『言葉にのって』(ジャック・デリダ著、林好雄、森本和夫、本間邦雄訳、ちくま学芸文庫)
写真》ポストモダン? それともモダン?

 ポストモダンという言葉を僕が初めて耳にしたのは、就職前の1970年代半ばだった。当時からぶらぶら歩きが好きで、街の風景のことなどを雑談の種にしていたものだ。そんなとき、建築専攻の友人から教えてもらったのである。
 
 ちょうど、東京が箱だらけになっていたころだった。箱とは、ニューヨークに聳える国連ビルふうの直方体建築のことだ。大は東京・新宿副都心の超高層ビルから、小は繁華街のペンシル形雑居ビルまで。その立ち姿から、機能本位の空間は四角いとみて疑わない信念が見えてくる。この機能志向は近代主義、すなわちモダニズムとも言い換えられるので、それに対抗するデザインがポストモダンと呼ばれるようになった。
 
 ポストモダン建築は、建物の外観に丸やら三角やらを取り込んだものが多かった。その気まぐれとも言える幾何模様は建物の使い勝手とは関係ない。機能ばかりでなく遊び感覚も、というメッセージがそこにはあった。
 
 ただここで、機能的なのは果たして四角だけか、という疑問がわいてくる。鉄道であれ、自動車であれ、車は丸い。測量と言えば三角。むしろ、あらゆる幾何図形を駆使して機能を追い求めたのがモダニズムだったと言えよう。これなら、17世紀のニュートン物理学も18世紀の産業革命もあてはまる。四角は、そのワン・オブ・ゼム。19世紀に鉄とコンクリートの建築文明が芽生えて、一気に広まったのではないか。
 
 そして20世紀も半ばを過ぎて、ポストモダンの登場となる。人の体は幾何図形に収まりきらないし、人の心は不定形の極みだ。モダニズムは窮屈に感じられたのだろう。四角だけが悪者になったのは、建築に限ったことなのかもしれない。
 
 ポストモダンは、建物の話だけではない。文化のあらゆる領域で「近代後」の新しい流れが起こった。哲学、思想に絞れば、それは難解なものが多い。きっと人間という存在の不定形さを意識したものだからに違いない。
 
 で、今週は、フランスでポストモダンの系譜にある哲学者の本。『言葉にのって』(ジャック・デリダ著、林好雄、森本和夫、本間邦雄訳、ちくま学芸文庫)。著者は1930年、アルジェリアのユダヤ人家庭に生まれ、2004年に他界した。この著作は1997年〜99年、フランス公共ラジオの二つの番組で、対談あるいは鼎談形式のインタビューに答えた中身を採録したものだ。
 
 デリダ哲学と言えば「脱構築」である。その要点を早わかりするには、訳註を引用するのがよいだろう。それによると、「西洋形而上学を批判する作業」では、哲学が「みずからを構築として自己批判することが不可欠」になる。「哲学の脱構築」である。デリダは「批判される哲学も批判する哲学もともにエクリチュール」とみて「脱構築もまたエクリチュールの実践のただ中で行なわれる」と考えた。
 
 この「エクリチュール」も難物だ。もともとは「書く(エクリール)」の名詞形で、「パロール(音声言語)」に対置される。ただ訳註によれば、デリダのエクリチュールは、音であれ文字であれ「言語を発現させる活動、その活動を可能にする、言語の差異的構造」を指すのだという。デリダは、言葉ばかりが踊って、その根っこにある言語のしくみが隠されてきたところに西洋形而上学の弱点を見たのだろうか。
 
 この本では、デリダ自身も脱構築のことを語っている。それは、現象学にかかわる話だ。フッサールを引くかたちで「現象学は《実証的》な動作、すなわち、あらゆる思弁的な理論的前提、あらゆる先入観を脱ぎ捨てて、現象に立ち戻ることができる動作」という認識が示される。そこでは、物事そのものではなく「それが私に現われるがままの、その私に対する現われ」が記述されるという。この文脈で、脱構築とは何かをこう素描する。
 
