『ラーメン屋vs.マクドナルド――エコノミストが読み解く日米の深層』
(竹中正治著、新潮新書)
写真》ああ、ハンバーガー


 気楽に見ていられるニュースは世の中にそう多くはない。最近では、全国唯一の無スタバ状態をウリにしていた鳥取県がその看板を下ろさざるを得なくなったという話がこれにあたる。ふつうなら、大手外食チェーンのスターバックスコーヒージャパンが過疎の県にも進出したというだけの経済短信だ。ところが今回は、これにテレビまで飛びついた。事件事故のように深刻ではない。だが、ものを考えるきっかけにはなる話題だった。
 
 鳥取県の戦略は、無スタバを逆手にとって名所の砂丘を「スナバ」と呼び、町おこしの合言葉にすることだった。たとえば「すなば珈琲」という喫茶店。その踏み台が外されたわけだが、スタバ対スナバの構図を世の中に強く印象づけたのだから、ひとまず成功と言える。
 
 僕がおもしろいと思ったのは、スタバ出店の前日に石破茂・地方創生相が会見で漏らした感慨だ。鳥取県出身の政治家であり、しかも町おこしは担務なので、関心事に違いない。テレビニュースの記憶や朝日新聞デジタル(2015年5月22日付)の記事をもとに要約すると、こうなる。自分も大手ハンバーガーチェーンなどが地元に来たときはうれしかった。だが、そこに行かなければないモノ、会えない人、享受できないサービスもある――。
 
 石破さんは1957年生まれ、外食チェーンの全国展開が始まったころは10代の青春期に重なる。郷里の町でアメリカの匂いがいっぱいのハンバーガーをかじったのなら、きっと胸が高鳴ったことだろう。「うれしかった」のひと言には実感がこもる。僕も70年代半ば、都内でケンタッキーフライドチキンの店に初めて入り、コールスローを食べた瞬間、ガラス越しの東京がアメリカの町に変わったように感じたものだ。
 
 あのころ米国渡来の外食チェーンは、ハンバーガーであれ、フライドチキンであれ、ドーナツであれ、コーヒーであれ、その食べものや飲みものそのものよりも、食べ方や飲み方の新しさで僕たちを魅了した。店内は窓を大きくとって明るく、余計な飾りを排して機能本位だ。客はカウンターで注文を伝え、支払いを済ませて品物を受けとる。座席は、店員の干渉がない飲食空間としてある。そんなアメリカ流の食のスタイルが新鮮だったのである。
 
 だが、それはすっかりありふれた光景になってしまった。最大の理由は、今の大人が子どものころにファストフードに馴染んで育った世代だからだ。馴染むという域を超え、依存状態に近かった人も多いだろう。食のスタイルには、もはや付加価値を見いだせない。だから昔ながらの飲食店も、味の個性や店の雰囲気で大手チェーンと勝負できる。スタバ対スナバの構図は、スナバ側にとって決して分が悪いものではなくなったのである。
 
 さて、その大手の代表格、日本マクドナルドホールディングスが今春、厳しい業績見通しを発表した。朝日新聞デジタル(2015年4月17日付)によると、15年12月期は「01年の上場以来、最悪」と予想されているという。背景には、昨夏に中国の仕入れ先で期限切れの鶏肉が使われていたことがわかり、さらに商品への異物混入が次々と見つかったことがある。だが、その影響だけではあるまい。大手チェーンは昔ほどには強くない。
 
 で今週は、『ラーメン屋vs.マクドナルド――エコノミストが読み解く日米の深層』(竹中正治著、新潮新書)。2008年9月に出た本だ。著者は銀行出身のエコノミストであり、在米経験を生かして幅広く日米の経済や文化を比べている。中古本ショップで背表紙に惹かれて買ったのだが、読んでみるとマクドナルド話があるのは最初の1章のみ。日米比較を論じるときのたとえに使われているだけだ。肩すかしに遭った感は否めない。
 
 その第1章の表題は「マックに頼るアメリカ人vs.ラーメンを究める日本人」。マクドナルドは、関東で「マック」、関西では「マクド」と略される。僕は朝日新聞で大阪の論説委員室にいたとき、東京執筆の社説の見出しがマクドナルドを「マック」とつづめているのを、大阪発行紙面だけ「マクド」に直したことがあった。朝日の社説は全国共通が原則なので極めて異例。社内の学生アルバイトたちの声に動かされたからだ。今回も関西流でいく。
 
