『ネットワーク科学――つながりが解き明かす世界のかたち』
(グイド・カルダレリ、ミケーレ・カタンツァロ著、高口太朗訳、増田直紀監訳)
=丸善出版サイエンス・パレット
写真》ネットはおいしい

 友だちが自分よりも先に逝くことはあっても、その逆はない。これは、法則というより定理と呼ぶべきだろう。もし自分が友だちよりも早く死ぬのだとしたら、その死の時点で自身の現世は消滅してしまうはずだからだ。自分が先立って友だちが生き残るという体験はありえない。逆に自分が残って友だちを見送ることは論理として成り立つ。この非対称の掟を思うと、とても悲しくなる。
 
 これは必ずしも、友だちが減っていくことを意味しない。彼ら彼女らが長生きしてくれれば同数を保てる。たとえ、それが叶わず古い友の幾人かを失っても、新しい友を得ることがあるので、生きている限り、友だちの数はふやしていくことができる。
 
 ただ、僕のように60歳超の年代になると、友だちの数がこれから飛躍的に伸びるということは考えにくい。たしかに、地元飲みで立ち寄る近所の店で新しい友を得ることはある。もう少し老いてデイケアにでも連れていかれるようになれば、そこにも友情の種がありうる。それでも、若かったころに進級や進学、あるいは就職や異動のたびに新しい友だちの輪が生まれたようなダイナミズムは望めないだろう。
 
 新聞記者だったころ、僕はいつも人間関係を広げようという強迫観念にとりつかれていたように思う。初めての人に会えば、名刺を交換することに躍起となった。年末になると、年賀状を前年より1通でも多く出そうと心がけた。取材力の指標として、貰った名刺や届いた賀状の枚数を競う気持ちが心のどこかにあったからだ。だが、退職した今、そうした心理に囚われつづける必要はもはやない。
 
 人間関係、とりわけ互いに友人と呼びあう間柄は、多ければ多いほどよいというわけではないのだろう。そこには適量がある。質ということもある。友人つながりの理想形はどんなものか。今週は、そのことを考えさせる一冊を選んだ。『ネットワーク科学――つながりが解き明かす世界のかたち』(グイド・カルダレリ、ミケーレ・カタンツァロ著、高口太朗訳、増田直紀監訳、丸善出版サイエンス・パレット)
 
 新書判。昨春に出た。カルダレリはネットワーク現象の数理解析にあたるイタリアの科学者、カタンツァロはスペインを拠点とする科学ジャーナリスト、訳者はともにネットワーク科学の専門家だ。副題の通り、「つながり」に視点を置く世界像を要約した本である。
 
 ネットワークというと、ビジネスのハウツーに結びつけて論じられがちだ。ヒット商品を生みだすにはどうすればよいか。ヒットなしでも儲けるにはどうすればよいか。インターネット時代の今、商いをするにはネットのしくみを知ることが必須になった。この本にも、そのヒントは満ちている。だが読みようを変えれば、60歳超の安定した友人関係を築く手引きにもなる。僕がすくい取りたいのは、どちらかと言えばそっちのほうだ。
 
 この本を読むには、メートルやキロメートルで測る距離をいったん忘れたほうがよい。それは、難しいことではあるまい。「ニューヨークから送られた電子メールがロンドンのとあるオフィスに届くまでの時間は、その隣のオフィスから送られたメールが届くまでの時間と同じ」という状況に日々さらされているからだ。「ネットワークの考え方は、複雑な対象を頂点と枝による骨組み構造に単純化する」。そこでの遠近は、介在する頂点の数だ。
 
 骨組み構造で、ひと昔前まで科学者が慣れ親しんでいたのは「格子」だ。そこでは頂点が「隣り合う4つのマスとだけつながるチェス盤上の駒のように、規則的なつながりのパターンに沿って配置される」。これに対して、今流のネットワークはデタラメ度が高い。
 