 「現象学的な動作(ある伝承物の哲学的な思弁的前提から、おのれを解放したり自由にしたりすること)であるけれども、また同時に、現象学の哲学的な諸主題の建造物の中に、これらの前提のいくつかを見抜こうとする試みでもある」(引用中のカッコは原文のもの)
 
 すなわち脱構築は、物事の「現われるがまま」をみようとする現場に立ち入って、「前提」とか「先入観」とかを徹底して剥ぎ取る作業を指すらしい。近代流の思考の枠組みも撤去対象の中心にあるだろうから、これをポストモダンの試みと呼んでもよいのだろう。
 
 この本がおもしろいのは、その「前提」掘り起しの思考回路で、人の振る舞いや世の出来事を見つめ直していることだ。僕がここでとりあげたいのは、嘘論と赦し論である。
 
 たとえば、嘘は絶対ダメかという難題。あなたが友人を自宅にかくまったとき、追っ手が押しかけてきて、玄関の扉を叩きながら友人がいるかどうかを聞いたとしよう。嘘も方便が成り立つように思うが、カントはそれでも「嘘をついてはならない」との立場を固守した。
 
 デリダは、この話をもちだして「カント自身、彼の実生活において決して嘘をつかないでいることができたかどうか、私にもどうだかわからない」と認めつつ、誠実であることを「無条件の義務」とみるカントの真意を推し量って、次のような論理を展開する。
 
 「私が口を開くやいなや、私は暗黙のうちに他者に真実を語ることを約束しています」「人が嘘をつくとき、それが全面的であるにしろ部分的にしろ、曖昧にせよ朦朧としているにせよ、誰にでも生じていることは、そのとき真実の約束そのものである言語活動の本質と合目的性そのものを裏切っているということです」。嘘をつくという行為は「語っている」とは言えず、むしろ「語ることに違反している」と指摘するのである。
 
 ここには、嘘の是非を超えた考察がある。人の言語活動に組み込まれた約束事をあぶり出しているからだ。それは、現象学や脱構築の試みで「思弁的前提」を探しあてる作業に似ている。デリダは物事の深層を見逃さない。
 
 赦しについては、1990年代、ネルソン・マンデラ大統領就任後の南アフリカ共和国で始まった「真実と和解」委員会のことが話題にのぼる。その使命は、アパルトヘイト体制下で非人道行為や人権侵害が繰り返された近過去を清算し、新しい社会につなげることだった。黒人解放運動にかかわった宗教家のデズモンド・ツツが委員会を率いたこともあって「赦し」がキーワードとなる。だが、これには当然、批判もあった。
 
 デリダの立場はこうだ。「特赦のプロセスがなければ、この国は存続することができなくなるでしょう」「赦しの価値は、法的な裁判の価値とは異質なものです」「ツツが明言しているのは、犯罪者が自分の過失を公的に認めるという条件で特赦が与えられることになる、ということです」「ツツは、後悔を特赦の条件にしようとしているのです」――これらの言葉から感じとれるのは、赦しを支持する姿勢である。
 
 だが、ツツに全面同意はしない。「みずからの非を認めて謝罪する人は、もはや同じ人ではありません」「赦しは、罪のない人や悔悛した人を赦すのではありません」。罪びとが悔いあらためてからの赦しは、もはや本当の赦しではないという理屈だ。赦しは告白などを求めぬ「絶対的な贈与」であるべきで、法的にも道徳的にも「基準のないもの」を「引き受け、堪え忍ぶ」ことで可能になるという。それは、きわめて高度な精神活動と言えよう。
 
 日本社会では、ひたすら頭を下げるばかりの謝罪が儀式化する一方、赦しの文化は萎えているように見える。あるべき謝罪と赦しはどんなものか。ポストモダンの人デリダから、不定形だが底深い思考を学びたいとつくづく思う。
(執筆撮影・尾関章、通算268回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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