 この章も、話題の中心は食ではない。日本発のアニメや漫画、ゲームソフトなどが「ジャパン・インパクト」として世界に旋風を巻き起こしていることが熱く語られる。「日本アニメはディズニーに代表される米国のアニメ映画やテレビアニメと何が違うのか?」という問いに対する答えの一つに「ポップ・カルチャーの創出が、米国に比べると相対的に小規模な資本と職人的価値観を持つ人々によって担われていること」を挙げる。
 
 そこで出てくるのがマクドだ。「ビッグ・ビジネスは大きな興行収入を目標に掲げなくてはならないので、市場の最大公約数的な需要・好みを対象にして製作される。それを繰り返していれば、必然的にパターンのマンネリ化や標準化に陥る。これはマクドナルド的ビジネス・モデルでアニメを製作したらどうなるかを想像すれば判ることだ」。これに対して「日本のアニメや漫画には、『ラーメン屋的供給構造』が根強く残っている」というのだ。
 
 ここで著者は、日本のラーメン屋さんを賛美する。「最大公約数の需要(好み)よりも、製作者が自分らのセンスにこだわって、多種多様なものを創出、供給している」「意外性や驚きのあるものが多く、面白い」。たしかにラーメンの食べ歩きは、ふらりと入る店の味がどんなものか予想できないところに楽しみがある。マクドのバーガーも世界一律ではなく、国によって異なるメニューを用意していたりするが、それほどには予測困難でない。
 
 ただ、これを日米対比に直結させるのはどうかな、と僕は思う。最大公約数路線のビジネスを米国型とは呼べるだろう。マクドもスタバも、ケンタことケンタッキーフライドチキンも、ミスドことミスタードーナツも、みんな米国発だからだ。ただ、それと対照的なのはラーメンだけではない。パスタの店を考えてみよう。本場イタリアだけでなく米国を含む世界の隅々に個性ある料理人が大勢いて、「意外性や驚きのある」味を競っている。
 
 最大公約数路線は大量生産時代の落とし子だった。米国社会は、その量産型消費経済がもっとも発達したところだったので、そこに食の巨大ビジネスが生まれ、地球全体に網を張ったと言うことではないか。この潮流が今、曲がり角にさしかかったのである。
 
 それを象徴するのが、昨今のパティシエブームだ。僕が子どものころは大手洋菓子会社のケーキがハレの日の楽しみだった。だが、最近は街の小さなケーキ店に腕の立つ職人がいっぱいいて、それぞれにファンがついている。大手の商品はメディアの目にさらされ、ちょっとネガティブな報道が出るだけで危機に直面するが、街の店の商いは顔と顔を見合わせているので買い手との信頼関係を結びやすい。時代は「スナバ」に利ありなのだ。
 
 ビジネス界には、最大公約数路線のグローバル戦略に向いた領域もある。ITがそうだ。自社の製品が知的財産権に守られ、市場を席巻して標準化が進めば怖いものなしだからだ。ITのパティシエは成立しにくい。ただ裏を返すと、食の世界でも知財や規格をめぐる規制が度を超せば、小さな店の小さな創意が窮地に立つ。地方創生相がスナバ的なるものを本気で応援するのなら、それに見合う寛容な施策が欠かせない。
 
 この本では、「謝罪」の話も出てくる。日本では「何かトラブルが生じた時に、責任があると目される人物や組織が、ともかくまず謝罪しないと肝心の話が始まらない」。たしかに最近は、不祥事の記者会見で責任者が深々と頭を下げる姿がパターン化した。著者によれば「日本人の話し合いは『情緒の共有』を基盤にして初めて成り立つ」が、米国流はディベート文化を背景に「謝罪するかどうかは事実関係を究明してから」なのだという。
 
 カナダ出身のサラ・カサノバ日本マクドナルドホールディングス社長は、「鶏肉」でも「異物」でも会見で陳謝した。その様子を見て、努めて日本標準に合わせているような印象を拭えなかったのは僕だけか。最大公約数路線には文化の壁もつきまとうのである。
(執筆撮影・尾関章、通算267回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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