 典型はランダム・グラフ。「枝を結びうるすべての頂点のペア」ごとにコイン投げをして「表が出たら」「枝で結ぶ」という方式で描く。ただこれも、つくり方がある意味で「規則的」だ。現実世界でネットワークができるときには、もっと複雑な要因が働く。たとえば片思い。枝には「一方向にはたどれるが逆行はできない」ものがある。あるいは愛の深さ。その度合いに応じて枝に「重み」が付与されることもある。
 
 網目模様がランダム・グラフほど均一でないものもよく見かける。「少数の頂点がネットワークの枝の大部分を引きつけ、それ以外の多くの頂点は残りの枝を分け合う」というような枝ぶりだ。枝がたくさん出た頂点は「ハブ」と言われたり、「スーパーコネクター」と呼ばれたりする。この本は、そんな頂点の例として「航空網における大空港」や「性的関係ネットワーク」に組み込まれた「性産業に関わる人々」などを挙げている。
 
 興味深いのは、この不均一が「トップダウンの設計図」ではなく「ボトムアップな成長の仕組み」でも生まれることだ。ネットワークに頂点が新しく加わるとき、枝の多い仲間とつながりたがる習性をもたせると、頂点の枝数に最初は小さなばらつきしかなくても最後は大きな格差が生じるという。物理学が専門のA・バラバシとR・アルバートが数値実験で確かめた。こうして富める者はより富み、人気者はますます人気を高める。
 
 ネットワークの落とし穴はここにある。商品であれ作品であれ、ネットに出せば反響がある、あわよくばヒットする、と見込むのは大きな勘違いだ。実相は、ちょっとした違いで雪だるま式に注目を集めるものがたまにある、ということだ。
 
 60歳超は、そんな野望を捨てたほうがよい。パソコンの向こうのネットワークは、それとは別の可能性もはらんでいる。むやみに友だちをつくるのではない。深い親交を求めるのとも違う。もう少し穏やかな人間関係の広げ方がそこにはある。参考になるのは、物理学出身の社会学者D・ワッツと数学者のS・ストロガッツが提示した「スモールワールド」の網目模様だ。それは、規則的な格子にちょっと手を加えるだけで現れる。
 
 頂点を村にたとえよう。用意するのは、一つの村が隣村やそのまた隣の村とだけつきあうという格子構造だ。ここで、1本の枝だけ規則を破って勝手に選んだ村につないでみる。「こうすると突然、村は隣ではなく以前は遠くはなれていた地域と物品を交換できるようになる」。疎遠な村と「近道」が通じたのだ。この作業をさまざまな村の枝で繰り返すと、地元の産物がいくつの村を経て先方に届くかというステップ数の平均値が「劇的に減る」。
 
 世間は、その不規則性ゆえに意外と狭いということだ。友だちの友だち……とたどっていけば、6人ほど先で地球上のどの人物にも行き着けるという「6次の隔たり」の根拠が示されたのである。ワッツが、その狭さを電子メールの転送実験で確かめたこともここに書き添えておこう。村を人に置き換えて考えれば、僕たちは外国人の友だちが一人、二人できるだけで友だちの友だち……を海外にたくさんもてることになる。
 
 著者によると、この小さな世界を生みだす近道は、社会学者のM・グラノベッターが言う「弱い紐帯」とも重なる。「偶然」や「共通の友人」などがもたらす「薄い関係」は侮れず、「新たな社会グループとつながる可能性」を秘めているという。60歳超に必要なのは、そんな緩い紐づけなのかもしれない。僕が当欄を書きつづけるのも、ネットの向こうにそれを期待しているからだ。
 
 最後にとっておきの話。この本は語彙のネットワークもとりあげている。英単語の“pupil”は「生徒」と同時に「瞳」を意味しており、「教育」と「視覚」という「2つの意味的領域をつなぐ」と著者はみる。これも、「近道」の一種というのだ。一つの言葉を聞いて違うことを思い浮かべる人たちがいる。そんな二人が語りあえば、それぞれの世界は不定形に広がっていく。これこそが友だちをもつことの最大の効用かもしれないと僕は思う。
(執筆撮影・尾関章、通算264回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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