『緋色の研究』(コナン・ドイル著、延原謙訳、新潮文庫)
写真》英国と言えば、ティータイムのスコーン

 ちょっと前の話だが、郵便局の窓口で叱られた。米国へのエアメールを出しにいったときのことだ。封筒に宛て先の住所を書いて、最後の国名を「US」としておいた。局員は「ユーエス? アメリカでしょ」と言って、自らの手でAの字を加えてしまった。僕はちょっとムッとして「ユーエスでもいいと思うけどな」とつぶやいたが、あとで反省した。USAのAを節約したのは、ほんの出来心の粋がりだったのかもしれない。
 
 理屈をこねれば、英国はどうなんだ、とは言える。正式の略記はthe U.K.で、the UKとされることも多い。いずれにしても、後ろにあるof Great Britain and Northern Irelandはどこかに消えている。UKGBNIでは手に余るということだろう。
 
 エアメールの宛て先をどうするかはともかく、いまの世の中、米国はUS、英国はUKでふつうは通る。たとえば、欧米には“UK−US relations”とか“UK−US relationship”とかいう言葉がある。英米関係のことだ。見かけるたびに、この二つの国には余所者が入り込めない絆があるんだなと感じたものだ。同じ英語を話す間柄じゃないか、合衆国と言えばわかるよね、連合王国と言えば十分だ――そんな以心伝心が透けて見えてくる。
 
 このことは3年前、当欄の前身「文理悠々」でも話題にしたことがある(「マリリンの孤独、米英の微妙な関係」2012年3月23日付)。『マリリン・モンロー 7日間の恋』(コリン・クラーク著、務台夏子訳、新潮文庫)という本で、米国の人気女優マリリンは英国で疎外感を抱く。僕は、“UK−US relations”には「不用意に割って入れないな」と思わせる響きがあるが「英国人と米国人の間には相互反発もある」と書いた。
 
 両国関係は、近親感の強さという一点では不動だが、内実は大きく変わった。かつて七つの海に覇権を広げた英国は欧州の一角で穏やかに生きる成熟国家となり、その植民地から独り立ちした米国は今、抜きん出た超大国として存在感を誇示している。そのことに気づくと、力関係が逆転する前の“UK−US relations”をちょっと覗いてみたくなる。そこには、僕たちの同時代史を解く鍵があるかもしれない。
 
 で、今週は『緋色の研究』(コナン・ドイル著、延原謙訳、新潮文庫)。シャーロック・ホームズのシリーズ第1作だ。まずはロンドンで事件が起こるが、半ばを過ぎて舞台が米国へ移る。このように物語の展開に触れるのは、ミステリーなのでなるべく控えたいが、この作品には特別な事情がある。文庫本版元の編集部が扉の裏で、中身を読みはじめる前の読者に向け、後半部分にかかわる異例のおことわりを載せているのである。
 
 「本書のモルモン教会(末日聖徒イエス・キリスト教会)に係わる描写には事実と乖離したものが散見されますが、本作品が十九世紀末に書かれたものであること、またフィクションであることから原文のままといたしました」。このあと、事実と食い違う点が列挙されている。これを読むと、どんな筋書きが用意されているかがぼんやりとわかってしまうが、それでも事前に誤りを正したわけだ。きわめて妥当な判断と言えよう。
 
 人々の信仰心と表現の自由との関係は、いまも議論の的になっている。もちろん、事実誤認はNGだ。ただ、ある時代にある宗教が遠隔の地でどれほど偏見に曝されていたかは記憶にとどめておくべきだろう。先人の過ちを知るのも、古典に触れる意義の一つである。
 
 横道にそれるが、この作品には、今ならNGの話が宗教とは別のところでもある。ホームズが、殺人の犯行現場で見つかった丸薬に関心を寄せるくだり。ベーカー街の下宿で、相棒のワトスン博士に向かって言う。「すまないけれど下へいって、テリヤをつれてきてくれないか。あの犬はだいぶ前から病気のようだが、もういよいよだめだとみえて、昨日も主婦(おかみ)が君に、早く楽にしてやってくれと頼(たの)んでいたようじゃないか」
 
 ここでホームズは、丸薬の成分を犬に舐めさせる。たとえ飼い主に安楽死の意向があったにしても、それに便乗して毒物の判定をペット犬で試みるのは残酷に過ぎないか。英国は動物の権利にもっとも敏感な国の一つだが、19世紀末は様相が異なったのである。
 
