『ぼくの東京案内(植草甚一スクラップ・ブック)』(植草甚一著、晶文社)
写真》J・Jはコラージュの素材も集めていた
手前は『世田谷文学館収蔵資料目録3 植草甚一関連資料』の一部

 小田急は東京西郊に伸びる私鉄の一つだ。新宿から各駅停車に乗ると、10番目で経堂という駅に停まる。世田谷のほぼ真ん中だが、下北沢の賑わいはない。成城のようなセレブ感もない。かつて首相私邸の所在地として全国銘柄になりかけたが、その政治家もきわめて地味だった。昔の農道がそのまま路地になったのだろう。入り組んだ道に、さほど大きくもなく小さくもない家々が並ぶ。ハレではなくケ、祝祭より日常の町である。
 
 なぜ、こんな話をグダグダと書いたのか。一つには経堂が、僕にとってかけがえのない故郷だからだ。と同時に、今週焦点をあてる本の著者が晩年に暮らし、こよなく愛した町だからでもある。その人は植草甚一、愛称J・J。1908年に生まれ、79年に没した。映画が好き、ミステリーが好き、ジャズに惚れ込み、散歩に耽った文筆家である。僕は大のJ・Jファンで、当欄の前身でも彼の伝記彼自身のエッセイ集を話題にしてきた。
 
 J・Jは1960〜70年代、当時の僕の家からほんの数百メートルのところに住んでいた。だから、見かけたのも一度や二度ではない。裏通りの古本屋で、あるいは駅の構内で。長髪、あごひげ、粋な上着に派手なシャツ、肩からバッグを垂らしている。忘れられないのは電車のなか、座席のわずかなすき間にお尻をねじ込む姿だ。そうやって陣地を確保してから、ゆっくりと本を開く。愛嬌のある爺さんという感じだった。
 
 そのJ・Jの足跡をたどる「植草甚一スクラップ・ブック」という回顧展が今、世田谷文学館で催されている(7月5日まで、月曜休館、最寄り駅は京王線芦花公園)。さっそく、のぞいてみた。展示でおもしろかったのは、「ぼく自身の過去と現在」という書きかけの原稿。僕の古巣、朝日新聞でコラムを執筆していた1960年代前半の話が出てくる。後段を読んで、思わず苦笑いした。朝日の人はモダンジャズに冷淡だというのだ。
 
 僕が記者になった1970年代は社内にジャズファンが大勢いて、石を投げれば当たるほどだった。だが、60年安保が過ぎたころは様子が違ったようだ。一つの文化ジャンルがサブカルチャーにとどまっているうちはあまり食指を動かさず、知識人公認になると急に興味を示す。そんな傾向が朝日新聞にはあるのだろう。それと真反対なのが、J・Jだったとも言える。で、今回は『ぼくの東京案内』(植草甚一著、晶文社)。
 
 この本は、「植草甚一スクラップ・ブック」というシリーズのNo.19。1950年代後半から70年代半ばまでに新聞、雑誌に載ったエッセイや本の解説文などを収めている。新聞は一般紙からスポーツ紙まで、雑誌も総合誌から週刊誌まで、と多彩だ。『高二コース』という懐かしい誌名もある。並べ方が時系列ではないので、読者は唐突なタイムスリップに戸惑うが、そんな行ったり来たりもJ・J流の気ままな散歩を彷彿させてくれる。
 
 冒頭2編目「経堂から新宿への繁華街を歩くとき」(初出『造』1969年10月号)は、地元話が満載だ。「経堂は、昭和四年だったかに小田急が開通し、その前後に住宅や商店が、いいかげんな場所に建てられたとみえて、まっすぐな通りがない」。ひとこと添えると、小田急電鉄のウェブサイトには、この区間の運行開始が1927(昭和2)年とある。インターネットのない時代、著者は記憶のままに筆を進めていたのか。その誤差もJ・Jらしい。
 
