『物質と記憶』(アンリ・ベルクソン著、合田正人、松本力訳、ちくま学芸文庫)
写真》改行なしの頁も。哲学書は難所だらけ

 
 朝、家を出る。最寄りの駅へ歩いていく。手のひらで胸やズボンのポケットを押さえながら、スマートフォン、ペン、名刺入れ、財布、ハンカチ……と忘れものがないことを確かめる。改札を抜け、電車に飛び乗ったとたん「あっ、玄関ドアに鍵をかけたかな」。そんな不安が急に頭をもたげるということはないか。カチッという音を聴いた気がする。でも、それを証拠づけるものは手もとに一切ない。
 
 歳をとったということか。いや、そうとばかりは言えない。かつて新聞記者だったころ、「確認ぐせ」の話を記事にしたことがある。このとき、同様の不安に襲われる人が年齢を問わず多くいることを知った。病気の域に達すると「強迫神経症」という診断が下るらしい。記事は、読者の悩みに専門医が応える形式だったが、医師に取材しているうちに自分自身が診察を受けているような錯覚に陥ったことを覚えている。
 
 戸締りをしたかどうかが心配になるのは、記憶がとらえどころないからだ。僕たちの手もとには過去の記録が集積されている。新聞、雑誌、本、日記、写真、録音、映像……そして化石、古文書、埋蔵文化財などもある。ところが、人間が頭で覚えていることは曖昧だ。
 
 哲学には、人のありようを心と身体の二本柱でとらえる心身二元論がある。近代合理主義を開いたルネ・デカルトのそれが有名だ。これに対して一元志向もある。心にこそ存在の根源はあるとみる観念論と、心も脳という身体部位が生んだ産物とみる唯物論である。
 
 僕たちの世代が生まれ育ったころは「心も脳の産物」というイメージが強まる一方だった。脳をかたちづくる神経細胞の働きが原子電子のレベルで説明できるようになり、唯物論が説得力をもったのである。ところが、コンピューターが広まって、脳に蓄えられた情報がそっくりITの記憶媒体に転写されるようになった。情報は独立して存在する。そのことがはっきりして、観念論が盛り返してきたようにも思う。
 
 「鍵をかけた」という記憶は、あくまで物質の存在に拠って立つものなのか、それとも物質とは別の自立した存在なのか。この問いは、脳をめぐる物質本位の科学と情報本位の科学がともに深まるなかで、ますます謎めいてきたと言えるだろう。
 
 今週は『物質と記憶』(アンリ・ベルクソン著、合田正人、松本力訳、ちくま学芸文庫)。著者は1859年に生まれ、1941年に没したフランスの哲学者。僕は十代のころ、この人の時間論を断片的にかじって心惹かれた。文系か理系か進路で悩んでいたころ、この世は科学が描くほどのっぺりしていないと教えてくれたのである。それに背いて理系に進み、科学記者になってみると、科学の潮流のほうが「のっぺり」から離脱しつつあった。
 
 そこで、今度はしっかり著者の思想に向かい合おうと思った。ただ、この本は難しい。あとがきにも「『物質と記憶』はしばしばベルクソンの著作のなかでも最も難解なものと言われる。訳者(合田)もそう思う」とある。字面をなぞりつつ、なんとか完走した。
 
 この本が書かれたのは、1896年。近代科学がひと区切りをつけ、20世紀に相対性理論と量子力学が登場するのを待つばかりというタイミングだ。それで驚くのは、著者がこの時点で最新の理系知を取り込んでいたことである。
 
 たとえば、「われわれの意識によって生きられた持続」が「物理学者が語る時間」とは異なることを述べたくだりにこうある。「一秒間に、赤色光線――最大の波長を持ち、したがってその振動が最も振動数の少ない光――は、四百兆の継起的振動を実行している」。光が秒速約30万kmであり、電磁波の一種であるとわかったのは19世紀半ば。著者はそれらを知っていた。毎秒「四百兆」の振動は、その証しだ。
 
