あちらには、完工のゴールがある。こちらは、ただただ建てかえていく。まさに僕たちは移ろいの文化の只中に生きているのである。
 
 で、今週は世の無常を綴った鴨長明の『方丈記』。ただし、僕は古文が苦手なので、これを今年3月刊行の『現代語訳 方丈記』(佐藤春夫著、岩波現代文庫)に収められた佐藤訳の現代文で読む。底本は、佐藤が1937年、『浄土』という雑誌に『通俗方丈記』と題して連載したものだという。書きだしは「河の流れは常に絶える事がなく、しかも流れ行く河の水は移り変って絶間がない」。とても平明な文章になっている。
 
 さて、その冒頭段落にいきなり出てくるのが、家屋の話である。「昔の儘(まま)に現在までも続いていると云う住家は殆(ほと)んどなく、極めて稀(まれ)に昔の美しさのある物を発見するのが頗(すこぶ)る難しい」。この記述を最近の新聞コラムで見かけたと偽っても、だれも疑わないだろう。平安から鎌倉にかけての建築のはかなさが現代のそれに通じているのは間違いない。
 
 これは、ハードウェアにとどまらない。人の世も同様だ。次の一節は、里帰りでもしたときの体験だろうか。「昔からの知り合いは居ないものかと見て見るとそうした人は中々に見付ける事が出来なくて、所も昔の儘の所であるのに、又そこに住んでいる人々も昔の様に多数の人々が住んでいるに拘(かかわ)らず、十人の中僅(わずか)に二、三人しか見出す事が出来ない有様」。この点では、日本社会はもともと流動性が高かったのである。
 
 その背景にあるのは、僕たちの祖先が災害列島に生きてきたという史実だろう。『方丈記』を読んで驚くのは、京都一帯を襲った災厄の多さとその激しさだ。列挙すれば、1177(安元3)年の大嵐とそれに伴う大火、1180(治承4)年の大旋風、養和年間(1181〜82年)の異常気象による飢饉……そして1182(養和2)年には、人々が「飢饉で弱っている」ところに「疫病の難」が追い討ちをかけた。
 
 このうち、安元3年の大火はどうだったか。「燃え上った火炎は折からの突風に煽(あ)おられ煽おられて、それこそ扇を広げた様な型になって末ひろがりに広がって行った」「吹き付けて来る煙に巻き込まれた人は呼吸を止められてパッタリと倒れ、人事不省になり、又吹き付ける火災にその身を巻き込まれた人々は直にその場で貴い一命を奪われてしまう事も頻多であった」
 
 こうした惨状を縷々綴った後、「一朝にして灰となる運命も知らぬげに、自分の住家に、大層なお金を掛けて、ああでもない、こうでもないと色々と苦心して、建てる事程間抜けな愚かしい事はないとしみじみと思い当った」と、諦観の境地に達するのである。
 
 震災の記述もある。何年かは記されていないが、『理科年表』(国立天文台編、丸善)に照らすと1185(元暦2)年の大地震らしい。「大きな山は地震の為に崩れて来て、下に流れている河を埋めてしまったり、海の水は逆行して岸辺に上り、更に人の住家のある所まで流れて来たりした程であった」。余震も3カ月ほど続いたという。活断層もプレートも知らず、地震のしくみが不透明な時代、大地が動く怖さは想像を絶するものがあっただろう。
 
 こんな無常観のもとで長明が京都郊外の丘陵に建てたのが「僅かに一丈四方」の庵だった。間口奥行きともに約3m、どこでも組み立てられるプレファブ式。それは「家族の為」「主君や、師匠の為」ではなく、「見栄の為」でも「財産や宝物を入れる為」でもない家だ。自らが独り身であることに触れて「現在の私の建物は純粋に私自身の為」と言い切る。なんと強い「個」の主張か。僕はそこに、近代の自我を先取りした中世知識人の姿をみる。
 
 ただ、長明は決して孤独ではなかった。たとえば、山麓には山番が住んでいて、その家の子どもと一緒に山歩きを楽しんだ。草花を採ったり、芹を摘んだり、峰に登ったり。歳の差はあっても「全くの好い友達同志」だった。時間軸を過去に延ばせば、旧友との友情も大事にした。「月の美しく冴え渡った夜には」「古い友達の事を思い出しながら」「思わずも涙の眼に浮ぶ事さえもある」と綴っている。彼の心には、いつも他者の存在があった。
 
 その他者の重んじ方がとてもリベラルだ。「京からの時々の風の便りに貴い身分の人達の多くが亡くなられたと云う事を聞くことがあるのだが、それと同じ様に身分の賤しい人々も沢山に死んでいる事であろうと思われる」という思いめぐらせは、中世離れしている。
 
 使用人を雇うかどうかを語るくだりも興味深い。求職者は高給を望み、「何でもお金になる所へのみ行きたがっている」と分析して、「使用人を使わずに自分自身を使用人にする」という生き方を奨励する。「牛車」などを仕立ててあれこれ気遣いをするよりも「自分の足で歩く」ほうが楽だというのだ。このあとに書かれる「藤の衣、麻の夜具」などの勧めと併せて、エコロジー思想の先取りまで見てしまうのは買い被り過ぎか。
 
 この本に収められた『兼好と長明と』で、佐藤は『方丈記』と吉田兼好の『徒然草』が「青年受験学生が必読の書」とされたのは間違いだと言っている。大人が読んでこそ有意義ということか。自身、「改めて精読する機会を得てはじめてその真価を知った」という。
 
 日本中世の「河の流れ」が、近代の個とリベラリズムに至る水脈に思えてきた。
 
写真》長明は3m×3mの正方形に座して、移ろいの世界観を深めた。
(執筆撮影・尾関章、通算258回

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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コメント
《佐鳴台に暮らす私は、狭いわが住居を「佐鳴台方丈庵」と称しています》(井上正男さん)
うらやましい限りです。
「上記アドレス」とありますが、commentsの枠内にお書きにならないと表示されないようです。お読みになりたい方は「左側のない男」「方丈記」と打ち込んで検索すると、井上さんの文章「人生80歳、3者3様……」に出会えます。
  • by 尾関章
  • 2015/04/09 6:04 PM
浜松の佐鳴湖のほとりの高台に暮らす井上正男です。国士舘大シンポではお世話になりました。ブログの最新版「方丈記」拝見。私のブログ「左側のない男」でも、上記アドレスに方丈記について書きました。読み比べてとても楽しい気分になりました。佐鳴台に暮らす私は、狭いわが住居を「佐鳴台方丈庵」と称しています。さしずめ「左側のない男」は現代方丈記です(笑い)。私の方丈記は、ブログにもありますが「新井満 自由訳」(発行デコ)です。
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