 「なんの気なしに歩いていると、まっすぐになっているような気がするが、どの通りも斜めになっているので、うっかり路地を曲ると、もとの場所に戻ってしまうし、ひとつ先の路地を曲ると袋小路になっているので引き返さなければならない」「その斜めの道が、経堂一丁目から五丁目にかけての丸っぽい小地域のなかで、どんなふうに接続しているのか、頭のなかで考えても、途中で厭になってしまうくらいゴチャついているのだった」
 
 この町の魅力も欠点も迷路性にあることを見抜いた描写だ。それは、僕の原風景とも重なる。著者は、町内地図を開いて色鉛筆をとる。「東西南北へと、いつもブラつく商店街を塗り分けてみると、八種類の色になった」。それらの通りが「三年たっても倦きないでブラつけるのは、かならず何か買うものが目につく」からだ。地元の店をのぞいて回る散歩は「一時間半はたっぷりかかる」ほどで、彼の日課の中心にあったらしい。
 
 「幻想の新宿散歩」(初出『新宿プレイマップ』1970年1月号)という一編にも、「何か売ってない通りを歩いているときは、ただ空気をすっているだけで、すこしも面白くないが、繁華街を歩きながら、なにかしら買って帰ってくると、気持がリラックスしていることを発見した」とある。裏を返せば、道ゆく人の足をとめて「飾った商品を買わせてしまう」吸引力こそが「都会の第一条件」ということになる。

 こうして著者は、経堂を起点に新宿や渋谷、青山、六本木界隈などへ出る。新宿への足は小田急電車だ。その途上の話。「新宿ゆきの小田急に乗ると、かならず途中駅で急行を通過させるために三分以上待たされる。すると待たされついでに、あともゆっくり行こうということになり、そうなると終点の改札口を出てから小田急デパートのエスカレーターに乗って上っていくまで、気持はリラックスしてくる」(前出「経堂から……」)
 
 小田急線は今、代々木上原から登戸まで複々線となったが、それまでは各駅停車に乗ると急行や特急の通過待ちを強いられることが多かった。ふつうならイライラが募るはずだが、「待たされついでに、あともゆっくり」となるところにJ・J精神のゆとりが見える。
 
 当時、経堂から渋谷へは三軒茶屋経由のバスもあった。著者は、これで気まぐれな途中下車を楽しんでいたらしい。たとえば、池尻という目立たない町。「だだっ広い灰色の舗装道路が、殺風景にひろがり、その両側を見ると、安っぽい感じの新築ビルが、あたりの低い建物のせいか、いくつも浮かびあがって見えたりし、そういったパースペクティヴが、なんの装飾もないことから、無生物的な風景となって目に入ってくるのだ」(「経堂から……」)
 
 「殺風景」「安っぽい」「無生物的」、そして、このすぐあとに「間が抜けた」という形容もある。決して、おしゃれな散歩道ではない。かと言って、廃墟のような荒涼感もない。そんなふつうの町の気だるい素顔に惹かれ、足を向けてしまうのがJ・J流散歩だ。
 
 好奇心はあちこちに向かう。「バスと陸橋」(初出不明)は、「歩道橋」が目新しかったころの話。バスでくぐり抜けながら「歩橋」という言葉を思いつくが、車掌に呼び名を聞くと「陸橋です」。あとで正解を知って自分の命名のほうが「いくらか正しかった」と悦に入る。
 
 ありふれたものになにかを見いだす観察眼は、「新宿・ジャズ・若者」で新宿西口を描いたくだりにも見てとれる。宵の口のビル街は、著者の目にこう映る(初出『朝日新聞』1970年11〜12月の連載寄稿)。
 
 「むこうのほう、銀行が並んでいるビル上層の事務所では、まだ仕事中だとみえ、たいていの窓が白く光っていて、こっちがわの強い光とのあいだに、暗くて広い空間がひろがっているのだ。それは東口のほうの夜のイメージと比較させるぐあいのもので、ちがった二つの新宿があることを、あらためて認識させる」――その筆致から、無機質な都市空間の光と闇を鋭敏に感じとっていることがわかる。
 