 別のところでは「物理学者が光と電磁気の乱れを同一視することができたならば、逆に、ここで電磁気の乱れと呼ばれているものが光であると言うことができる。したがって、視神経が帯電において客観的に知覚するものは、まさに光であるだろう」と書く。細部をどこまで理解していたかはおくとして、視覚に光信号から電気信号への変換が欠かせないことには気づいていたのである。
 
 あるいは、この本では「睡眠には、諸ニューロン間の連帯の中断があると考える最近の仮説」についても言及している。ニューロンは神経細胞のことだ。当時すでに脳を神経細胞のネットワークとみる科学者の見解があり、著者はそれをいち早く吸収していたと言えよう。
 
 さて本題。究極の実在は身体か心か、その両方かという問いだ。著者は、問題の核心をこうえぐる。「通俗的二元論においてにせよ、唯物論においてにせよ、観念論においてにせよ、この問題が引き起こしている困難はすべて、知覚と記憶の現象のなかで、肉体的・物理的なものと精神的なものを、互いが互いの複製(duplicata)であると考えることに由来している」。唯物論で言えば「脳現象がなぜ意識を伴うのか」がわからないというわけだ。
 
 著者は、二元論を「通俗」の域から脱皮させ、それを突きつめて二つの「元」をつなごうと試みる。このときに鍵となるのが「イマージュ」という言葉だ。英語にすればイメージ、心に映る像である。ただ、この本では、ちょっと定義が異なる。「私はイマージュの総体を物質と呼ぶ」(引用部は傍点付き)というのだ。そのイマージュは要素部分を含めて「自然の諸法則」に従うとみているから、物理世界イコール心象体系ということか。
 
 興味深いのは、イマージュ群のなかに例外的存在を認めていることだ。それが「私の身体」である。物質のイマージュが「ある特定のイマージュ、すなわち私の身体の可能的な作用と関係づけられた場合には、それらを物質についての知覚と呼ぶ」(傍点付き)という。
 
 「私が宇宙と呼ぶこのイマージュの総体のなかでは、ある特殊なイマージュ――その典型は私の身体によって私に与えられている――を介することなしには、真に新しいものは何も生みだされえないかのように、すべてが進行しているのである」(傍点付き、文中誤字とみられる箇所は直した)。これが、著者の動的な世界像だ。このなかで人間は、身体という「知覚の中心」「作用の中心」を軸足に自らの行動を選びとる存在として位置づけられる。
 
 ここで関係してくるのが時間論だ。「私が私の現在の知覚について話しているときまさに話されているところの現在」は「数学的な点」ではない。それは「持続」として「私の過去と私の未来に喰い込んでいる」。ここで「私の身体に影響を及ぼす物質と私の身体が影響を及ぼす物質のあいだに置かれた私の身体」は、「行動の中心」として「私の生成の現在の状態、私の持続のなかで形成途中のものを表している」というのである。
 
 「現在の瞬間は、流れつつある塊のなかにわれわれの知覚が作り出すほとんど瞬時的な切断面によって構成されており、この切断面こそまさにわれわれが物質界と呼ぶものである」という一文には、物質のイマージュを身体経由で現在に集中させる構図がある。
 
 では、記憶はどうか。それは、もともと「観念」として想い起こされるが、人間は「現在の行動のために過去の経験を利用する」ので、「役に立ちうるもの」は「物質化」されて「イマージュとなる」。こうして、「過去は純粋想起の状態を離れ、私の現在のある部分と混ざり合う」のである。ここには、心と身体、物質と観念という二項対立をベルクソン流の時間座標に落とし込み、現在の一瞬で化学反応させるダイナミズムがある。
 
 ベルクソンは19世紀科学の攻勢を受けて、現在に物質のイマージュを集めた。IT時代の今、それを情報そのものに置き換える世界像も成立するのではないか。僕はふと、そんなことを思った。
(執筆撮影・尾関章、通算261回)
 
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