 その時代、英国人にとって米国はどんな存在だったのか。少なくともドイルの興味を引いたのは、欧州文化が浸透した東海岸よりも西部の大自然だったらしい。この作品でも、米国編といえる「第二部」は「広漠(こうばく)たる北アメリカ大陸の中部地方には、いとうべき荒蕪(こうぶ)不毛の一大砂漠が存在して、多年、文化の進出を阻止(そし)する障壁(しょうへき)をなしてきた」という一文で始まる。
 
 その米国編では、勇敢な青年が恋人とその父を連れ、モルモン教の拠点都市ソルトレークシティーから脱走を企てる。「なにしろ海抜(かいばつ)五千フィートにちかい山なので、寒気がひどく強かったから、岩陰(いわかげ)を選んで枯枝(かれえだ)を集め、それに火をつけて父娘(おやこ)をあたらせた」。そばには馬3頭が繋がれている。ここで僕の脳裏には浮かんだのは、子どものころに観たTVドラマ「ローン・レンジャー」の情景だ。
 
 この青年については、こんな記述もある。「ネヴァダの山中へ銀鉱をさがしにはいっていたのであるが、さがしあてた鉱脈の採掘(さいくつ)に要する資金の調達に、いまソルトレーク市へと帰ってきたところだった」。彼の名はジェファスン・ホープ。アングロサクソン系とみられる開拓者として描かれている。その眼前に広がるのは、資源埋蔵の可能性として存在する「新大陸」だった。
 
 おもしろいのは、米国編冒頭の章の表題が「アルカリ大平原」であることだ。「夏は塩分をふくんだアルカリ質の砂塵(さじん)うずまき、冬は白皚々(はくがいがい)たる雪の平原と化する大平原もある」という叙述にも出会う。なんとも無機質な世界ではないか。
 
 この風景描写は、ホームズの人物素描と呼応している。前段の英国編には、彼の特徴を拾いあげたワトスンのメモが箇条書きで載っている。「文学の知識――ゼロ」「哲学の知識――ゼロ」「天文学の知識――ゼロ」「政治上の知識――微量」。このあと「植物学の知識――不定」とあり、毒草や麻薬などのことは知っているが園芸に疎いことが記されている。そしてもっとも詳しく書き込まれているのが、次の「地質学の知識」だ。
 
 「限られてはいるがきわめて実用的。一見して各種の土壌(どじょう)を識別。散歩後ズボンの跳泥(はね)を小生に示して、その色と粘度(ねんど)によりロンドン市内のどの方面で付いたものかを指摘(してき)したことあり」。このあと「化学の知識――深遠」「解剖学の知識――精確ではあるが組織的ではない」と続く。哲学や天文には興味がなく、地質や化学が大好き。そこにあるのは、世界観あるいは宇宙観よりもモノそのものにこだわる嗜好だ。
 
 ワトスンはあるとき、ホームズが「地動説や太陽系組織をまったく知っていない」と気づいてたしなめる。このときの反論がふるっている。「たとえ地球が月の周囲を回転しているとしても、そんなことで僕の生活や僕の仕事に、なんの変化もおこらないんだからね」。まもなく20世紀に入って、アインシュタインが絶対の静止座標系を否定することを見越していたわけではあるまい。これは、宇宙のしくみ理解の放棄宣言にほかならない。
 
 著者自身が医師であり、ホームズは「病院の化学研究室にいる男」、ワトスンも「元陸軍軍医」としてこのシリーズにデビューする。その作品世界は、当時の理系事情を映していると言えるだろう。19世紀はC・ダーウィンの進化論やJ・C・マクスウェルの電磁気学などによって自然界のしくみがベールを脱いでいったが、同時に元素が次々に見つかる時代でもあった。ホームズは、後者のモノ志向だったと言えよう。
 
 科学は、モノの探査としくみの探究が車の両輪となって進むものだ。僕はホームズファンだが、あえて苦言を呈すれば、土の違いを見分けても宇宙観に無関心というのはバランスを欠いている。そんな「偏った理系」は、モノを求めて地球の隅々に踏み込む大英帝国の思惑と響きあったのではないか。どちらにしても、19世紀末のUKが、植民地を脱したUSになお「新世界」の夢を見ていたらしいことが、ホームズ作品からは感じとれるのである。
(執筆撮影・尾関章、通算260回


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