 1970年と言えば、新宿は芝居であれ、映画であれ、音楽であれ、対抗文化(カウンター・カルチャー)の発信拠点となっていた。著者も、その空気を吸いにやってきたのだろう。ただひとつ言えるのは、対抗文化志向の人々には、東口の喧騒にどっぷり浸かっても西口のオフィス街には無関心な人が多かったが、彼は両にらみだったということだ。ここにも、時代を超越したJ・J精神が顔をのぞかせる。
 
 ケの町を愛したJ・Jは、ハレの町にもケを見ることを忘れなかった。高度成長やバブル経済が遠い昔となった今、それはとても賢明な散歩術に思える。
(執筆撮影・尾関章、通算265回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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コメント
<<ブラックホールに吸い込まれるようにこのトンネルを抜けてホワイトホールに吐き出される>>(虫さん)
しばらく通ったことがないけれど、ネット情報を漁ると今もあるみたいですね。
たしかに、あの通路は二つの世界を行き来できる抜け道と言っていい。狭い意味では、食いものの匂いのする台所と、よそゆき顔の表玄関を結び、視野を広くとれば、西口のビジネス空間と東口のエンタメ空間をつないでいる。駅という「儀式」の場を経ずしてトリップできる、という感じでしょうか。
  • by 尾関章
  • 2015/05/26 7:27 AM
「不思議なトンネルのこと」

現在、新宿駅西口の先に拡がる風景は林立する超高層ビル街となっています。淀橋浄水場跡地のこの地域の超高層ビル第一号は京王プラザホテルで、その竣工は1971年でした。「新宿・ジャズ・若者」の初出が1970年の11月〜12月とありますから、宵の口の新宿西口広場を眺めた植草さんの眼には、まだ上棟前で鉄骨姿の京王プラザホテルは闇に紛れて見えなかったかもしれませんね(上棟は1971年4月)。
その後、1974年に新宿住友ビル(通称住友三角ビル)、新宿三井ビルが相次いで竣工・オープン。ビル上層部のレストラン街をお目当てにした人々で新宿の人の流れに変化が起きました。
私も時々行きました。超高層のほぼ最上階で東京の街を眺めながら食事をするという経験は、ちょっとした『ハレ』の時ではありましたが、『ライフスタイルのハレ』とでも言いますか、東口側で起きていた『カウンターカルチャーのハレ』とは異質で、力も弱かったように思います。
西口側ではその後も超高層ビルが建設され都庁も建ちましたが、結局は、植草さんの見た宵の口のビル街がその地域を拡大し、高さを増しただけで『ケ』の空間のまま現在に至っているように思います。
そしてトンネルの話。植草さんが「新宿・ジャズ・若者」を書いていた頃、新宿の『ケ』から『ハレ』に抜ける不思議なルートがありました(多分今でもあるでしょう、物理的には)。小田急デパートの西口を出てデパート沿いに青梅街道に向かって歩き、最初の角を曲がると、ジーンズ、効果の疑わしいサングラス、あるいはブロマイドなどを売っている小路に入ります。そして左手に『思い出横丁』のあるこの小路を突き当たって右に曲がるとそのトンネルの入り口に至ります。トンネルの長さはおよそ50mはあると思いますが、幅はせいぜい4m、天井は長身の人なら手が届くような高さ(そのコンクリート天井の上には国鉄の中央本線、山手線が走っているのです)。
ブラックホールに吸い込まれるようにこのトンネルを抜けてホワイトホールに吐き出されると、そこには田辺茂一が健在であった紀伊国屋書店があり、喫茶店のトップスがあり、カウンター・カルチャーの『ハレ』の空気が充満していたわけです。
植草さんもこのトンネルをスタスタと歩いて抜けたことでしょう。当時のトンネルについて、そしてその性格が曖昧になってしまった現在の新宿東口側について、植草さんが健在であれば何と語ったか、興味のあるところです。
懐かしさゆえ、つい長々と書いてしまいました。ご容赦を。
  • by 虫
  • 2015/05/25 6:30 PM
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